第29話

 買い物した日は家に帰ってもう一度着るのも楽しくて、洋服を買い込んだ後は自宅ファッションショーが開催される。返品を考慮して付けたままのタグがうなじをつつくけれど、今日のはどれも着回しのきく定番だし、安価だから、不良品でない限り返品する予定はない。


 まずはチノパンから。裾上げした裾は、思ったより短く仕上がっていた。くるぶしが丸見えで、冬を迎えようとしているのに危なくクロッブドパンツになるところだ。店員の言った通り、この頃は短めも流行っているし、この方が歩きやすそうだから良しとするか。新品のうちは硬い生地も履いているうちに馴染んでくるから、それまでの我慢。


 黒のスウェットシャツに袖を通す。部屋に姿見がないから、洗面鏡でチェックする。歯磨き粉の飛沫で汚れていた鏡もいまはすっかり磨き上げられていた。


 ベージュのチノパンと黒のスウェットのシンプルな組み合わせは、シンプルゆえのおしゃれ感が出る。休日の昼下がりに自然公園を散歩していそうで、冒険的な着こなしよりずっと好印象。白のコンバースとも合いそうだ。

 濃紺のボタンシャツもチノパンと相性ばっちりで、寒くなったら上にカーディガンを羽織るのもいい。中は白のボタンシャツでもいいし、緑のチノパンがあれば着回しにも幅が広がる。

 冬のアウターは、軽いダウンジャケットがよさそう。有希也はかちっとしたものが好きだったが、ロングコートは歩きにくいし、津原には似合わない。


 白のボタンシャツの上から黒のスウェットを着てみた。首元から白の襟が出るだけでインテリ感が出る。津原とインテリ、対極にあるはずが襟だけで印象が変わってしまうとは白襟マジック。スウェット1枚では足りない日にはこのコーディネートをしよう。下がデニムじゃないのが惜しかった。


 このまま今からでもどこかへ出掛けたい気分だった。久しぶりにデートの一つもしたくなる。秋の夜長、肩を寄せ合い夜景でも眺めたい。


―あの店員、可愛かったな―


 ふとさっき見た笑顔が蘇った。店の規則か、化粧は薄く、ネイルもうるさいアクセサリーもしていなくて清潔感があった。控え目な茶色の髪は地毛かな。20代前半ぐらいで、まだ大学生かもしれない。はきはきしていたけれど体育会系より文化系っぽくて趣味は読書、みたいな感じ。仕事も出来そうだった。裾は短かったけど、裁断したのはたぶん別の人。

 電車の中で広告を見た気がするから、この辺りにも大学はあるのだろう。たしか駅にも大きな看板が掛かっていた。山梨学院大学もこの県か。大学生であそこでバイトするってことはたぶん実家暮らし。他県から山梨に出てくるとは考えにくい。

 誰からも好かれそうなタイプに見えたけど彼氏は・・・いない気がする、のは希望的観測。今度行ったら思いきって声をかけてみようか。


 鏡の中でにやけていた顔が、目が合った途端に歪んでいった。


 一重まぶたの細い目、窪んだ頬、薄い唇は血が通っていないように色まで薄かった。しかめた顔は、まるで犯罪者の様。まるでではない、実際に人を殺している。


 そこにいるのは、いくらかましになっただけの津原保志に違いなかった。


―相手にされるわけないだろうが―


 この顔で、背が低くて、中卒で、仕事がなくて、友達もいなくて、足が不自由。どこの誰が相手にするっていうんだ。


 新しい洋服を買ったところで、着て行く当てなどどこにもない。津原保志の居場所はこの部屋しかなかった。


 こんな野郎になにができるんだ。人生をやり直す?どん底からどうやって這い上がれというのか。どれだけ時間がかかって、いくつ年をとるのか。やり直せる保証もどこにもない。


 たかだか二、三百万の封筒の金はじきに使い切る。面接に受かって派遣の仕事ができたところで大金を稼げるわけでもない。

 夢も希望もないから、人を殺すまでに落ちぶれたんだ。


 このままここで年をとるだけ。適当に仕事して、ただ生きながらえて、いい年こいて安月給のアパート暮らし。そのうち歩くこともできなくなって、部屋にこもりきりになって、誰からも相手にされず、看取る人もいなくて最期は孤独死か。


