第15話

 アパートに着いても食欲は湧かなかった。あんなに減っていた腹が目を閉じて横たわったように何も欲しない。袋からペットボトルだけ取り出し、あとは冷蔵庫に仕舞う。落下痕のついたキャップをひねり、渇いたのどにお茶を流し込んだらむせてしまい、吐いたお茶がTシャツの胸元を濡らした。

 拭いたところでお茶の染みは落ちにくい。時間が経つと茶に変色して、洗濯しても外では着られそうにない。いっそこのまま襟元から引き裂きたかったが気力が追い付かなかった。


 有希也は大の字に倒れ込んだ。口の中に苦みを残したまま天井を見上げる。濡れたTシャツが胸に冷たくまとわりついた。


 上村有希也は挫折らしい挫折を経験せず、エリートコースといってもいい人生を歩んできた。物足りなさを感じることなどなかった。挫折はしないに越したことはなく、苦労したいともするべきとも思わなかった。充実した人生は努力の賜物で、自分自身を誇らしくさえ思えたし、それはずっと続くものだと信じていた。疑う余地はどこにもなかった。


 羨望の眼差しなら幾度となく受けてきたのに、いま俺は落伍者のようだった。この手の屈辱はこれからも事ある毎に繰り返されるだろう。


 津原保志は俺を殺した上にこんな身体まで押し付けて行った。


 なぜこんな目に遭わなければいけないのだろう。いままでの俺の人生は何だったのか。これまで順風だったしわ寄せか。ツケを払わされているのか。運に任せたのではなく、努力の成果なのに、それすら否定されるのか。


 こんな身体で生きて、この先何がある?いい事あるか?なかったからこそ津原は殺人にまで手を染めた。目を凝らしても希望の背中すら見えない。右手で作った鉄槌を床に叩きつけた。溢れた涙が目じりを伝い、こめかみを流れて行く。夢であってほしいと願うのは現実だと分かっているからだ。


 天井が落ちてこないかな。押しつぶされて死ねば楽になるのに。それが無理なら、このまま床に吸収されてこの世からいなくなりたい。


 ふと物音が耳を突いた。空耳のような気もしたけれど、何かが何かに当たる乾いた音が何度も鳴った。たまらず身体を起こすと、窓ガラスに猫が爪を立てていた。


 両足と腹と首回りと口元は白くて、他は尻尾の先まで真っ黒な猫だった。首輪がなく、清潔を欠いたその猫は、有希也が窓を開けると眼下に置かれた白い小皿を舐めた。腹を空かせて、餌をねだりに来たらしい。


 津原は野良猫に餌をあげていた。皿があるのだからそういうことだろう。自分の食事も満足にとれていなかったくせに。


 冷蔵庫から弁当を出し、焼き鮭を皿に置いてやると、勢いよく喰らいついた。警戒するそぶりは見えず、背中を撫でたら、煮詰めた練乳みたいな声で鳴いた。懐いているのがよく分かる。津原のたった一人の、いや、たった一匹の友達。履歴書には書かれていない津原保志の一面を知った。


 有希也はとりたてて猫が好きなわけではないのに、なんだかいとおしかった。


 空になった皿に水を入れてやろうと、流しへ行ってマグカップに汲んで戻ったら、いなくなっていた。餌だけ食べてとっとと帰るって現金な奴だな。

 猫は皿と一緒に有希也の心もリセットして去った。



 食欲の戻った有希也はちゃぶ台の上に弁当を広げた。転んだせいでケースの中で散らかっているものの、この部屋ほどではなく気にならない。


 いただきますと手を合わせた。サラダから食べると体にいいと聞いて、有希也は普段からそうしていた。津原はそんなこと気にもかけなかっただろうが、これからは健康に気を配る。保健体育の先生になった気分だったのに、透明の蓋を外してから、コンビニのサラダはドレッシングは別売りだと気が付いた。冷蔵庫にはマヨネーズすらない。この部屋には電子レンジもなかった。レジで店員に訊かれたのは「お弁当温めますか」だったのか。津原はいつも温めてもらったのだろう。そもそも冷蔵庫に仕舞う必要はなかった。


 津原保志になって初めての食事は、ドレッシングなしのサラダと冷えた弁当。味気ないけど、なんだか津原らしい。これで俺も一人前の津原保志か、と苦笑して箸を伸ばす。

 有希也は子供の頃から口うるさく躾けられたから箸の持ち方には自信があったのに、慣れないこの手ではまだ上手につまめない。行儀悪いと知りつつ手皿を添える。ミニトマトは指でつまんだ。


 お次は弁当。猫には魚、と反射的に幕の内弁当のメインの鮭をあげてしまった。今更ながらもったいないことをしたものだ。津原もメインまではあげなかったのではないか。久々にご馳走にありついたからこそのあの喰いつきぶりか。でも20品目を売りにしているだけあって、まだコロッケや玉子焼きや煮物が残っている。


 食べながら有希也は首をひねった。今まで食べてきたコンビニ弁当と比べて味が落ちる。ドレッシングなしのサラダは当然として弁当も美味しくなかった。


 年寄りが好むイメージがあって普段は進んでは食べない幕の内弁当を体を想って選んだものの、一品一品が小さいから味まで控えめなのか。それとも売っている場所のせいか、まさか東京の方が丹精込めて作っているということはあるまい。冷えたからか、気のせいか。

 最近のコンビニ弁当は美味しいと評判で、実際もっと美味しいはずなのに、大学時代にやったイベントのアルバイトで支給された冷え切った弁当にも負けていた。


 もしかしたら、舌が代わったせいかもしれない。視力や聴力が人それぞれ異なるのだから、十人十色で味覚が違ってもおかしくない。そうしたら行列のできる店は出来ないか。いや全く違うのではなく、強弱ぐらいの違いがあるのではないか。


 ペットボトルのお茶を飲んだ。普段から時々買っている馴染のあるお茶も、さっきは違いに気付かなかったが・・・。これは苦味のせいかさほど違いは感じられず、コマーシャルの様には見分けられなかった。


 親が料理上手だと子供の好き嫌いが少ないと聞く。もともとあまり食欲がない人は、味覚が弱いのかもしれない。逆に食欲旺盛な人は味覚が強い。ダイエットのために味覚を弱める。そんな手術がいつかできるかも。


 そのせいか定かではないが津原保志の身体は食が細く、あれほど腹が減っていたのに弁当を半分ほど食べると満腹を感じた。上村有希也はコンビニ弁当なら二つ欲しいぐらいで、胃もたれを感じたこともなかったのに。それでも食事を残すのが嫌いな有希也は、いつも通り蓋についた米粒まで完食した。


 津原保志は小食でいいのかもしれない。経済的だし、足が不自由なのだから体重は軽いに越したことはない。


 食は文化というが、食欲も人となりを表すようだ。

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