第33話

 有希也は登録の関門を無事にクリアした。刑務所から出たよう、とは言わないまでも、埃っぽい部屋から日の当たる芝生の上へ抜け出した感覚はあった。上には大きな空が広がっていて、手を伸ばせば何かをつかめそうな気がした。


 その足で例のアパレルショップに立ち寄った。広い店内に客はまばらで、平日の午後の落ち着いた時間が流れていた。老婦が老夫に赤いセーターをあてがっていた。「ちょっと派手じゃないか」「似合うわよ」息の合ったやり取りが聞こえてくるようだった。


 ここの店員は他所のようにうるさい声掛けをしないし、制服やエプロンを身に付けてもいないけれど、「店焼け」でもしているかのように、首から提げた社員証を見ずとも気配で見分けがつく。


 店内を巡回しても、あの子の姿は見当たらなかった。今日は休みか、いまは勤務時間外か。はたまた試着室にいるのか。目の届かないところにいて陰から不意に現れる、淡い期待を抱きながら商品を物色する。


 アパレルはどこも「カレンダー2枚前行動」で、すでに売り場の大半をニットやコートなどの冬物が占めている。暗色中心なのに、なぜだか前に来た時よりも色鮮やかに見えた。さして日も経っていないのに店内も奥行きが出て広くなったように感じられる。

 鏡に映った自分は、ついさっき駅のトイレで見た時よりいくばくか背筋が伸びていた。


 津原になって初めて迎える冬は痩せた身体には堪えそうで、厚手の上着が欠かせない。今日は買う予定のないアウターもチェックしておく。上村有希也はこの冬ロングコートを買う予定だった。ネットで見つけたキャメルのコート、店頭で実物を見てから買うのが楽しみで、少々値が張るけれど仕事とプライベート兼用にしようと考えていた。それはもう終わったこと。


 この身体には軽いダウンジャケットがいい。手に取ると重量感はなく、着心地がよさそう。無難に黒がいいか、無難でいうとネイビーの方か。明るい色はまだ着る気にはならない。


 保湿を謳ったボディソープを使ったら乾燥肌が改善されて痒みも治まってきた。首周りがチクチクしてニットを着られない事態は避けられそうでも、冬本番はこれからだからまだまだ油断はできない。


 お目当てのグレーのカーディガンはシンプルなデザインで着る人を選ばない。スウェットとも合いそう。これ一着あれば秋は越せるし、今日の面接のようなかしこまった場所にも着て行ける。有希也はカーディガンを携えて試着室へ向かった。この場で羽織ってみてもいいけれどせっかくのチャンス。頬を引き締めた。


 天井にさがった案内板を見なくても場所はわかっている。外から様子をうかがえない奥まった所にあった。抽選箱に突っ込んだ手をぐるぐる回している気分で足を進める。


 ハズレだった。


 そこにいたのは男性店員だった。あの子と同い年ぐらい。髪型は自分と同じ黒髪の短髪、だけど身長は10センチ以上高くて細身で、おまけに顔が小さい。白いシャツを着ているせいで妙に爽やかに見えた。自分とお揃いのシャツのはずが、着る人によってこうも違うのか。嫌味のない笑顔で案内してくれた試着室に入ると、いつもより人相の悪い津原がそこにいた。



 有希也はカーディガンを買って店を後にした。買い物袋とビジネスバッグ、両方とも右手に提げて歩く。

 今日の予定はこれで終了だが、まだ4時にもなっていなかった。日も高いし、このまま帰るのはもったいない。テレビもないアパートに帰っても退屈なだけ。といって買い物袋を提げて甲府駅界隈を散策する気にはならなかった。


―本でも買って帰るか―


 有希也は高校までは主に小説を読んだけれど、大学に進学してからビジネス書に替わった。自己啓発から法律に関するものまで、全てはいつか起業する日のためだった。

 2、3000円するものもあるビジネス書も、自分への投資だと思えば安い買い物で、得た知識はこの身体になったいまも頭に残っている。

 法律の本は素人には難しかったが、何でもかんでも自分で手を出さず、時には専門家に任せることも必要、餅は餅屋と気づけただけでも価値はあった。


―障害者に関する本があるかもしれない―


 仕事を始める上で役に立つことがきっとある。

 あの部屋に読書の形跡はなかった。中学しか出ていない、テレビもない、友だちもいないでは、知識の入れようがない。せめて本でも読んでいれば津原の人生は変わっていたかもしれない。


 たしか上の階に本屋があったと有希也はエスカレーターへ向かった。その足目掛けて子どもが走って来た。まだ3歳ぐらいか、よそ見をしていて有希也に気づいていない。


―ぶつかる―


 有希也の右足の太ももに肩が衝突して男の子は尻もちをついた。とっさに買い物袋を出してクッションにしたし、幼い子どもの駆け足だから怪我はないはずだが、びっくりしたのだろう。声を上げて泣き出した。「すみません」追いかけてきた母親が有希也に詫びた。「よそ見してからでしょ」と子どもをたしなめてから、「すみません」ともう一度頭を下げた。

 有希也は会釈を返しただけでエスカレーターに乗った。振り向きもせずにじっと足元を見つめていた。

 

―丈夫な足なら避けられた―


 目視出来ていたのに立ち尽くしたままだった。迫りくる相手をかわすのは上村有希也の特技の一つで、高校時代はそのための練習を幾度となく繰り返した。それが、子ども一人避けられなかった。

 相手が大人だったら片足では支えきれずに転倒していただろう。それがもし自転車だったら、自動車だったら。


 面接で佐藤は万一の事故を憂慮していた。いらぬ心配と意にも介さなかったが、俺は今とっさに身を守ることさえままならないハンデを背負っていた。

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