第34話

 テラスコーポレーションから最初に紹介された仕事はスーパーマーケットのイベントスタッフだった。買い物金額三千円ごとに1回参加できるガラポン抽選会を4人のスタッフで運営する。機材は店のものを使用し、設営撤去も店の人がしてくれるため、派遣スタッフの業務は福引に関する接客のみで、1日限りの仕事。


 開店の9時30分から15時30分までを担当する早番に一人空きがあり、「立ち仕事なんだけど歩かずに出来るからどうかな」と佐藤が勧めてくれた。ここの店長と佐藤が大学時代からの知り合いで、事情を話したら了承してくれたという。派遣アルバイトは事前研修が必要な仕事もあるが本件はそれがなく、当日店に行くだけでいいとのことだった。


 時給は1200円。休憩30分の5時間30分の勤務で、日給換算で6600円。交通費の支給はないが、自宅から店までバスで一本。佐藤は通勤時間まで配慮してくれていて、有希也は是非お願いしますと引き受けた。


 仕事に関して不安はなかった。大切なのは慣れ。慣れれば大概のことはどうにかなる、とあれこれアルバイトをこなすうちに知った。ミスは誰でもするものだし、わざとでないのなら引きずる必要はない。

 短期の派遣に責任の重い仕事はやらせないし、今回は金銭は扱わないとのことで精神的な負担も少ない。有希也はアルバイトという行為自体に慣れていて、初めての現場でも臆することはなかった。


 問題は立ちっ放しに耐えられるか。佐藤は「しんどくなったら休んで」と言ってくれた。ふちまで注いでこぼしてしまえば床を拭く手間が増えるだけ。障害に限らず、具合が悪い時は申告した方が往々にして大事に至らずに済むもので、辛くなったら正直に申し出るつもりだ。



 当日はいつもより眠りが浅く、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。秒針は役目を忠実にこなしていて、時計が止まって寝過ごし、という起きぬけの悪夢は現実にはそうそう起こらない。


 朝食は昨日のうちにコンビニでおにぎりを買っておいた。万が一にも遅刻しないための時短策で、しなしな海苔好きの有希也はツナマヨとおかかの2個セット。消費期限を少し過ぎていても、この時期ならさほど気にならないし、味も変わっていなかった。お茶は自分で淹れる。この身体は胃腸が丈夫と分かっていても朝から冷たいものは飲めない。


 接客業は身だしなみが肝心で、身だしなみは清潔感から。寝ぐせや目ヤニが付いていたら減点。ひげは昨夜剃った。これも時短策の一つで、一晩ではさして伸びない。

 電車が少ない地方では少しの遅れが遅刻につながる。初日から遅刻しては折角仕事を紹介してくれた佐藤さんの面目をつぶすし、信頼を損なって今後にも影響してしまう。


 有希也は支度を済ますとグレーのカーディガンをおろして部屋を出た。陽は射しているけれど気温の上がらない絶好のカーディガン日和だった。


「おはよう」

 玄関を出たところで田中と出くわした。右手にホウキ、左手にちりとりの格好で、日課のアパート周りの掃除中だった。これをしないと1日が始まらない、ラジオ体操のようなものらしい。


 散髪の翌朝会った時は「誰かと思ったら津原君じゃない」と身をのけ反らせた。取って付けたようなリアクションにおもわずうつむくと「照れることないじゃない。似合ってるわよ」とホウキを逆手に持ち直し「これなら面接にも受かるわよ」と親指を立てた。面接のこと話したっけと記憶を辿ってから、落とされた過去の話だと思い直した。


「今日からよね」田中が言った。


 派遣会社に登録したことは報告してあった。家賃を滞納している手前、釈明をかねて真っ先に伝える義務があった。初仕事が決まって報告したら「よかったじゃない」と相好を崩した。「これで家賃も払えそうです」と返答してから、津原っぽくなかったかなと後悔したけれど「そんなのいつでもいいわよ」と笑顔を保ったままだった。

 出掛けに出くわしたのは偶然ではないのかもしれない。


「昨日武田神社に行ってきたのよ」

 田中はそう言いながらホウキとちりとりを壁に立て掛けた。


 甲府にある、武田信玄が祀られた武田神社はパワースポットになっている、とおしゃべり理容師が話していた。山梨といえば富士山と武田信玄。富士登山は無理でも、武田神社には一度行ってみたいと思っていた。


「いいものあげるわよ」

 田中はエプロンの前ポケットから何かを取り出した。腰を屈めて、有希也が手にしていたバッグの持ち手にそれを結びつける。田中の表情が楽しげだったせいで、有無を言わさぬ仕業も嫌な気はせず、突っ立ったままその様子をぼんやり眺めていた。


「これで武田信玄が守ってくれるから大丈夫よ。ほら」と捺印するようにバッグをポンッと叩いた。


 兜をあしらった御守りがぶら下がっていた。中央に『勝守』と書かれている。戦国最強と言われた武田信玄の勝ち運の御守りだ。派遣の仕事に勝ち負けはないけれどたしかに縁起が良さそうで、いいことあるかもしれないと見入っていると「早く行かないと遅刻するわよ」と今度は背中を叩かれた。


「しっかりやんのよ」

 その声に振り返ると、田中は刀に見立てたホウキで「えいっ」と降り注ぐ朝日に一太刀浴びせた。



 普段なら通勤通学の時間帯も、祝日のバスは空いていた。有希也は入口のすぐ後ろの席に座った。体力温存のために、仕事の前は座っておきたい。


 片手で数えるほどしか乗客はいないのに、暖房が効き過ぎて車内は暑いぐらいだった。カーディガンを脱ぎたいけれど、面倒だからそのままにした。


 通路を挟んで反対の窓際に座ったジャージ姿の女の子が俯いていた。目を閉じて、顔をしかめているように見える。気分が悪いようだけれど、イヤホンで音楽を聴いているし、声を掛けるのは躊躇われた。


 女の子は次のバス停で降りていった。しっかりとした足取りでふらつくこともなかったから、思い過ごしかもしれない。


 この身体になって、席を譲られる方も緊張すると知った。受け身な分、譲られる方が緊張するかもしれない。周りはさして気にしていないと思いつつ椅子取りゲームの鬼にでもなった気分になる。


 空いた車内でも、普通の座席と優先席、どちらに座るべきか迷う。お前のためにあるんだから優先席に座って他の席は健常者に譲れ、と思われるかもしれないし、優先席に座っても後から乗ってきた人に、なんでここに座ってるんだ、と思われる可能性もある。


 気軽にバスに乗れるまでもう少し時間がかかりそうだった。

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