第21話

「アパートの隣人が足に障害を持っている」と証言したのは市役所勤務の20代男性。男が目撃された現場近くのアパートに住んでいた。

 男性は、アパートに越して来て2年になるが隣人は当初から足を引きずっていた、身長は160センチぐらい、と小柄だったという目撃証言とも一致した。事件当夜の様子については、普段から会釈を交わす程度の交流しかなく動向は気にしていない、いつも11時過ぎには寝てしまう、と話した。


 聞き込みから他にも足を引きずった男の情報が得られたが、いずれも同じ男のものだった。異なる情報はなく、事件当夜に目撃されたのもこの男だと思われた。障害であれば事件時に負傷したとの説が崩れる。聞き込みは無駄骨に終わったと捜査本部がため息に包まれた。


 しかしながら今のところ他に有力な手掛かりもなく、手の空いていた二人の捜査員が、足に障害を持つ男の確認に回された。



 所轄署の今井が運転する黒のセダンは目的のアパート、富士見荘の周囲を緩やかに1周してから30メートルほど離れた車道の路肩に停まった。距離は離れているものの富士見荘の正面が見渡せる。対象の男が目撃されたのはここからアパートまでの直線上で、後方に2キロ遡れば事件現場に辿り着く。


 富士見荘はオートロックなどとは無縁の、いかにもアパート然とした質素な様相だった。助手席に座る浜崎はまさきの頭をふと子供の頃の記憶が過った。小学生の頃、同級生がここよりも粗末なアパートに住んでいた。母子家庭で姉と弟と妹の4人きょうだい、皆みすぼらしい身なりで「貧乏」とからかわれていたが、浜崎もからかった口だった。昔を思い出し、今更ながら罪悪感が頭をもたげた。


 該当人物は富士見荘の103号室に住んでいるという。顔写真は見ていないが、一目で見分けがつく身体的特徴の持ち主だった。


 エンジンを切った今井は運転席のサンバイザーを下した。昼の太陽を遮るのと、外からの目隠しのためだった。

 張り込みではないが、今井はワイシャツの上にグレーのパーカーを着て一応のカモフラージュをしていた。隣の浜崎は紺のナイロンジャケットで、ファスナーを上まで閉めていた。


「無関係でしょうけどね」

 今井はフロントガラスの端にアパートを見据えて言った。道中でも一度口にしたことを、手持ち無沙汰になって再び切り出した。ここを訪れたのは該当人物を捜査対象から除外するための消極的な目的と言ってよかった。


「だろうな」

 助手席の山梨県警捜査一課の浜崎も先程と同じ返事をしてから、ペットボトルの水に口を付けた。秋だというのに空気が乾燥していて、のどが渇いた。ひざ元にはすでに新しいミネラルウォーターが置いてあった。今井に買ってやったものだったが、「トイレに行きたくなったら困るので」と遠慮された。目上の人間に勧められたら有り難く貰うものだけどこれがいま時の若者か、と浜崎は心中で苦笑した。


「足に障害があるっていうんですからねぇ」

 今井がこれまで関わった事件に足の不自由な人間が犯した殺人はなかった。歩行に支障があれば人を殺すのは困難に思えた。


「しかし交通量が少ないな」

 浜崎は隣の今井の先の窓外を見て言った。ここに停車してから横を通過したのはクルマと原付バイクが1台ずつ。事件直後は騒がしかったものの、すっかり落ち着きを取り戻していた。

「日曜の夜だと、ここを通る車両はほとんどないだろうな」


「夏ならまだしも今の時期は夜になるとぐっと冷え込みますから、出歩く人もほとんどいませんよ。元々年寄りの多い土地ですし」

 所轄署員の今井でもこの辺りに来ることは少なかったが、周辺情報は頭に入っていた。


「よりによって、よそ者がなんであんなところに行ったんだろうな」

 浜崎はつぶやくように言って首を捻った。地元民でも近寄らないような場所に、被害者はなぜ立ち寄ったのか。加害者は地元の人間か否か、何も分かっていない。


 その言葉につられて、今井は後方を振り返った。事件現場に続く道に陽の光が降り注ぎ、アスファルトに反射していた。あの日の豪雨以降好天の日が多かった。


 浜崎は思い出したようにアパートに視線を戻したが変化はなかった。部屋を訪ねて直接話を聞くことも考えたが、まず自分の目でその姿を確かめたかった。

「人影も少ないな」

 歩行者も自転車もなくひっそりとしていた。


「平日の昼間はこんな感じですよ。子どもたちは学校に行ってる時間ですし」

 時刻は11時45分になろうとしている。


「こんなところで殺人事件が起きたら、そら大騒ぎだな」


「大騒ぎですよ。死体発見の当日は署の電話が鳴りっぱなしでしたから。さっさと犯人を捕まえてくれって。他の業務に支障が出るぐらい。ここ何日かでようやく落ち着いてきましたけど」


「一人住まいの年寄りは、夜もおちおち眠れないな」

 浜崎は数年前に父を亡くし、いまは母親が一人で暮らしていた。70過ぎでもぴんぴんしているが、もし近所で殺人事件が起きたら心細いことだろう。一度持ち掛けて断わられたが、同居を考えた方がよさそうだ。浜崎の頭には白いものが目立つようになっていた。


「パトロールを強化してるって言っても、家の前に警官を立たせてくれって、要求してくる人までいるらしいですから」


「『不安でしたら布団を持って警察署に泊まりにおこし下さい』とでも言ってやればいい」


「そんなこと言ったら本当に来ちゃいますよ」


「布団持って『宿泊しに来たんですけど何階ですか?』って?」

 浜崎は横目で隣を見て、今井はアパートを向いたまま笑った。


 笑い終わると浜崎はポケットからたばこを出した。喫煙歴は長いが、加熱式たばこ歴も4年になっていた。「遠慮せずに吸ってください」と非喫煙者の今井に言われてある。


「しかし実際厳しいな、これだけ条件が悪いと」

 加熱式たばこにつけた口を離してから言った。

「場所が悪い上に、雨に降られたんじゃな」

 あの夜は雨音で目を覚ますぐらいの豪雨だった。現場からどれほどの痕跡を流してしまっただろう。

「目撃者はいない、指紋も出ない、動機もわからない。ないないづくしじゃな」

 そう言うと浜崎はまたたばこに口をつけた。


「財布があって、バイクがあって、死体もあるんですけどね」

 今井は冗談の延長のように言った。


「その調子で、目撃者がいて、指紋が見つかって、動機もわかるといいけどな」

 浜崎が話に乗った瞬間今井の横顔が強張った。視線の先にある103号室の玄関が開いたからだ。

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