第12話
有希也は掃除の時から空腹を覚えていた。この身体になってから口にしたのは缶コーヒーと水だけ。ちょうど朝食時だし、壁をよじ登って雨中を歩き掃除までしたのだから余計に腹が減っている。
何かしら腹に入れたくても、冷蔵庫は空同然でカップラーメンの買い置きもなかった。津原は朝食をコンビニにでも買いに行く気だったのか。無職で時間は有り余っていても、有希也なら朝っぱらの買い出しは面倒で昨日のうちに買っておく。朝食をとらないタイプかもしれない。
金に困って食費を削っていたとも考えられる。痩身も体質ではなく経済的な理由だろうか。もっと津原保志のことを知りたいのに、空腹で頭が回らなくなってきた。
シャワーも歯磨きも済んだことだし、食料の調達に行こうか。その前に注意しなければならないことがある。ドアの外には有希也の知らない世界が広がっている。反対に津原を認知している人間はずだから、この部屋から一歩出たら津原保志として振る舞わなければならない。津原の立ち振る舞いまでは、履歴書から窺い知ることができなかった。
有希也のいまのところの津原保志の人物評は、内向的で、なるべく人と関わりたくない、引っ込み思案と根暗がセットになった性格。育った環境のせいで人を信用できなくなったのか。酒に酔って大金を見つけた時でなければ、自分から見知らぬ人間に声をかけたりしまい。
―そういえば、この身体になってから、一度も声を出していない―
昨日あの現場で聞いた、少ししゃがれた、淡が絡んだような声が耳に残っていた。
咳払いをしてから「こんにちは。津原保志です」とつぶやいてみた。物真似をしているみたいで思わず破顔した。いまはきっと窓ガラスに映っていた笑顔をしている。
「今日はよく晴れたいい天気です」と言ってみた。昨日聞いた声とは違っているが、自分の声とはそういうもの。カラオケや動画で聞く自分の声には違和感があるものだ。
続けて「生麦生米生卵」「隣の客はよく柿食う客だ」と言ってみたら腹が鳴った。
とっとと買い出しに行きたいのは山々だが、まずは外出できる格好に着替えなければならない。外は暑いから上はTシャツのままでいいとしても、下はトランクスというわけにはいかず、掃除した時に見つけたグレーのスウェットパンツを履いた。全体的にくたびれていて黄ばみもあって、外で穿くには抵抗あるが、今は選り好みしている場合ではない。
有希也は右前のポケットに津原の財布を入れた。四千円あれば足り、封筒の金はまだ必要ない。
玄関には、昨夜脱ぎ捨てたサンダルが片方が裏返しに、もう片方は横向きで壁に寄りかかる様に散乱していた。他にはスニーカーと革靴が一足ずつ。
この足に慣れた津原ならサンダルであの場所へ行けても、雨中何度も脱げそうになった有希也は敬遠した。この格好に合わない革靴は却下し、残ったのはスニーカー。有希也が中学1年の時、初めて友だちと買い物に行って買ったのと同じ、コンバースのオールスターの、白のローカットだった。
夏休みを前に靴を買いに行った。中学生になると周りも色気づき出し、親抜きで買い物に行って、それをさも当たり前のように話すのがステータスになる。靴が欲しいというより、ちょっと背伸びをしたかった。
駅ビルの3階にある靴のチェーン店に行った。お目当てのコンバースのオールスターはハイカットとローカットがあって、色も豊富で周りと被りにくく、値段もそれなりだから中学生にとっては定番の、背伸びにはぴったりのスニーカーで、初めから白のローカットに決めていた。
ただでさえ緊張していた上に、対応してくれた店員がリーゼントのロックンローラー風でちょっと怖かった。記憶の中ではくちゃくちゃガムを噛んでいる。接客業だしチェーン店なのだから、実際は子供相手でもそんなことしていないはずなのに。
何度も試着すると嫌がられそうだし、靴の買い方もわかっていなかったから、ぴったりのサイズを買ってしまった。初めて自分で買った靴は、成長期だからすぐに履けなくなった。もったいなかったけれど、いまでは青春の1ページとして刻まれている。そういえば、あのスニーカーはいつ捨てたんだっけ。
その時のサイズは忘れたけれど、これは24.5センチだった。有希也はスニーカーなら28センチ、革靴でも27か27.5だったから窮屈に見えるが、実際津原の足は小ぶりだった。
紐が緩めなのは履きやすいようにか。左足の内側に向かってゴム底がすり減っているは引き摺ったからだ。新しくはないのに、あまり汚れていない。津原らしくないけれど、汚れるようなところを歩いていないせいだろう。
一々腰を下ろして左足に履かせなければいけないのは面倒臭い。靴下を取りに戻るのは面倒で、素足のまま履いた。津原はこの作業が嫌でサンダルを履いているのかもしれない。慣れたらそっちの方が楽そうではある。
支度は出来たが問題はここから。人に会っても知り合いか否か判断できない。交友関係は乏しそうだが、もしも誰かに声を掛けられたらとりあえず会釈して、後は適当に相槌を打って誤魔化すしかない。具合が悪いふりでもするか。街並みは気になるが、きょろきょろせず下を向いて歩こう。
よし、と景気をつけてドアノブを捻ったら「あら、おはよう」とドアの向こうから声を掛けられた。不意を突かれてノブに手を掛けたまま静止した有希也の前に、ホウキとちりとりを持った中年のおばさんが回り込んできた。
その場しのぎで、おはようございますと口を動かしながら会釈すると、小柄でやや肉付きのいいおばさんは全身を見回してから、部屋の中を覗き込んだ。
「あら、掃除したの?珍しいわね」と感心した様子で頷いた。
まずいものを見られた気がして有希也は顔を伏せたが、おばさんは構わず続けた。
「いいことじゃないの。身ぎれいにした方が仕事も見つけやすいのよ。昨日も言ったけど、早く働いて、家賃払いなさいよ。お酒はほどほどにね」
そう言うと、どこか満足気に、津原の部屋の隣の隣の101号室に入って行った。
朝からアパートの周りを掃除し、家賃の滞納を知っているところを見ると、このアパートの大家のようだ。世話焼きでおしゃべり好きのおばさんといった様子で悪い人ではなさそう。言葉はきつめでも悪意は感じず、津原に対する優しさが垣間見えた。
ただし「昨日も言ったけど」というのがひっかかった。津原は昨日このおばさんと言葉を交わしている。有希也は津原の昨日の行動、アリバイを全く知らなかった。
―そもそも津原はなぜあんなところにいたのだろう―
足に慣れていても30分はかかる。自販機目当てで行く距離ではないし、近くに店らしきものもなかった。あの場所に行った理由は何だったのか。それに、金に困っていたとはいえ衝動的に人を殺すものだろうか。酒に酔っていたとしても、それだけでは理由が足りない気がした。
今となっては答えが出ない疑問だった。履歴書は所詮紙上のことに過ぎない。生の津原保志については何も知らないのに等しいことを有希也は改めて自覚した。
ゴミ置き場に積まれたゴミ袋を見て、今日が燃えるゴミの日だと知り、一旦部屋に戻ってさっき集めたゴミ袋を捨てた。証拠隠滅のためにも一刻も早く処分したい。血の付いた作業着は外からはまるで見えなかった。
レシートで住所は確認したし、田舎のコンビニは矢印付きの大きな看板が出ていたりして、正確な場所を知らなくても辿り着けるはず。目当ての店じゃなくても食料が手に入ればそれでいい。いざコンビニ。
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