第18話

 有希也は少しずつ津原保志の身体に馴染んでいった。


 トイレに入ったり、洗濯物を干したり、初めのうちはそれこそ鼻クソをほじくるだけでも一々意識したものが、いつの間にか気にしなくなっていた。引っ越し先の新居に馴染んで行くように。有希也は身体ごと都内のマンションから田舎のアパートへ引っ越したわけだ。


 同じ人間だから、身体が二回りほど小さくなっても左足を除けばとりたてて不自由は感じなかった。実地訓練を受けている感覚さえ抱いた。日を追うごとに津原保志の操縦が上達していった。


 部屋の隅に放置されたまま用をなしていなかったゴミ箱に、狙いを定めて丸めたティッシュを投げ込む。最初は狂いがちだった手元もいまは十中八九命中する。


 時計を見詰めて、長針が12を指したところで目を閉じる。頭の中で60秒カウントして目を開けたら、ぴったり12を指していた。感覚的な部分もすり合っている。


 以前テレビで見た認知症予防の指運動。両手の指先を合わせて、親指から順に指先をぐるぐる回していくのもやったみた。


 指先まですっかり自分のものになり、箸も上手く使いこなせるようになった。不自由な足も身体自体は慣れていて、後は有希也が使いこなすだけ。


 その分、元の身体の記憶は薄れていくが、寂しく感じないのは上村有希也は今もこうして生きているから。死の意識より生の実感の方が強かった。


 津原保志という人間についても色々と分かってきた。

 

 津原の身体は常に便秘ぎみでお腹の緩めな有希也とは対照的。小便の回数も少ないから、食物繊維の不足ではなく、立ったり座ったりが面倒でトイレを我慢するうちにこういう体質になったのかもしれない。その方が有希也にもありがたい。


 やっかいなのは乾燥肌で、冬前なのに脛から背中まで全身かゆくなる。体質か、栄養不足が原因かもしれない。運動不足でなると聞いたこともあるし、安物のボディシャンプーのせいとも考えられる。ボディクリームが効くだろうか。冬本番までに改善の余地はありそうだ。


 心なしか、津原はホクロが少なかった。上村有希也は左目の下、黒目の下の頬骨の辺にホクロがあったし、左肩や右手親指の付け根にも目立つのがあった。津原にも右の頬にホクロがあるが、輪郭のライン上にあって正面を向くと目立たない。他にも小さいものはいくらかあるけれど、目に留まるようなものはなかった。ホクロは紫外線が原因だと聞く。引きこもりがちで太陽を浴びていないから生成されないのか。


 思った通り、友達はいない。誰もアパートを訪ねてこないし、電話もかかってこない。話し相手は田中という大家だけ。それも顔を合わせると一方的にしゃべって、話し終えるとすっきりしたように帰って行くという具合。田中の性分もあるが、口下手な津原に返答を求めない気遣いも含まれているようにも感じられた。やはり津原の味方のようで、家賃を請求してきても怒っている風ではなく、一般常識を教えるためにあえて叱ってくれているようにすら思えた。


 隣人は同年代の男性で、お堅い仕事に就いているらしい。津原に負けず劣らず大人しそう、というか暗そうな人で何度か顔を合わせても会釈する程度。以前にトラブルでもあったのかと心配したが、嫌っているというよりコミュニケーションをとるのが苦手なようだ。似た者同士のお隣さん。その方が要らぬ詮索をされずにすむから助かる。


 たまに鳴る電話は勧誘で、利用明細を見ても基本料金以外ほとんどかかっていない。それでも職探しのためか、家賃は滞納しても電話料金は支払っていた。


 相変わらず猫は懐いている。餌が欲しいからか。現金な猫だ。ペットフードの類は空き缶すら見当たらず、小食な津原は残した食事をあげていたとも考えられる。可愛がっていたのではなく、残飯処理か。でも残しても次の日自分で食べればいいし、可愛がられていなければあの懐き方はしないか。


