第10話

 豪雨は事件の痕跡を洗い流した。現場に流れた血、死体に付いた指紋、雑木林と壁の狭間に残された足跡。ポケットの中のスマートフォンも水没した。殺人事件を示すものは死体だけ、津原保志にとっては幸運の雨だった。


 殺人事件の被害者は、加害者と向かい合っていた。鏡の中に、窓ガラスとは違う色のついた津原保志がいた。


 粉ばった汚れがあちこちにこびりついた洗面鏡の前で、有希也は手触りを確かめるように両手で顔をなぞった。ベタ付く顔を、額からゆっくりと撫でるように手のひらを這わせ、顎の先までくると指先で頬を下から突き上げた。津原保志には見慣れた顔だろうに、鏡の中の表情は曖昧模糊としていた。


 輪郭は楕円形で頬はこけ、顎と口の周りは無精ひげが覆っている。薄い唇は色も薄い。鼻筋が細いのは嫌いじゃないが、鼻毛が出ていた。汚らしく束になって伸びている。鏡もろくに見なかったのだろう、眉毛も長短不規則に生え散らかり、真ん中の毛も手つかずで左右がつながりかけている。前髪に隠れがちな目は細く、まぶたは一重で冷たい印象を受ける。右の頬にあるホクロは、ちょうど輪郭のライン上にあって正面を向くと目立たない。口を開くと黄ばんだ歯が見えて、嗚咽しそうになった。口の中はまだ直視できない。髪をかき上げたら、頭皮にも脂が浮いていた。


 普段からこうだったのか、無職になって外に出ないからほったらかしにしているのか。手入れをすれば、履歴書の写真ぐらいにはましになるだろうが、それも高が知れている。これからはこれで生きていかなければならない、文字通りの自分の「顔」。


 上村有希也は死んだ。金輪際元の身体に戻ることはない。この左足のように。残されたのは津原保志の身体で生きる道だけ。有希也は、津原の衣を借りた上村有希也ではなく、津原保志として生きる道を選んだ。それが与えられた運命、この身体が望んでいることだ。


 しかしそれは理不尽極まりない現実を背負うことでもあった。いずれ死体が発見され、殺人事件として警察が捜査を始める。被害者が有希也であっても、加害者が津原保志であるのは動かしようのない事実で、津原保志として生きることは、自分を殺した殺人犯として生きることでもあった。


 しかし不思議と不安はなかった。


―自分が捕まることはない―


 確信めいた予感があった。


 事件が起きたのは暗闇の中に自動販売機がぽつんと浮かぶ離れ小島のような路傍。アパートに来るまでに遭遇したのは自動車一台だけで、童話の中の魔法使いが悪戯したように、来た道を戻ってもあの場所は消えてなくなっている気さえした。自分自身が被害者で、罪の意識がないことも予感を後押しした。


 それでも警察の手がせまる可能性は十分にある。


―そうなったら?―


 その時は自分が上村有希也であることを証明するだけだ。殺人犯の汚名を着せられるぐらいなら上村有希也に戻ることを選ぶ。いうまでもなく自分以上に上村有希也を知る人間はいない。通った幼稚園も先生の名前も、小学生の頃に通ったスイミングスクールも学習塾も、高いところから飛び降りてかかとの骨にひびが入ってギプスをしたことも、アスレチックに行って漆にかぶれたことも、両親の名前も生年月日も、祖父母のことも、上村有希也に関して知らないことなど何一つない。死んだ兄がいることは、親しい人ですら知らないこと。それを話した上で中身が入れ替わったと打ち明ければ、警察だって信じてくれるはずだ。自分だってまだ夢じゃないかと思っているんだから、他人には到底信じ難いことであるのは分かっているが、なんとしても証明してみせる。


 今はただ全力で津原保志を全うするだけだ。


 カーテンを開けた窓から、朝陽が射し込んでいた。昨日の大雨のせいで、今日は雲一つない晴天が広がり、夏に戻ったような陽気になる。天気予報を見ずともそれぐらいは予想がついた。暑くなれば、エアコンのないこの部屋では扇風機だけが頼りだが、羽根もカバーも埃が覆っていて掃除しなければ使う気になれない。