 このまま死ぬのを待つだけ?ふざけるな。上村有希也の人生は希望に溢れていた。夢もあった。それが全部コイツにぶち壊されて、敗北者のバトンまで渡された。


 鏡の中の腑抜けた面を潰してやりたかった。


 どうせ女とも縁のない人生だったんだろう。友達もいない、彼女もいない。この先できる見込みもない。童貞野郎。結婚だって無理。挙句の果てに人まで殺して、カスみたいな、生きている価値のない人間。なんで俺が代わりをしなきゃいけないんだ。死ねばいいんだこんな奴。


―今度は俺がこいつを殺してやる。何もかも終わりにしてやる―


 衝動のまま部屋を飛び出そうとして、足がもつれた。構わず先を急ごうとしたが膝が折れ、右膝を三和土にしこたま打ち付けた。その場にうずくまる。


―どこまで俺の邪魔をするんだ、クソ野郎―


 立ち上がったもののサンダルを上手く履けず、自棄になって裸足のまま玄関のドアに手をかけた。その背中に着信音が響いた。


―なんだこんな時間に―


 振り返っても壁に隠れて見えない電話を睨みつけた。勧誘にしては時間が遅い。このカスに用のある人間などいるはずもない。


 無視を決め込もうとしたものの鳴り止まない着信音は鳴り止まない決意を秘めているようだった。後ろ髪を引かれ、部屋に戻って受話器を取る。


「もしもし」

 その声に聞き覚えはなかった。もっともこの耳に馴染んでいるのは大家の田中ぐらい。津原の知り合いなど、他には誰一人知らない。


「もしもし」

 男はもう一度言った。やや低い声。若くはないが老人のそれでもなかった。


「聞いてるのか」

 どう返事をすればいいのかわからずに、受話器を耳に当てたまま押し黙っていた。


「お前まだ何もやってないだろう」


 最後にそれだけ言って、電話は切れた。

 

 通話の終了を告げる音が流れて、有希也も受話器を下ろした。


―間違い電話か―


 悪戯にしては真に迫っていた。

 水を差された有希也の口からため息が漏れた。手持ち無沙汰になり、グラスに水を注いで一息に飲み干す。空になったグラスを置くと、袖口が水しぶきで濡れていた。

 有希也は着ているものを脱いで、付いたままのタグを切った。


 窓の外には夜闇が広がっている。いま鳴き始めた訳でもなかろうに、堰を切ったように部屋の中まで浸透してきた虫の声に耳を澄ました。


 何の電話だったんだろう?


 諭すような口ぶりだったから、上司か先輩が部下にかけた電話、そんなところだろうが、固定電話にかけるものなのか?いまどき携帯電話を持っていないのなんてこいつぐらいのもの。

 脱いだ服を畳んだ。仕舞う場所がないから、買い物袋に戻して部屋の隅に避ける。


「お前まだ何もやってないだろう」


 耳の中の残響が液体になって奥の方へ流れて行く。わずかな残滓が、そこにむず痒く滞留しているようだった。


 窓ガラスに津原保志が映っていた。髪を切り、不精髭も剃った。服装も小綺麗になった。あの日とは上辺は別人のようだった。


 でもそれだけだ。


—俺もまだ何もしていない—


 少しの時間を過ごしただけ。ようやく慣れてきたばかりで、まだ知らないことだらけ。


―この身体になって、何もしていない―


 津原に出来ること、津原にしか出来ないことを俺はまだ知らない。探してもいない。あるかもしれないしないかもしれない。でもまだ探していない。津原には見つけられなかった探し物を俺なら見つけられるかもしれない。立ったままでは見えなくても、膝をついて手探りすれば指先に触れるかもしれない。


 死ぬのはいつでもできる。でも死んだら全て終わり。探してからでも遅くない。何も見つからなければ、その時に死ねばいい。いまはとりあえずもう少し生きてみるか。

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