第9話

 有希也は思い出したように通帳を開いた。障害者は手当が貰えるはずだが、そういった記載は見当たらなかった。銀行振込ではないのかと引き出しを探ってみたが、その手の書類は見当たらない。障害者には障害者手帳が交付されると聞くがそれも引き出しにはなかった。


 手当が貰えれば多少なりとも生活にゆとりが生まれるし、障害者手帳を持っていればなんらかの優遇を受けられたはず。部屋のどこかに埋もれているのだろうか。


 他に引き出しに入っていたのは、小さなビニール袋に入ったスペアのボタンや使途不明の金具、とっくに使用期限が切れた割引券等々。整理整頓が苦手な人は総じて物が捨てられないものだが、やはり津原もそのタイプのようだ。


 その中に埋もれた一冊の手帳を見つけた。障害者手帳ではなく、ポケットサイズの市販のもので、メモ帳という方が相応しい。水色の表紙は古びているものの傷んではおらず、手に取ると真ん中で開いた。そこに写真が挟まれていた。3枚あって、微かに色褪せてはいるがさほど古いものではない。何も書かれていない手帳は写真を挟むためのアルバム代わりのようだ。


 有希也は蛍光灯の下で写真に見入った。


 一枚目は田んぼで写したもので、思わず目を細めてしまいそうな夏の日差しが写真から伝わってくる。長く伸びた緑色の稲穂の前に、家族らしき五人が並んでいた。


 真ん中にいる一番大きな子どもが津原保志のようだ。小学校3、4年生ぐらい。今とは印象が異なるが、面影がある。ランニングシャツを着て、坊主頭で真黒に日焼けした顔いっぱいの笑みを浮かべて直立している。線は細いが、身体中から子どもらしい元気が発散されていた。


 その後ろで見守るように立っているのは両親だろう。お父さんは野球帽をかぶり、青灰色のつなぎの作業着を着て首に手拭いをぶら下げている。お母さんは日焼けを気にしてか大きな麦わら帽子に白い長袖のシャツを着ている。お父さんが細身で、お母さんは少々ふくよかだから、保志はお父さん似のようだ。


 保志の隣で、脚をガニ股に開き両手でⅤサインをしておどけているのが弟で、麦わら帽子にピンクのTシャツを着た女の子は妹だろう、全員が楽しげに笑顔を浮かべている。


 履歴書に記載された出身中学が新潟だった。実家が農家で、夏休みに農作業を手伝った後に撮った写真、というところか。保志の表情がどこか誇らしげなのは、兄として弟たちを先導した充実感か。


 微笑ましいという表現が当てはまる、幸せそうな家族の写真だった。


 二枚目は家の中の写真だった。畳や襖から年季が感じられるが、古いだけでなく威厳が感じられる。父親の格好は打って変わって黒のスーツ、というより背広という方がしっくり来る。ネクタイも黒で、母親も黒の礼服、子供たちもよそ行きのかしこまった身なりをしている。法事か何かの親戚の集まりの時に、家族だけで撮った写真と思われた。


 子供たちの顔つきから2、3年経過しているのが見て取れるが、一枚目の写真とは明らかに様子が異なっている。室内だから日差しがないだけでなく、一人として笑みが見られない。法事だからというのとは違う影が差している。

 両親を背にして正座している子供たちの中央にいるのは弟で、その隣が妹。保志は二人と間隔を開け、端っこで一人右足だけ畳み、左足は伸ばしたまま伏し目がちにこっちを見ていた。


 三枚目はそれからさらに2、3年後で、場所はまた田んぼの中だが今度は収穫後らしく、積み上げられた黄土色の稲穂を背に並んでいる。笑顔が見られるが作っている様にも見え、言い知れないぎこちなさが漂っている。

 なにより前の二枚とは決定的な違いがあった。写っているのは四人だけ。保志の姿がなかった。


 一枚目は中央にいた保志が二枚目では端に追いやられ、三枚目は写ってすらいない。


 明らかに保志の扱いが悪くなっているが何があったのか。言わずもがな、足を不自由にさせた事故であろう。事故は津原保志とその家族に大きな影を落としていた。


 有希也には津原の家族のことが引っ掛かっていた。足に障害を抱えて一人で暮らしているのに、家族の気配が感じられない。同じ事故で亡くなって保志一人残ったと推察していたが、そうではなかった。


