第13話

 もうすぐ10月だというのに、夏が戻ったように日差しが強くてTシャツ1枚でも汗をかいた。昨夜有希也の鼻を打った津原の体臭はシャワーを浴びて消えたはず。今は自分の汗だから気付きづらいが、さすがにまだ臭っていないだろう。


 脇を上げると、白いTシャツのそこがうっすら黄ばんでいた。着替えた時は気づかなかったのに太陽の下だと見分けがつく。みぞおちのあたりにも薄い茶色のシミを見付けた。津原は食べ方もだらしなさそうで、他の衣類にも同様の染みが付着しているのが目に浮かぶ。

 気になっても、この程度のことに引っ掛かっていては津原保志としてやっていけまい。


 そう思ったものの歩を進めるうちに背中が気になり出した。汚れていたところで引き返す気はないのだけれど、自分だけ気づいていなければ、貼り紙の悪戯をされたみたいで間抜けだ。

 有希也は周りに人目がないのを確認すると、両腕をもぞもぞと袖の中に引っ込め、安い手品みたいにTシャツを半回転させた。眼下に現れた背面はいくらか毛玉がついていたものの目立った汚れはなかった。さすがの津原も背中まで汚すほどずぼらではなかったが、一度気になったら確かめないと気が済まないあたり、上村有希也が抜け切らないようだ。中身は有希也なのだから当然か。


 昨夜耳に届いていた雨音は、ゴム底が地面を擦る音に変わっていた。下を向いて歩いているのは日差しが強いせい、だけではなく、なるべく人と顔を合わせないように、そして転ばないように。まだこの足に慣れていないのだから、足元には十分注意する。


 腹が減っているのに速く歩けないのがもどかしい。帰りのことも考えると食事にありつくまでまだまだ時間がかかるから、公園があればベンチに座って食べるのもいい。せっかくの好天、汚部屋の残像に囲まれて食べるより屋外で弁当を広げる方がよほど美味しい。ピクニック気分に足も弾んだ。


 あくせく歩く有希也とは対照的に、通りは閑散としているものの、ドがつくほどの田舎でないことは雰囲気でわかる。どこからか町の匂いがモンシロチョウみたいに浮遊してきて鼻先をくすぐった。電信柱に掲示された町名は初めて見るけれど住み心地は良さそうだ。


 天気が良くて、道端の花の紫色は言わずもがな、アスファルトのグレーまで艶やかに見える。空の青さも気持ちよくて深呼吸したら、鼻毛が出たままなのを思い出した。上村有希也が住んでいたマンションは玄関に壁掛け鏡があって、出がけのチェックは必須だった。人に鼻毛を見られるのは、有希也にとっては自分で作った落とし穴に落ちるような屈辱で、何としても忌避したいことだった。

 帰ったらすぐに切りたいが、あの部屋に鼻毛切りはあるか。値の張るものじゃないし、コンビニに売っていたら買って帰ろう。


 東京では気にも留めないバス停が、田舎町に立っていると映画のワンシーンに見えてくる。

 どこにでもある丸っこい、錆びの浮かぶ看板のバックにセミの鳴き声が聴こえる。そこへバスが到着する。お決まりの停車音が聞こえ、ドアが開くと降りてきたのは・・・。


 駅は遠いだろうから、これからはバスに乗ることが多くなる。せめて自転車に乗れたら良かったんだけど。


 ふと立ち止まる。あてどなく歩いているようで、身体はどこかへ向かっていた。まだ見えないけれど、たぶんこの道はコンビニに続いている。毎日のように通っていた道だから身体は覚えていて有希也を導いているのかもしれない。


 有希也には初めて見る景色でも、この目にはずっと映っていたのだし、この足で何度も歩いたのだから、アスファルトの隙間には削れた靴底が落ちているのだろう。


 電線にとまるスズメは、変わった歩き方をする人間を記憶しているかもしれない。有希也は日差しに目を細めつつ、スズメを見上げて手を振った。とりたてて意味はなく、振ったそばから照れてしまったら伝わったのか、スズメは飛び去っていった。津原の変化に戸惑ったのか。ただの偶然だろう。


 出し抜けに右足の爪先が段差に突っ掛かり、体勢が崩れて右の太ももをガードレールに打ち付けた。とっさに両手でガードレールを掴んで事なきを得たが、危うく地面にひっくり返るところだった。

 体温が急上昇して汗が噴き出し、有希也はTシャツの袖をひっぱって顔の汗を拭った。汗を吸った部分だけ白が薄くなって肌の色を透き通した。


 少し気を抜くとこのざまだ。穏やかな田舎町も、この足では気軽に歩くことはできない。僅かな段差が障害になり、一つ一つは小さくてもストレスは積み重なっていく。さっきまで日に映えていた道端の緑が鋭利に見えた。


 誤魔化しながら歩いていたけど、スニーカーが歩きづらかった。重量感がある上にゴム底は硬くて滑りやすい。出がけに選んだのは有希也自身だったが、怒りにまかせてほっぽり出したい気分だった。


 もしかしたら、津原もお洒落がしたかったのかもしれない。不自由な足を少しは見栄えを良くしたくて靴屋に行ってみたけれど、人付き合いが苦手な津原は中学生の頃の有希也と同じように委縮して、試着もろくにしないで買ってしまった。家に帰って履いてみると歩き難くて、あまり履かなくなって、あの現場にもサンダルで行った。


 津原は、スニーカーにも裏切られた。ただの想像に過ぎないけれど、胸が締め付けられるようだった。真っ青な空が憎らしかった。

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