第23話

 男は通り沿いにある牛丼屋に入った。有名チェーンを模した黄色を基調とした外観に、丼に富士山が盛られたロゴを掲げているのは県内に5店舗展開する地元の牛丼チェーン。味は大手より幾分劣るものの安さが売りで、『富士牛ふじぎゅう』の愛称で地元住民に親しまれている。


 通い慣れた様子から、ここの常連と思われる。無職で収入が途切れているならこの店は重宝するだろう。

 浜崎はここではない別の店舗を訪れたことがあるが、舌を騙そうとしているように味付が濃かった。好みの味でない上に血圧が高めで塩分を控えている浜崎はそれきり入店することはなく、いまも店外まで流れてくる匂いに胸焼けしそうだった。


 男は食事をしに来ただけだ。これ以上ここに留まる必要はない。引き揚げるか。離れたところで佇む今井に目配せしようとしてはっと気づき、慌てて店の中を覗き込んだ。ガラス張りの外装から店内が見渡せる。


 男は券売機で食券を買い、店内中程のカウンター席に座った。食券を店員に渡し、差し出されたコップの水を口に含む。


 浜崎は店外に置かれた灰皿まで移動し、ポケットからたばこを取り出した。加熱式たばこは灰は出ないが、灰皿はちょうど男の背中がよく見える位置に置かれていた。たばこでカモフラージュし、窓ガラスに貼られた販促ポスターの隙間から観察した。


 側へ行っていいか、目顔で問うてきた今井を制止し、浜崎は食事姿を横目で注視した。男は運ばれてきた牛丼を掻き込むのではなく、そこだけ時間がゆっくり流れているように淡々と口に運んでいた。線が細いから、食も細いようだ。身なりに似合わず、箸の持ち方がきれいだった。


 浜崎は店内から死角になる壁際へ移動し、今井に手招きした。


「昼飯ですか」

 小走りで駆け寄った今井が訊ねた。男は昼食をとっているようだが、それにしては浜崎の目に熱がこもっていた。浜崎は店の方を顎でしゃくってから、牛丼を食べるしぐさをした。


「昼飯ですね」と型どおりに答えた今井に、浜崎は首を横に振って開いた手帳を見せた。そこには『左利き』と書かれた文字が赤い丸で囲まれていた。司法解剖の結果、上村有希也を殺害した犯人は左利きと推定されていた。


 今井はとっさに店内を覗き込んだが、中を確認するなり、我に返ったようにそっと顔を戻した。

「右ですね」

 男は右手で箸を持ち、きれいな箸使いで口へ運んでいた。


「財布は右のポケットに入っていた。金を出したのも、券売機を押したのも、食券を渡したのも、コップの水を飲んだのも全部右手だ」


 期待していなかった通りの結果だった。


「事件の時、右手を怪我してたってことは・・・」

 手抜かりをなくすように訊ねた今井を浜崎が遮った。すでに想定済みだった。

「片足引きずって利き手怪我してたら、さすがに殺しはできないだろ」


「利き手じゃない方では殺しませんね」

 納得したように今井が頷く。


「そういうことだ」

 浜崎はタバコをポケットに仕舞い、息を吐いた。

「戻るか」

 あの男が事件に関与している公算はないに等しく、これ以上ここにいる意味はない。


 店を振り返った今井の顔がどこか名残り惜しそうだった。


「腹減ってるのか?」

 二人とも昼食をまだとっていなかった。


「ちょっとそうですね。この店結構好きなんですよ」

 今井は照れ笑いを浮かべた。


「あとにしとけ。行くぞ」

 浜崎は今井の肩をポンと叩いてその場を後にした。


 あの男にもう用はない。振り返った窓ガラスには日差しが反射して中は見えなかった。



 行きよりもずっと短い時間でアパートまで戻って来た。男の帰宅までは時間がありそうで鉢合わせることはないだろうと、ここまで来たついでに101号室に住むという大家に話を聞いてみることにした。たいした話は聞けないだろうが、これで終わりにしよう。禁煙前の最後の一服のような心持ちだった。


 103号室の前を通ると、日に焼けて色褪せた表札に「津原」と書かれていた。主のいない部屋から物音は聞こえてこない。ドアノブを捻って中を覗きたい衝動に駆られたが、そんな許可は取っていない。


 津原のことを証言した隣人の部屋を通り過ぎ、101号室のインターホンを押すと、ドアにチェーンを掛けたまま、エプロンをしたやや小太りの中年女性が現れた。浜崎よりもいくらか年上の50歳前後に見えた。

 見慣れない男を見上げる怪訝な表情が、警察手帳を見せると一変した。上村有希也殺人事件はこの付近の住民の大きな関心事。不安を抱く人とは対照的に、富士見荘の大家は一度戸を閉めてチェーンを外した。


「何か変わった事はありませんでしたか?」


「残念だけど特にないのよねぇ。協力してあげたいんだけど」


 本当に残念そうな顔を浮かべたから、浜崎は吹き出しそうになった。隣人からは何も聞いていないようだ。隣人は口下手で、自分から積極的に話すタイプではなかった。


「事件があった場所に行かれたことはあります?」


「行って来たわよ。近所でこんな事件があったんだから見ておきたいじゃない」

 浜崎が訊いたのは事件前のことだったが、大家の田中は事件現場を見学してきたと答えた。


「どんな様子でした?」

 一旦大家の話に付き合う。


「死体が発見された日に行ってきたんだけど、警察とかテレビの人とか野次馬とかすごい人で、人疲れしちゃってすぐに帰ってきたわよ。この辺じゃ普段ならお祭りだってあんなに集まんないわよ」


 事件に関してめぼしい情報は持っていないようだ。


「事件が起きる前に行かれたことはあります?」


「あるっちゃあるけど、だいぶ前に通りかかった程度よ。あんななんにもないところ、この辺の人はいかないわよ。犯人は地元の人じゃないんじゃないかしら」


 田中は事件の経緯など、テレビで知った知識を継ぎ接ぎして披露した。素人の推理に興味はないが、田中の推理する犯人像に浜崎はなるほどと頷き、メモを取る仕草をした。好き勝手にしゃべらせた方がひょんな情報が手に入ることがある。まずはリラックスした空気を作り、徐々に核心に迫っていく。下手に住人を話題にして警戒されてしまえば本音を聞き出せなくなる。焦る必要はない。

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