第16話

 食事を終えると掃除を再開した。


 ようやく部屋の隅でホコリをかぶっていた掃除機の出番。「医者の不養生」の遠縁に当たりそうなこの掃除機のスイッチをオンにすると窮屈な音がする。中の紙パックが一杯になっていた。

 案の定部屋を探しても替えのパックは見当たらず、応急処置として割り箸を突っ込んでホコリにまみれたティッシュペーパーやレシートをほじくり出すと塵が舞った。津原がこいたスカンクの屁みたい。臭いがないのが救いだった。


 拾えるゴミは捨てて、後は細かいゴミとホコリを吸い取るだけ。普段は騒音でしかない掃除機の稼働音が、今日は清潔に近づく足音みたいで心地良い。全開にした窓から例の大家のおばさんの部屋にも届いているかもしれない。次に会ったらまた何か言われるかな。悪い人ではなさそうだったし「きれいになってよかったじゃない」と褒めてくれるかもしれない。口元がふっと緩んだ。


 いい天気のおかげで、干した布団は乾燥し、洗濯したシーツや枕カバーはすぐに乾いた。シーツの汚れは気にならないぐらいに落ちたけれど、生地は薄くなり、破れもあるから買い替えた方がよさそうだ。


 見違えるほどきれいになった部屋で、有希也は布団の上に大の字になった。古い布団は干したてでもふっくらしていなかったけれど、ホコリが片付き、呼吸が心なしか気持ちがいい。窓から流れてくる風が食後のデザートのみたいに疲れた身体を癒してくれた。


 マンションの天井は何色だったっけ?昨日まで住んでいたのに記憶が曖昧で、たしか白だった。この部屋のベージュの方が見慣れた感覚がある。津原の目に焼き付いているのかもしれない。目を閉じると、この部屋で津原が過ごした記憶が蘇ってきそうで、有希也は瞼の裏をみつめた。


 窓の外を原付バイクが通過した。他の部屋の住人は仕事に行っている時間か。在宅は管理人ぐらいで、エンジン音が消えると静寂が包んだ。

 他の住人の記憶を引き出してみようと、目を閉じたまま念じてみた。深呼吸を繰り返しながら瞼に集中し、全身の力を抜いてイメージを膨らませる。出かけようと玄関を開けところで隣の部屋の住人と出くわす。どんな背格好、服装、年の頃だろう。しばらく粘って深呼吸を続けてみたけれど、記憶が降りてくる気配はなかった。


 それはそうか、脳みそは上村有希也だもんな。諦めて苦笑気味に身体を起こした。思い出したように鼻毛を切った。鼻毛切りは見当たらず、普通のハサミを使った。手元を誤ると肉まで切ってしまいそうで、手前の方だけの応急処置に留め、手応えがなくなってきたところで止めにした。最後にフンッと鼻息を飛ばして、ちっともありがたくない鼻毛の断髪式を終える。



 隣の部屋の玄関が開閉する音が聞こえた。時刻は午後6時になるところ。7時起床、6時帰宅とはずいぶん規則正しい生活をしているようだが公務員か何かだろうか。話し声は聞こえないし、狭いワンルームだからおそらく独り暮らし。男性の気がする。


 一度ちゃんと挨拶しに行った方がいいかな、って津原にとっては元からのお隣さんだから、そんなことしたら不審に思われるだけだ。


 その部屋からだろうか、カレーのいい匂いが漂ってきた。単身赴任のサラリーマンが、冷凍して送ってもらった奥さんの手造りカレーを温めた、といったところか。まだ小さな子供が一人いて、携帯電話の待受画像はその子の写真。月に一度は会いたいけど、仕事が忙しくてもう3ヶ月会えていない。これは勝手な想像で、記憶が甦ったわけではない。


 すっきりした鼻孔を刺激され、遅めの朝食で腹いっぱいにした有希也も、ようやく腹が減ってきた。


 どうするか。またさっきの店に行くか。


 嫌な記憶が頭を過るが他の店を知らない。発掘したくてもまだ慣れない足ではしんどいし、外も暗くなっていて、迷子になったらかなわないからあの店以外の選択肢はなかった。


 暗くなった道を不格好に歩いて不審者扱いされる不安があったものの、田舎はクルマ社会で通行人はまれ。制服姿の自転車が風を残して通り過ぎるだけで視線を感じることはなかった。

