第19話

 警察は殺人事件として捜査を始めている。自覚のない痕跡が現場に残存し、最新の技術で津原保志が捜査線上に浮かぶ可能性もある。

 だからといって家に塞ぎ込んでいれば、要らぬ疑いを持たれかねない。家賃も滞納しているし、職を探していたのは大家の田中さんも知るところで、津原は生活に困窮していたのだから、いつまでも無職でいるわけにはいかなかった。


 すでに有希也は例の封筒の金に手を付けていた。それでもまだ285万円も残っていて、1日1万円使っても285日生活できる。5千円ならその倍で、すぐに就職する必要はなかったが、この金で家賃は支払えない。無職なのに金回りがよくなれば田中さんは不審に思うだろう。あの人には余計な心配をかけたくなかった。


 有希也自身も街へ出掛けたくなっていた。もともと家でじっとしていられない、好奇心旺盛でアクティブなタイプで、テレビも携帯電話もないアパートで過ごすことに退屈を感じ始めていた。身体にも慣れてきて、アパートとコンビニの往復から、行動範囲を広げていい頃合いだ。


 田舎といえども駅に行けばそれなりの人出がありそうで、そうした中での立ち振る舞いを身に付けたい。この足だから階段やエレベーター、エスカレーターの上り下り、改札の出入りから電車の乗り降りまで一筋縄ではいかない。

 電車のドアとかエスカレーターの前でもたもたしていたら舌打ちされるかもしれないし、身体ごとぶつかられてひっくり返ることもあり得る。足が不自由で小柄だから、見下してくる奴もいるだろう。


 人だかりに出れば困難があり、いずれまたコンビニの親子のような目に遭うのは避けられない。

 決意が揺らぎそうになるけれど、逃げていてはなにも始まらないから覚悟を決めるしかなかった。


 まず体験すべきはバスの乗降で、自転車に乗れないし、好きにタクシーに乗るわけにもいかないから、駅まではバスを利用するしかない。上京前はそれなりに利用したけれど、バイクもあるからとんとご無沙汰で、東京でバスに乗った記憶はない。


 バスという乗り物は、乗車口が前だったり後ろだったり、運賃も前払いだったり後払いだったり、乗り慣れていないとなかなか厄介な代物で、乗車に手間取って発車が遅れ、他の乗客から冷たい視線を浴びせられるのは勘弁願いたい。

 いつだったか、バスに乗ろうとして5千円札を出したら、運転手に両替できないと言われ、諦めてコンビニで買い物をして崩してから次のバスに乗ったことがあった。バスにはバスのしきたりがある。なかなか難しい乗り物だが、その割に老人を見かけるのは慣れているせいか。無料だからか。


 有希也は近所のバス停へ向かった。行先はどこでもいい。とりあえず乗って降りてを経験してみたい。


 この日も天気が良かった。まさに秋晴れと言った晴天なのに、その割に気温は上がらなくて過ごしやすい。時折吹く風が、身体を撫でるように流れて行く。乾燥肌向けのボディソープに替えて、肌の痒みはいくらか治まっていた。


 上村有希也は晴れ男だった。迷信と笑われたこともあるが、実際出かける時は天気に恵まれることが多く、天気予報が雨でも外出中は降らず、最寄り駅から自宅までの帰り道で降り始めたこともある。

 いまも晴れ男でいられるのは身体より中身で決まるからだろうか。それとも津原も晴れ男だったのか。いやいや、津原に太陽は似合わない。あの日の豪雨もきっと津原が呼んだのだ。


 ボタンシャツにチノパンといういで立ちだった。白地に青の縦縞のシャツは色褪せしているし正直ダサいけれど、家にある中ではましな方で、目立つ汚れもなく、ボタンも外れていない。Sサイズの小さい服が、津原の身体にはちょうど良かった。

