第22話
部屋の中から現れた男は、離れて駐車する捜査員に気づくことなく反対方向へ歩いて行った。
浜崎はクルマを降り、遠ざかる背中を見つめた。確かに片方の足、左足を引きずるようにして歩いている。目的の人物で間違いない。慌てて追いかけなくても見失うおそれはなかった。
「身長は、160ぐらいか」
浜崎は細くした目の焦点を男の背中に合わせた。小柄と聞いていたが、離れているせいで余計に小さく見えた。
「そんなもんですね」
浜崎よりも2センチ高い175センチの今井の視線も同じ背中に注がれていた。
「体重は50、ないかもな」
標準体重と聞く『身長マイナス110』の健康な身体には見えない。
「45キロないかもしれませんよ」
遠目で見ると、転んだら折れてしまいそうなほど細かった。
殺された上村有希也は身長178センチの丈夫な体躯の元ラガーマン。それをこの小柄の、足の不自由な男がどうこうできるとは思えなかった。殺人はおろかスポーツや力仕事といった積極的な運動とも無縁に思われた。
予想通り無駄足に終わりそうだ。二人の間を乾いた風が通り抜けていった。
男はだらしなく伸びた髪の毛を振り乱しながら歩いていた。隣人は知った時から障害を持っていたと話したが、路上教習を始めたばかりのような拙い歩き方に見えた。左足を引きずり、高くなった陽に晒されながら、ひたすら歩いていた。
「大変だな」
1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソンで、脱水症状を起こし朦朧としながらゴールしたガブリエラ・アンデルセンの姿が重なった。
「あの足じゃ、自転車にも乗れないでしょうね」
同情を含んだ今井の口ぶりは、捜査員のそれではなかった。
「乗れないだろうな」
浜崎が一段と目を細めたのは陽射しのせいではなかった。右足だけで自転車を漕ぐ姿を思い浮かべていた。玉乗りをしているように心許ないハンドル操作、車輪は右足を踏み込んだ分だけ回転し、後は残りの動力が頼りで、左足はペダルに当たらないよう避けている。風に煽られてバランスを崩したが、左足では支えられずに身体を地面に打ち付けた。耳の奥で自転車の倒れる音が響いた。苦痛に歪む顔、左足の膝には血が滲んでいる。想像なのに物悲しかった。
「アパートから現場まで2キロちょいか。普通に歩いても30分、あの足ならもっとだな」
「往復なら4キロですから。1時間半ぐらいかかるんじゃないですか」
男は歩くのに懸命で、捜査員に気づく気配はない。
「どこに行くんですかね?」
背伸びをしても、眺めは変わらなかった。ストンと落とした革靴の踵がアスファルトを打ったが、男の耳に届きはしない。
「仕事に行く格好ではないな」
部屋着のようなグレーの長袖シャツに同色のスウェットパンツ。下がサンダル履きなのは部屋を出た時に確認済みで、拙い歩き方はサンダルのせいかもしれない。
「やっぱり仕事はしてないんですかね」
隣人は、以前は朝の出勤時に時々顔を合わせたが最近はめっきり見かけなくなった、仕事を辞めたのではないか、と話した。
「平日の昼間にこうして出かけて行くんだからそういうことだろうな。在宅仕事を始めた可能性もなきにしもあらずだけど」
「あの足なら家で出来る仕事がいいでしょうね」
グレーの上下がコンクリートの壁に吸い込まれるようにその姿が見えなくなった。壁の上に金木犀が咲いていた。ちょうど見頃の時期で、その一角が浜崎の目に挿絵のように映った。
「追います?」
横目で問うた今井は両手をパーカーのポケットに突っ込んでいた。その仕草からも質問の意図するところが浜崎に伝わった。自宅は判っている、逃亡の恐れもない、尾行したところで事件とのつながりは見えそうになく、必要性は感じられなかった。
浜崎はポケットの中で加熱式タバコに触れていたが、今は吸うべきでない気がして、取り出しはしなかった。
「そうしとくか」
この道は目的地に続いていないと知りつつ二人は男を追った。歩く足に加速をつけたが、角を曲がると背中が見えた。浜崎は、男が振り返っても顔を識別できない程度の距離を取り、さらにその後方を今井が歩いた。
浜崎はポケットの中でタバコを転がしながら見つめた。
―小さな背中だ―
グレーの服装は舗道のアスファルトに擬態しているかのようだった。不自由な足を引きずって歩く姿は、小さな身体に灯る小さな灯火を絶やさぬよう薪をくべる作業を思わせた。この男はひたむきに生きている。背中にそれが見えた。
不意に男が立ち止まった。視線を上げたのが首の動きで分かった。浜崎は速度を緩めたが、足は止めなかった。背中が僅かに大きくなっていく。
男の目の前を蝶が舞っていた。一息つくのにちょうどいい頃合いに現れたモンシロチョウは、男の顔の前を浮遊し、横顔を迂回するように飛んでいった。つられて男が振り向いた。
浜崎は素知らぬふりで歩き続けたが、男の意識はモンシロチョウだけに注がれていた。どこかへ飛び去ってしまうと男は前を向き直して歩き出した。
髪の毛も髭も手入れされておらず、肌も乾燥気味で、お世辞にも清々しいとは言えないものの、その目はどこか無垢な、澄んだ色を宿していた。
―この男は殺しなどしていない―
理屈ではなく、数多の事件と対峙して培った嗅覚がそういっていた。犯罪を犯した人間は言い知れぬ臭いをまとっている。殺しともなれば鼻腔まで刺激してくるものだが、この男は鼻先をかすりもしなかった。
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