第35話

 バス停の目の前が目的の店だった。地方では、近隣の小売店を吸収してショッピングモールに進化したようなデラックスな店舗も見かけるが、ここはそこまでいかない、スーパーの体裁を残した中型店といったところ。店の規模に比例する緊張は、ほどほどに止まった。


 暖房の効きすぎたバスを降りると、秋の深まりを告げるような冷涼な横風が耳元を流れて行った。


 業務開始は開店と同時の9時30分。その15分前の入店を指示されていたが、早く到着しすぎてしまった。ベンチを見つけて腰掛ける。祝日といえどもスーパーの開店に行列は出来ないようで、周辺にはまだ朝が色濃く残っている。誰もいない部屋に帰った時のような冷えた空気は、店が活気を帯びるにつれて暖まっていくのだろう。


 この時間は駐車場の往来も乏しく、警備員が所在無げに屈伸運動をしていた。やや大きめの、幕下力士のような身体を揺らしていて、膝を壊してしまわないか心配になった。すり減った革靴の底が目に見えるようだった。


 有希也は両手の指を伸ばして目の前にかざした。昨夜風呂上がりに爪を切ってハンドクリームを塗りこんだ。乾燥する季節だし接客仕事だから出掛けにもハンドクリームを塗るつもりだったのに、忘れてしまった。


 万端に準備しても手落ちがあるのは有希也の癖のようなもので、ハンカチやポケットティッシュなどの物理的な忘れ物から、最寄り駅から目的地までの所要時間の調べ忘れまで、気を付けていても時々やってしまう。ネットでできる店舗在庫の確認を怠り、店に行ったら売り切れだったこともある。


 その度に見通しの甘さに腹が立ったものだったが、最近になって、完璧主義の粗探しだと思い至った。ハンカチを持ち歩く習慣があるからこその忘れ物で、細かい部分まで気が回るがゆえに粗も目に付くわけだ。一度のミスを記憶する、物覚えの良さも手伝った。

 

 いまでは、常に100点を求める必要はないと思うようになっていた。その方がストレスも軽減される。身体が変わってもそれは変わらない。今日だって、ささくれもないし血が滲んでいるわけでもないのだから、ハンドクリームはなくても問題なかった。


 業務中もいくつかミスはするだろう。初めてで完璧にはこなせない。90点とれれば御の字。それぐらいが丁度いい。



 頃合いの時間になり、有希也は裏手にある従業員入口に向かった。窓口にいる警備員に来店の目的を告げ、クリップボードに留められた用紙に氏名と所属会社を記入する。うっかり『上村有希也』と書いて黒く塗りつぶす、そんな安っぽいミスはしない。入館時の記名は想定済み。受け取った入館証を首から下げた。


 アルバイトに不慣れな頃は、この手の手続きにも尻込みしたけれど、いまはアクセルを踏み込むように気持ちが高揚していく。同じ階にある事務所への経路は、リングへ続く花道のようだった。



 開店前の店内を、足を引きずるようにして歩く見慣れない男に、開店準備に勤しむ従業員の横目が注がれていた。迂闊に近づいて火傷しないよう遠巻きに観察している。


 その視線が有希也の遊び心をくすぐった。一つかましてみようか。一計を案じた有希也は、行く先に手頃なターゲットを発見した。ハンガーにかかったコートを整えながらチラ見してきた衣料品売り場のおばさん。ちょうど直線上にいた。


「おはようございます。今日一日福引の業務を担当する津原です。よろしくお願いします」

 有希也は新人セールスマンのように自己紹介をして頭を下げた。


 まだ目覚めきっていない店内にその声が響いた。


 おばさんは不意を突かれたように「あら、そう、よろしくね」と間に合わせの返事をして元の作業に戻った。


 黙っていると良からぬ噂を立てられかねない。こういう時は先手必勝で、自己紹介をすれば、その瞬間「足を引きずった得体の知れない男」が「福引のスタッフ」に縁取りされる。案の定そばにいた店員たちは視線を各々の手元に移した。何はともあれ元気に挨拶しておけば悪い方には転ばないものだ。



「失礼します」

 ノックして事務所のドアを開けた。机やパソコンが並び、壁際にコピー機が置かれたいかにも事務所然とした部屋の中で、4人ほどが机に向かって作業している。9時を回ったばかりなのに、蛍光灯が黄ばんで見えた。

「おはようございます。テラスコーポレーションから派遣された津原保志です」

 部屋中に響き渡るように挨拶すると、一番奥でパソコンを操作していた白いワイシャツ姿の男性が手を止めて立ち上がった。


「津原さんですね。佐藤さんからお話は伺っています。店長の中山です。今日は一日よろしくお願いします」

 佐藤と同じ30代半ばぐらいの爽やかそうな人で、浅黒い肌はサーフィン焼けを思わせた。海のない山梨県から、クルマで海へ行くのだろう。


 事務所の隣にある更衣室を案内され、青い法被を渡された。電話で佐藤に「上に法被を羽織るからワイシャツとスラックスで」と指定され、今日も面接の時と同じ格好で来ていた。

「まだ他の方が見えてないんで、先に着替えて待っててもらえますか」

 中山はそう言って壁に立て掛けてあったパイプ椅子を開いてくれた。

「困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」

 白い歯を見せて事務所へ戻って行った。


 中山は足元を観察することはなかったが、それは紹介者である佐藤に対する信頼のように思われた。

 この店を任されるぐらいだから若くても仕事が出来て人望も厚いのだろう。佐藤と親しいとはいえ、足の不自由な、海のものとも山のものとも分からない新人アルバイトを使ってくれるところにも懐の深さを感じる。佐藤にしても、あの人じゃなければ登録してくれなかったかもしれない。津原が積み立てていた出会い運というか縁のようなものが満期を迎えたのかもしれない。

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