 足元はスニーカー。歩きづらくても、脱げやすいサンダルは今日は回避した。


 左足にもだいぶ慣れ、最初の頃より速く歩けるようになった。左足に乗せた体重を右足に移動させながら反動をつけ、ボートを漕ぐようにリズムに合わせて推進する。そのせいで上半身まで振り子のように揺れてしまうが、そういうものとして受け入れるしかない。

 トレーニングすればもっと早く歩ける。ラグビーで培ったトレーニング方法を試す価値はありそうだ。


 目的のバス停はコンビニへ行く途中にあって何度も前を通過していた。ここがアパートから一番近く、津原も利用していたと思われる。


 ひとりご婦人が立っていてその横に並んだ。ご婦人はどことなく品があって、田中さんと同い年ぐらいなのにずけずけ話しかけて来ることもない。視線を向けてこないのは気遣いか警戒心か、前者だと思いたい。


 津原もバスを利用していたはずなのに、財布の中に定期券やICカードの類はなかった。仕事を辞めて使わなくなって捨てたか、あるいは払い戻しをしたか。


 ほどなくしてバスが到着した。気にしたことのなかった『ノンステップバス』の表示に目がいった。ご婦人に続いて乗車する。入り口は中央の扉、整理券が出ているから運賃は後払いのようだ。


 今までも目にしてきた『ノンステップバス』の表示は何を意味しているのか今一ピンと来ていなかったが、子供の頃に乗ったバスはドアの先に銀色の踏み台みたいなものがあって、よっこらせと昇った記憶がある。それがなくて、段差がないから『ノンステップ』か。確かにこれだと楽に乗り降りできて足が不自由な人に優しい。おかげでスムーズに乗車できた。


 車内は席がいくつか空いていて、ご婦人は空席を見付けて座った。有希也も着席しようとしたもののよく見ると空いているのは、一番後ろの長椅子と、二人掛けの片側だけ。後ろまで行くのは面倒だし、誰かの隣に座るのも気が引けて、立ったままでいいかと吊革を掴んだら、制服を着た女の子が「どうぞ」と座席を立った。一人掛けの座席だった。「えっ、あ、どうも」とあたふたして座ったら、その子は横に立って何事もなかったようにスマートフォンに視線を落とした。


 窓ガラスに映る自分の顔、昼間だからよく見えないが、赤くなっている気がする。「どうも」じゃなくて、ちゃんと「ありがとう」って言えばよかったな。予想はしていたのに、いざ本番になると上手く言えなかった。


 まともに礼も言えない奴に見られたかな。障害者なんだから譲られて当然と傲慢な奴と思われたかもしれない。参ったな。そんなつもりないんだけど。

 街中で困っている人を見かけても声を掛けるのが気恥ずかしくて躊躇して、心残りがすることがあったけれど、逆の立場でも同じことがあるんだ。


 久しぶりに乗ったバスは、思いの外揺れるバスだった。


 降りる時にしっかり「ありがとう」と言おうと思っていたら、彼女が先に降りてしまった。窓越しに会釈だけでもしたかったのに、背中を向けて、バスと反対方向に歩いて行った。


 ちゃんとお礼が言えなかった。親切にされて、悔いが残った。せっかく座っていた席を譲ってもらうのも申し訳ない。運賃は一緒なんだし、彼女にも座る権利がある。だけど、どうぞって言ってくれたのだから断わるのも違うよな。老人に席を譲ろうとして年寄扱いするなと文句を言われたという話も聞いたことがあるし、せっかくの好意はありがたく受け取りたい。


 今後もこういうことに出くわすだろうけど、どうしたらいんだろう。上手く立ち回れるようにならなきゃいけないな。津原はどういう対応をしていたんだろう。場数を踏めば慣れるのかな。


 両手で顔をぬぐった有希也の目に、反対側の席に座っているおじさんが見えた。席から落ちそうなぐらいに身体をはみ出し、よだれを垂らして眠っている。


 肩の力がすっと抜けた。バスぐらい気軽に乗ればいい。譲ってくれる人がいたら有り難く座らせてもらおう。譲ってくれなくてもそれはそれ。それでいい。

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