 津原保志は農家の長男として生まれ、跡取り息子として育てられた。それが事故で足が不自由になって跡を継ぐことが出来なくなり、一転して冷遇されるようになった。三枚の写真がそう物語っていた。


 有希也は写真を元通りに重ねて手帳に閉じた。


 障害が残るほどの怪我なら命の危険もあったはずだ。手術は大きなもので、入院も長期に渡って学校も休まなければならず勉強も遅れる。リハビリは辛く、何より足が元に戻らないことに計り知れないショックを受けただろうが、家族からも冷たくされるとは心中察するに余りある。


 中学を卒業してすぐに働いているのも酷な話だ。家にいられなかったのか。15歳の少年が一人社会に投げ出されたら、生きていくだけで精いっぱいだっただろう。語り合う仲間も金を貸してくれる友達もおらず、ずっと一人ぼっちだったんじゃないか。


 想像にすぎない。しかしそれほど間違っていまい。この部屋に愛情は破片も見当たらず、孤独だけが散乱している。二枚目の写真の表情は今しがた見た履歴書のそれに似て、罠に嵌ってもがくことすら諦めた鹿のように精気のないものだった。


 津原保志はこの部屋で一人、夢も希望もなく、あてどなく命を消費していた。それは辛いや悲しいより、惨めというのが相応しく思えた。


 津原保志は金欲しさに自分を殺した憎むべき相手。それなのにいま有希也が抱いているのは同情だった。その不条理に有希也も気づいていたが、抵抗がなかったのはいま津原の中にいるから、苦労が身に染みている最中だからだ。

 年月は近くても、自分とは全く異なる過酷な道のりを、津原は右足だけで歩いてきた。津原だって幸せな人生を送りたかったはずだが、それを阻んだものは左足だけではない。有希也は愛情が注がれなければ幸せは芽吹かないことを身をもって知っていた。


 有希也は左足に触れた。右手も左手も、顔も頭も心臓も、そして右足も有希也の情緒と融和しているのに、左足は心を閉ざしたまま。まるで津原保志が宿っているようだった。


 津原保志はずっとこの足と共に生きて来た。人生の半分以上を、この足を引きずって歩いてきたんだ。


 有希也は手のひらで左の太腿に円を描いた。頑なな太腿に、手のひらの熱を伝えたくて、何度も円を描いた。


 事故に遭わなければ、今頃家を継いでいた。結婚して、奥さんと小さな子供と田んぼに並んで、一枚目の写真のような笑顔で写真に収まっていたことだろう。


 有希也は両手で左足を引き寄せ、細いふくらはぎをぎゅっと掴んだ。ふくらはぎは心臓から流れてきた血液を伸縮によって送り返す第二の心臓。この足はその役目を十分に果たせていなかったが、有希也の手を借りて血液が流れて行く。


 事故さえなければ。後悔に襲われ、悔しくて悲しくて眠れない夜を何度も過ごしただろう。枕を濡らしたこともあったろうが、それでも元に戻ることはない。泣こうが喚こうが、時計の針を戻すことはできない。動かせなければ引きずって歩くしかない。誰も手を差し伸べてくれなければ一人で歩くしかない。津原保志はそうして生きるしかなかった。


 有希也は左足の指に、右手の指を食い込ませて握り締めた。左足を限界まで曲げて膝の上に頬を乗せた。心臓の音が太腿を通じて左足全体に伝わって行く。頑なだった左足が次第に温もりを帯びて行った。


 いつか誰かが手を差し伸べてくれるのを、息をひそめてじっと待っていたようだった。


―いまはこれが俺の足だ―


 有希也は立ち上がった。ふらつきながらも、なんの支えも使わずに。窓まで歩いてカーテンを開けた。そこにはもう津原保志はいなかった。いつの間にか雨は止み、窓を開けると、朝の匂いが有希也を包み込んだ。


 津原保志の人生に欠けていたもの、失ったもの、俺はそれを持っている。俺なら、津原保志の人生をやり直せるかもしれない。子供の頃のあの笑顔を、窓ガラスに映ったあの笑顔を取り戻せるかもしれない。


―俺もこの足で歩いていく―


 津原の足跡はトンネルを抜け、朝陽に照らされていた。

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