第28話

 散髪の次は買い物。津原の部屋は洋服自体が少ないうえに古くて色褪せたのばかりで、もうずいぶんと新しいのを買っていないのが分かる。あの日着ていた作業着で過ごすことが多かったようだが、すでに処分した。


 財布だけだった作業着のポケット。有希也は出かける時は必ずハンカチとポケットティッシュを持ち歩いた。帰宅時のうがいと手洗いも子どもの頃からの習慣で、自販機にジュースを買いに行っただけでも、それをしないと収まりが悪い。津原の部屋で一枚だけ見つけた古びたハンカチは持ち歩く気の起こらないものだった。

 

 上村有希也は普段から身だしなみに気を配っていた。証券マンは信用が大事で、見た目は人間を判断する上で重要な役割を果たす。一流になるためには格好も一流でなければならない。社会人になりたての頃は量販店のものばかりだったスーツやネクタイが、ポーカーの役が上がるようにブランド品に入れ替わって行った。靴や鞄も安物ではなくなっていたし、腕時計も高級とは言わないまでもそれなりに値の張るものを買った。洗練されていくクローゼットが成長を可視化していた。


 昼に食べたパスタのソースが跳ねたせいで、ワイシャツを買って着替えたこともある。記憶についた染みは落とせないから、人に会う時は尚更注意しなければならない。それ以来取引事の前などは麺類全般を禁止にした。誰に言われたのでもなく、自分で課したものだ。


 我ながらスーツはよく似合っていたがもう2度と、写真ですら見ることはできない。記憶も薄れて、津原保志に上書きされていくのだろう。


 今日は部屋にあった中では一番無難な白のボタンシャツに黒のスラックス、革靴のいで立ち。おそらく津原はこの格好で会社面接に行っていたと思われるが、これも大分くたびれているから新しいのを買ったら捨てよう。部屋にある洋服全部、津原が落ちた面接と一緒にゴミ袋に詰めて捨ててしまおう。



 有希也は駅ビルにあるファストファッション店に入った。客層がてんでばらばらで老若男女が入り乱れているのがファストファッションの特徴も、障害者を見かけた記憶はなかったが、ここの店員はその辺の「人情商店街」よりよっぽど垢抜けた接客をしてくれる。世界標準に日本式がミックスされた、明るく丁寧でそれでいて過剰でなく落ち着いて買い物できるから、この身体でも心配いらない。


 店内のあちこちに設置された鏡の中を、見慣れない男が歩いていた。足を止め、手近にあったニットを取って肩口にあてがう。ニットが気になったのではない。

「さっぱりしましたね」

 おしゃべり店員の声が蘇る。厄までカットしたような光の灯った表情は照明のせいではなかった。出来たてほやほやの新しい顔。頬を緩めると鏡の中も笑った。横を向くと鏡の中も横を向いた。剃毛が久しぶりのせいか頬が艶やかに見えた。

 手にしていたニットは身体よりも二回り大きいXLサイズで、我に返って周りを振り返ったけれど、誰の視線も向いていない。


 津原保志はやはりSサイズが丁度いいようだ。XLだった上村有希也と比べて随分とコンパクトで、同一価格なのは不公平に思えるが、床屋だってどれだけ切っても同じ料金。計り売りではないのだし、いままでは恩恵に与ってきた側だ。

 

 有希也はジーンズが好きだった。四季を通じてのマストアイテムで、あの日もジーンズを履いてた。身長があって適度に筋肉も付いているから、夏場はジーパンとTシャツだけでも格好が付いた。


 この身体になっても履きたかったけれど、歩き難いのは試着せずとも想像がついた。着脱にも手間がかかる。機動力に欠けるジーンズは津原保志には足枷になってしまう。


 定番アイテムが使えないと選択肢が狭まる。それで津原はファッションに興味を持てなかったわけでもないだろうが、一因にはなっているかもしれない。夏はTシャツ、冬はコートを着るように、津原には歩きやすさも判断材料で、作業着を愛用したのもそのせいか。


 近頃は動きやすいジーンズもあるし、もっとこの足に慣れたら履いてみようか。だけど小柄で痩身の津原には似合わない気もする。せめてもう一回り大きくなればぐっと印象が変わるかもしれない。



 結局チノパンを選んだ。定番のベージュとスラックス代わりの黒の2本。試着室へ行くと若い女性店員が「何かありましたらお声掛けください」と笑顔で空いた部屋を案内してくれた。足を見て言ったのか、誰にでも言っているのか、区別のつかない自然な言い回し。やっぱりこの店の売りは洋服だけではない。


 そこは正面が鏡で、左右と後ろは白一色。見慣れぬ津原と向かい合うと、天の啓示が降りてきそうな気配がするが、服が映えるよう壁を白くしてあるだけで、聴こえてくるのは店内BGM。


 広めの部屋で、腰を下ろして履き替えることができた。ほかのアパレル店だと服を脱ぎ始めたところで「いかがですか」と訊ねてくることもあって、なんと答えればいいか言葉に詰まってしまうが、ここはむやみに声をかけることはなく落ち着いて試着できる。


 オーソドックスなチノパンだから似合うかどうかではなく、サイズ感を試すだけ。一番下のサイズでもベルトが必要ないぐらいで、改めてこの身体のやせ具合を実感した。


 女性店員に裾上げの採寸を頼むと「最近は短めも流行ってますよ」と勧めてくれた。歩くのも着脱もこの足なら裾は短い方がいい。それを見越して言ってくれた、と考えるのもあながち的外れではないほど若いのに仕事の出来そうな店員だった。てきぱきした動きの割りに押し付けがましくなく、しゃがみこんで裾を折る仕草も窮屈さを感じさせなかった。


 ほかにワイシャツ代わりの白のボタンシャツに、ベージュのチノパンに合う黒のスウェットシャツと濃紺のボタンシャツ。靴下とハンカチを2枚ずつ。


 津原のパンツはどれもゴムが伸びたよれよれのトランクスばかりで、ボクサーパンツに買い替える予定だったものの、トランクスの方が履きやすそうに見えた。人に見られるものではないから、今日のところはボクサーパンツとトランクスを2枚ずつにした。


 封筒の金はまだまだ残っていいるし、ファストファッションだから痛い出費にはならない。本当はもっと買いたかったけれど、嵩張るから今日はこれぐらいにする。また今度、面接の帰りにでも買えばいい。


 会計を終えると、有希也はさっそくトイレに入って買ったばかりの白シャツに着替え、履歴書用のスピード写真を撮った。出来上がった写真は鏡で見るよりいくらか劣っていたものの、昨日までとは見違えるほど清潔感のある青年になっていた。

 ハンサムとかイケメンとかはお世辞にも言えなくても、短い髪とこけた頬、一重まぶたがしゅっとしていて、何かの職人のように見える。津原は縫製や加工の職に就いていたのだからそういう素養はあるわけだ。


 見た目で大切なのはセンスより清潔感で鼻毛や爪が伸びているのは論外。これなら外見で面接を落とされることはないだろう。


 派遣会社は駅前のビルの7階。まだ新しい、いかがわしさとは無縁のビルだった。中まで入る必要はなく、場所と所要時間を確認して今日の目的は達し、有希也は帰宅の途についた。


 車窓に夕日が反射していた。10月も半ばに入って日没が早くなり、白いシャツが橙に染まっていた。スーツ姿が行き交う駅を通り抜け、日暮れの道をバスに揺られていると、ふといつもの帰り道のような既視感を覚えた。津原保志も仕事をしていた頃は毎日こうして帰宅していたのだろう。秋の夜の匂いを嗅ぎながら。

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