 不意に肩がの力が抜けるように全身に疲労が伸しかかった。栄養が足りていないうえに人を殺して壁まで上り、土砂降りの中を歩き続けたのだから疲れも出る。


 それでも眠気はなかった。缶コーヒーを飲んだせいではなく、興奮状態にあるからだ。第一こんな汚い部屋で眠る気にはなれない。疲れていてもじっとしていられなかった。


 やりたいことはいくらでも思いつくが、殺人事件現場近くの住人がガラリと変わってしまったら怪しまれるかもしれない。この風貌では隣近所にいい印象は持たれていないだろうから、なおのこと留意が必要だ。小さなアパートは人目に付きやすく、大学時代アパートに彼女を連れ込んだら、翌日出くわした隣の住人が口元にうっすら笑みを浮かべていたことを思い出す。


 派手な行動は控えるべきでも、まずは掃除をしなければ始まらない。有希也はもともときれい好きで、潔癖とまではいかなくても、こと掃除に関しては神経質なところがあって、例えばテーブルは常に綺麗に拭いておかなければ気が済まない。そこにリモコンを長いものから順番に並べるのにこだわっていた。現在住んでいるマンション―もう二度と足を踏み入れることはないだろうが―はいつでも人を呼べるほど片付いていて、こんな部屋には一分一秒もいたくなかった。


 玄関を閉めれば外からは見えないし、来客もないようだから掃除だけは思う存分しても問題ないだろう。有希也は窓を全開にした。1階ゆえ、わずかばかりのベランダの先は塀に囲まれていて、中をのぞかれる不安はない。


 掃除の基本は捨てること。要らないものを取っておくことが、いかに整理整頓の邪魔になるか。出所不明のネジを保管しておいて再利用したことのある人がいたら教えてもらいたい。「いつか使う」は掃除の大敵。ゴミは将棋の駒のようには役に立たない。


 右膝をつき、クラウチングスタートような格好で片っ端からゴミ袋に投げ入れた。この部屋にはゴミしかないんじゃないかというくらいゴミだらけ。主なものは、ここに足を踏み入れた時から視界を埋めていた弁当の空き箱や酒の空き缶。お菓子の袋などのカラフルなものはない。


 ロゴ入りのビニール袋やレシートから、近くにコンビニがあるのが分かる。地方だと一点ものみたいなローカルコンビニもあるけれど、大手チェーンが近所にあるのはありがたく、仲間を見つけた気分だ。


 古本屋のレシートもあった。《買い取り》と表記され、コミック¥50×8 ¥400と表記されている。金目のものが見当たらないのは、売れるものはすでに売ってしまったからか。コンセントに、差し込み口を増やすタップが付いているのにそこに何も差し込まれていないのは、すでにテレビなども売ってしまったか、もしくは壊れても買い替える金がなかったか。


 やはり物が捨てられない性格のようで、部屋には、一枚だけの未使用の絆創膏やインクの薄くなったマジックや宣伝用のうちわが散らばっていた。乾電池は、まだ使えるかもしれないと捨てるのをためらったのだろうか。残量があったところで自然放電してしまうのだから、不要な乾電池をとっておく意味はないに等しい。


 とりあえずゴミを袋にまとめた。燃えるゴミと燃えないゴミと空き缶。それだけでずいぶん片付いたが、どっと汗が出た。玄関を開けていないせいで風が吹き抜けずに埃が部屋に充満し、これでは鼻毛が伸びるのも頷ける。隅に置かれた古ぼけた掃除機は、使うにはまだ時間が早い。この部屋の救いはフローリングで、畳や絨毯だったら夏場はダニが大量発生していただろう。


 足が不自由なのだから片付いていた方がよさそうだけれど、これだけ散らかっていても平気ということは、住めば都ということか。こんな不潔な都あるものか。


 何よりも捨てなければならないものが残っていた。津原が着ていた作業着だった。有希也の血液が付着した犯行の証拠となるもの。有希也は血痕を隠すように作業着を丸め、3重にしたコンビニのビニール袋に入れて厳重に口を結び、ごみ袋の真ん中に押し込んだ。外から見てもそれとは分からない。証拠隠滅も無事に終了した。

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