 名前を付けたくて、布団の中で暗い天井を見あげて頭をひねった。猫らしいのがいい気もするけど、猫らしくない方が面白い。でも面白いかどうかで決めるのもよくないから、最終候補に選んだ3つを実際に呼んで一番反応が良かったものに決めよう。


 ありふれたミケとかタマでは面白くない。といって野良猫にショコラとかマカロンはお洒落すぎる。オスかメスか知らないから、どっちでもOKな名前がいいな。白黒だから『パンダ』はどうだろう。猫にパンダ。ちょっと面白い。よし、あいつは今日から『パンダ』だ。野良猫のパンダ。絵本のタイトルみたい。「野良猫のパンダは、今日も餌をもらいにアパートにやってきました」読み聞かせに使えそう。


 呼んだらどんな顔するかな。喜んでくれるかな・・・、でも待てよ。すでに名前があるかもしれない。さすがの津原も『猫』とは呼ばず、なにかしら呼び名があったんじゃないか。名前を呼ばないのを不審がっているかもしれない。違う名前で呼んだせいで寄り付かなくなったら悲しいな。


 名前はあるかもしれないしないかもしれない。永久に謎のまま。なんだか急にミステリアスに思えてきたけど、いたって普通の白黒の猫。でも中身が変わったことに気付いているとしたらあの猫か。


 何より気掛かりなのは事件のことで、テレビがないからせめて新聞を取りたいところでも、津原のことだからずっと取っていないだろう。警察は新聞販売所を廻って聞き込みをすると聞いたことがある。地元の地理に明るいし、郵便受けに新聞が溜まったままなど異状に気づきやすい。


 急に取り始めたら目を付けられそうで、コンビニで買うことにした。上村有希也は仕事柄日経新聞を購読していたが、知りたいのは経済情勢ではなかった。


 死体が発見された日、陽が暮れるのを待って有希也はコンビニに行った。コンビニは現場とは反対方向で距離もある。場所のせいか時間が経ったからか、町並みは普段通り落ち着いていた。田舎町で起きた物騒な出来事に、パトカーが巡回して警戒に当たっていると思ったがそれも見かけなかった。


 仔細が書かれていそうな地元紙は夕刊を発行しておらず、全国紙を買った。ただし山梨版。すぐにでも確認したいのを我慢して、アパートに帰ってから紙面を開いた。


『山梨の山林に男性遺体 殺人の疑いで捜査』の見出しで社会面に掲載されていた。被害者は、会社員、上村有希也さん(25)。遺体発見の状況と頭部の損傷から警察は殺人の疑いで捜査を始めた。


 紙面片隅の3段ばかりの小ぶりな記事で、写真は掲載されていなかった。当事者や関係者には人生を一変させるほどの事件でも、他人には見知らぬ人間が死んだに過ぎない。冷たいように思えても、自分もいままではそっち側の人間だった。


 翌日の地元紙の朝刊は、これよりは若干大きい扱いだったが内容は似たようなもの。知ったことばかりで、真新しいことは載っていなかった。


 被害者だけど加害者でもあって、捜査の進展は望まないが、どの程度進んでいるのだろう。殺人事件を担当するのは捜査一課。警察に関する知識は刑事ドラマで仕入れた程度にすぎないが、捜査の基本という聞き込みはすでに開始しているか。

 目撃者がいて、片足を引きずっていたと証言すれば一発だが、いまのところ警察の接触はない。町を歩いていて変な目で見られることもなかった。アパートとコンビニを往復するだけだけれど、物珍しそうな視線を受けることはあっても殺人犯に対するそれではないし、あとを付けられている気配もない。


 雨中で転んで手のひらを擦りむいたものの、現場に流れた血は上村有希也のものだけ。平常心ではなかったから確証は持てないが、津原の手で有希也に触れたのは、暗闇の中に倒れている腕をとっさに引いた一度だけ、懐から封筒を取り出した時は身体や衣服には触れていない。指紋は残っているだろうか。


 自動販売機周辺は砂利だったから足跡は残っていないのではないか。落下した地面と登った壁に足跡が付いていて、それが右足ばかりなら目をつけられかねないが、今のところ何もないのは、豪雨で流れてしまったのではないだろうか。

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