第14話

 アパートから5、6分ほど歩いた先の道沿いに何軒か店が並んでいるのが見えた。商店街というほど大袈裟なものではなく、手前に美容院があってその隣にコンビニが建っていた。津原が利用していた店に違いなく、やはり身体が教えてくれたのかもしれない。歩く足にも勢いがつく。汗をかいて喉も渇いていた。


 美容院は、東京でも寂れた商店街で見掛ける近所のマダム相手に細々と営業しているような旧時代の残り香が漂う店構えで、店先にステンドグラスの四角い看板を掲げていた。

 ジェットエンジンみたいなパーマ機を被ったおばさんがしたり顔で雑誌でも読んでいるのだろうと、冷やかし半分で中をのぞいた有希也だったが、途端にガス欠を起こしたように足取りが鈍くなった。

 朝の8時に開店しているわけがなく、薄暗い店の窓ガラスに映っていたのは自分の姿だった。


 一度消えて、またすぐに現れた。雑誌たちが歩行者に表紙を向けてアピールするコンビニの窓ガラスにわざわざ目を凝らして見つけたその姿はやはり不格好だった。壊れた振り子のようにいびつに、左足を引きずるようにして歩いていた。


 視覚を通して突き付けられた現実は、やすやすと受け入れられるものではなかった。

 目には見えないし、線も引かれていないけれど、確実に存在する階層の一段下に追いやられた、そんな思いがした。金輪際抜け出すことのできないそこは空気が薄く、乾燥しているようだった。


 数時間しか過ごしていないこの身体を、まだ直視できていなかった。

 ハンデに負けずに強く生きていく。ガラスに映った「障害者」の姿がその決意を溶解した。


 世間はどういう目で見るのだろう。可哀想な人、かな。露骨に見下してくる人もいるかもしれない。それも嫌だけど、変に同情されるのも嫌だな。いずれにせよ、対等に扱われることは期待できない。意識的な無意識を見抜けないほど鈍感ではない。


 足取りの重いままコンビニに入店した。店員が入り口を振り返り、有希也の身体が刹那硬直する。店員は「いらっしゃいませ」とだけ言って、菓子の陳列作業に戻った。


 朝の店内に客は4、5人。雑誌コーナーで次々と雑誌をつまみ上げては表紙をチェックしている大学生風の青年の後を通り過ぎたが、視線は棚に向いたまま。さっき自分が映っていた窓ガラスは、外の日差しを反射していた。

 パンを選んでいたOL風の女性は、ちらりとこっちを見てからスッと一歩前に出た。後ろをあけてくれたのかと思ったが、棚の菓子パンに手を伸ばして買い物カゴに入れた。コッペパンからホイップクリームがあふれたいかにも甘そうなパンだった。

 新聞を脇に挟んだサラリーマン風のおじさんはせかせかと、袖が触れそうなのもお構いなしに横を通り過ぎてレジに向かっていった。


 誰も有希也を気にする様子はない。津原を見慣れているのか。他人に興味がないだけか。冷房の効いた店の中は、むしろ居心地が良かった。少し拍子抜けして、少しうれしかった。


 お目当ての弁当コーナー。ここまで歩いて来て余計に腹が減り、パンや麺類より米が食べたい気分だった。有希也も自炊する方ではなく、朝食にパンと目玉焼きを焼く程度。昼は社員食堂、夜は外で済ますことが多かった。たまに食べる程度のコンビニ弁当もこうして見ると種類が豊富で迷ってしまうが、さすがに毎日だと飽きそうで津原もそうだったのかもしれない。


『20品目の』というネーミングに惹かれて幕の内弁当を選んだ。サラダも買うのは栄養を考えてのこと。空腹時は食欲に押されてついつい余分に買ってしまいがちだが、今は持ちきれない方が心配だった。あとは飲み物だけにする。他に買いたいものを思いついてもまだ足元が不安で、場所が分かったのだからまた後で買いにくればいい。


 店内を流れるBGMが変わった。コーラのCMで流れるアップテンポの曲を口ずさみながら軽快なリズムに乗ってコーラに手を伸ばしかけてから、やっぱり弁当にはお茶だよな、と心中でつぶやき緑茶のペットボトルを取った。

 疲れているから糖分も欲しいな。外は暑いしアイスでも買って帰ろうか。


「いらっしゃいませ」の声がして振り向くと、幼い女の子が店に駆け込んできた。「お店で走っちゃだめよ」母親の声もお構いなしに、女の子は体当たりする勢いでアイスのショーケースまで来ると、背伸びして中をのぞき込んだ。アイスを買いに来たらしく、小さな顔いっぱいに汗をかいて前髪がおでこに張り付いている。


 子供の頃アイスの袋を開けたら、持ち手に『あたり』と印字されていたことがあった。子供心には、神様の目こぼれを発見したような衝撃で、いまでも―この身体になっても―その時のことを覚えている。季節までは覚えていないけれど、記憶の中では半袖を着ている。


 女の子の視線がこっちを向いた。変わった歩き方の男を、何か珍しいものでもみつけたみたいにじっと見つめてくる。相手が子供でも観察されるのは気分のいいものではなく、有希也はアイスを諦め、ショーケースを素通りしてレジへ向かった。


 女の子は気に入ったアイスを母親に取ってもらうと聖火みたいに掲げて走り出した。「走っちゃだめだって」母親が言ったそばから転んだ。両手をついた拍子にアイスが床にころがった。値段が高めで買うのを若干躊躇するソフトクリーム型のバニラアイスだった。

 女の子は一拍置いてから、地べたにひざをついたまま泣き出した。躓いただけだから、どこかが痛むのではなく驚いて泣いたのだろう。

「お店の中を走っちゃだめっていってるでしょ」そう言って母親は女の子を立ち上がらせ、アイスを拾って手渡すと「ちゃんと言うこと聞かないと、あの人みたいになっちゃうよ」と有希也を顎で指した。


 顔が紅潮していくのが自分でも分かった。両手に抱えた商品をどうにかレジに置く。バーコードをスキャンしながら店員が何か発したが耳に入って来ない。答えの代わりに覚束ない指先で財布の中から千円札を差し出すと、店員は手早く会計を済ませ、商品をビニール袋に詰めた。


 早くここから立ち去りたいのに、浮き輪の上を歩いているように足に力が入らない。


 自動ドアを出るとBGMが途切れ、代わりにむっとした空気が包み込んだ。上からは太陽が照り付けてくる。有希也の心臓は、ハツカネズミを放したみたいにかき乱れていた。静かなはずの通りに、アスファルトの舗装工事のような騒音が響いている。美容院の窓ガラスの中ではまた不格好に歩いていた。


 この足は上手に動かせないだけではなかった。下ろすことのできない弱者の看板。障害を負えば、障害者として扱われる宿命を背負わなければならない。有希也にはまだその覚悟が出来ていなかった。


 ハツカネズミはやがて動きを止め心臓にぐったりのしかかった。足元の影が滲みだし、段差に躓いた。握り締めていた小銭が音を立てて散らばり、道端の排水溝に落下した。放り出したビニール袋からペットボトルが転がる。


「大丈夫ですか?」

 通りがかった女性が、ペットボトルを拾い上げ、袋に戻して差し出してくれた。有希也は残った小銭を拾ってどうにか立ち上がると、下を向いたまま礼も言わずにその袋をひったくった。今は誰の顔も見たくない、見られたくもなかった。

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