第11話

 掃除が終わるとホコリから逃れるように、窓の縁に腰かけた。わずかなベランダの先は塀。その外は背伸びをしなければ窺えないが、アパートの周りが栄えた土地でないことは、昨夜歩いた道のりと、聴こえない騒音と、澄んだ空気で分かる。朝の空気はことに爽やかで、雀の鳴き声まで透き通って聴こえた。雲が一掃された空はどこまでも水色が広がっていた。


 地方で生まれ育った有希也だったが、大学時代から住む東京の方が好きだった。豊かな自然より、駅が近くて数分おきに電車が来る利便性の方がずっと魅力的で、いつか結婚して子どもが生まれても、ずっと東京で暮らしたいと考えていた。


 それが、これからはこの土地でこの足で暮らしていかなければならない。自転車すら乗れない不便な生活も、津原保志もこうして生きてきたのだから弱音を吐いていられない。


 空耳ほどの微かな電子音が聴こえて、すぐに止んだ。発信元は壁の向こう、隣の部屋の目覚まし時計だ。部屋の時計は7時5分前を差していた。隣人が7時5分前に起きたのではなく、たぶんこの時計が5分遅れている。有希也は電波式ではない時計もスマートフォンの時計を見ながら0秒のタイミングで電池をセットして極力正確な時間に合わせたが、津原保志はそういう質ではないのはすでに知ったこと。進んでいるのではなく、遅れているところが津原らしい。


 数回でアラームを止めるほど目覚めがよく、月曜の朝7時に起床する規則正しい生活を送っているまだ見ぬ隣人―有希也からすれば―はおかしな人ではなさそうだ。学生ではなく社会人、男性でスーツを着て黒い鞄を提げて出勤していく姿が想い浮かぶ。でもしっかりした人ならもっとマシな所に住むかな。


 このだらしない顔では隣人との交流も乏しいと思うけれど、顔を合わせれば挨拶ぐらいは交わしただろうか。有希也は人見知りはしない方。でも変に馴れ馴れしく挨拶して怪しまれたら面倒だから、鉢合わせたら向こうの出方を見て無難な対応をしようと決めて、隣人のプロファイリングを締めくくる。


 アパートも朝を迎え、物音に気兼ねする必要はなくなった。ようやくシャワー解禁と喜び勇んで裸になる。しかしユニットバスの前まで来て静止した。せっけんを使う風呂場は雨道以上に滑り、硬い浴槽に鏡もあって、転んだら大怪我をしかねない。大の字にひっくり返って肘を壁に痛打する姿が思い浮かんで顔をしかめた。


 足が不自由になったのに、リハビリもせずに生活を始めなければならなかった。妊婦だって、いきなりお腹が大きくなったらまともに過ごせない。それでもこの身体はこの足に慣れているだけましかと、有希也は右の手で右の太ももを叩いた。


 津原も入浴には気を使っていたようで、ユニットバスはカビだらけなんてことはなく、それなりにきれいだった。カビが生えないよう、入浴後は壁や床についた石鹸の泡を残さず洗い流している。有希也もそうしていたから見ればわかる。津原にしては珍しく、タオルが畳んで棚に仕舞ってあったのは濡れた身体で歩かないためだろうが、転んだことがあるのかもしれない。


 滑らないよう床を拭こうとしたが、すっかり乾いている。一度縁に腰を下ろしてから浴槽を跨ぐ。蛇口をひねるとシャワーが流れ出した。水はすぐにお湯に変わり、ガスが止まっていないことに安堵したものの、蛇口をいっぱいに捻っても、お湯はうな垂れたままだった。


 水圧の弱いシャワーはまどろっこしく、物事を合理的に進めたい有希也の天敵で、大学時代に住んでいたアパートも同様だったが、構造上の欠陥ゆえ改善は見込めない。諦め半分でお湯を身体にかける。

 掃除で発熱した身体に、それとは異なる、とろけそうな温もりが身体の芯まで伝わってきた。湯気も心地よく、身体が変わってもシャワーは気持ちがいい。有希也はそのまま津原になって初めての小便をした。打たせ湯のように音を立てて浴槽の底を打ち付け、排水溝を流れて行った。


 二つ並んだボトルはシャンプーとボディシャンプー。どうせなら石鹸で髪の毛まで洗う男であってほしかった。そんな思いを抱きながら、まずはシャンプーから手のひらで泡立てる。津原になって最初に嗅ぐいい匂いは、オーソドックスなフローラルの香り。続けて2回洗ったのは、銃を2発撃って殺傷率を上げるように、頭の汚れを残さず洗い落とすため。コンディショナーや洗顔料はない。


 壁にかかった垢すりタオルを取り、一度手洗いをしてからボディシャンプーを泡立て全身を擦った。ただでさえ汚い身体の、背中とか耳の裏はとりわけ汚れていそうで、浴槽の縁に腰かけて念入りに擦った。そのまま顔までゴシゴシ擦ってシャワーで流すと案の定排水溝に垢が溜まった。この分きれいになったということ。「さっぱり」とは誰が言い出したのか。言い得て妙で、禊を済ませた気分になった。


 壁や床の泡も洗い流し、身体をタオルで拭いてから慎重に浴室を出て、新しいタオルを床に広げて足の裏の水気を切る。なんやかんや一々気を遣う。それが面倒で津原は入浴を嫌っていたのかもしれない。


 着替えのことなど忘れていて、隅に置かれたプラスチックの籠にTシャツとトランクスが入っていたのを思い出し裸のまま部屋に戻る。恐る恐る匂いを嗅ぐと洗剤の匂いがして、有希也はそれに着替えた。無地の白いTシャツは、幸い目立つ染みは付いていない。


 ついでに歯を磨きたい願望に駆られたが、洗面台にある歯ブラシはコップにささった使い古しの1本だけで、他を探っても買い置きは見当たらない。津原のおさがりなんて勘弁、と思ったものの鏡の中には津原保志が映っていた。今は自分が津原保志、この歯ブラシでこの歯を磨いたんだから今さら汚いもクソもないと、安っぽい歯磨き粉をつけて磨いた。大便をして尻を拭く時も似た抵抗を感じたが、似たような解釈で乗り越えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る