 夜道でも目立つ白いヘルメットを被っているのが中学生で、いないのが高校生か。ヘルメット中学にノーヘル高校。いかにも田舎な光景は、東京暮らしの長い有希也にちょっぴり優越感を抱かせた。


―そこのヘル中。暗くなってんだからライト点けろよ―

 心の声を背中に投げかけたら振り返ったからドキッとしたけれど、何事もなく走り去った。夜に吸い込まれる詰襟に、中学時代の自分が重なった。


 あの美容院が見えてきた。止まりそうな右足を動かし、左足を引きずって前へ進む。煌々と灯った明かりが、歩道を橙色に染めていた。ガラスの中に見えるのは、髪を切られている客と切っている美容師。どちらも中年の女性で、他に店内に人はいない。おしゃべりに夢中で視線を向けられることはない。ガラスの中に自分の姿は見えなかった。


 コンビニの自動ドアを通るとまた「いらっしゃいませ」の声がかかった。朝と違う年配の男性だが、この人も声だけ掛けて陳列作業を続けた。店内に客は5、6人。子どもの姿はない。


 ブレザーを着た男子と目が合った。津原より少しだけ背の高い彼は、一拍間をおいてから、別に意識していないですよと言いたげな素振りで目を逸らした。他の人は朝と同じで特段気にする様子はない。


 足が不自由なら家から近い店に通う。ゴミやレシートから津原はここの常連。東京の駅前にある入れ替わり立ち替わり客が来るコンビニとは違い、この店は常連ばかりで津原のことは見慣れていて気にも留めない、といったところか。朝の女の子はレアなケースで、すでにこの道は津原が踏み鳴らしてくれているようだ。その割に顔馴染みでもなさそうなところが津原らしい。


 さっき野菜を摂ったから今度は好きなものをと、カルビ焼肉弁当とスポーツドリンクを選んだ。コンビニのカルビ焼肉弁当は、缶コーヒーや3個パックのプリンのような安物なりの味わいがあって時々手が伸びる。今度はレンジで温めてもらって店を後にした。


 夜の7時になろうとしているのに、Tシャツ一枚で十分なほど暖かくて、帰り道でようやく、お茶をこぼしたTシャツを着たままだったことを思い出した。街灯の明かりに晒すとうっすらシミになっていたが、この程度なら問題ない。


 中学高校時代は他人の視線が気になって仕方なくて、道で女子とすれ違った時など、顔に何かついていなかったかすぐに鏡で確認したほどだったのに、いつの間にか、お化けが怖くなくなるように、気にならなくなっていた。強くなったのか鈍感になったのか。大人になったのだろう。他人はさして他人を気にしない。ただし鼻毛は切った方がいい。



 カルビ焼肉弁当も、やはりいつもより味が落ちる。やっぱり舌のせいかもしれない。この舌にも直慣れるだろう。昼食を抜いた腹には弁当一つが丁度よかった。


 テレビもマンガも本も雑誌もなにもない部屋。食事を終えると手持ち無沙汰になった。津原はどうやって過ごしていたのだろう。ビールでも買ってくればよかったと思ってから、思い出したように冷蔵庫を開けると発泡酒が入っていた。


 どうして一缶だけ残っているのだろう。まるで津原からのプレゼントみたい。そんなわけあるはずないのに。


 プルトップを開け、口をつけようとして手が止まった。有希也の視線が壁にかかったカレンダーに注がれていた。


 雨に濡れながらこの部屋に着いた時は12時を回っていたから、身体が入れ替わったのは昨日、日付でいうと9月24日。この日が誕生日か。誕生日?誰の?どちらかといえば結婚記念日の方が近いか。俺と津原の結婚?それも違うだろ。いずれにせよ新しい始まりの日にかわりない。


 有希也は24の日付と乾杯するように缶を掲げて、のどに流し込んだ。


 一睡もしないまま慣れない身体で動き回った疲れがどっと出たのか、アルコールが一気に身体を駆け巡った。急に眠気に襲われ、有希也は布団に倒れ込むように眠りに落ちた。

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