第8話

 有希也は裸になった。どの道を選ぼうがこの先ずっと付き合わなければならない身体だから隅々まで知る必要がある。白と水色の縦縞のトランクスは雨で湿っていたけれど、ウエストのゴムがすっかり緩んでいて簡単に脱げた。

 上村有希也が着用していた下着は全てボクサーパンツで、トランクスにはおっさんのイメージがあったものの、こっちの方が着脱しやすい。この足ならズボンやパンツはデザインでは選べない。


 ちゃぶ台に手をついて立ち上がり、蛍光灯の下で全身を見下ろした。不潔な印象を持ったせいで全身垢だらけに思える。シャワーを浴びたら排水溝に白い垢が溜まりそうだ。

 肌の色も悪く、牢屋にでも入れられていたような不健康な青白さを蛍光灯の昼光色が引き立たせていた。家に籠りがちで紫外線を浴びていないのならビタミンDが不足しているかもしれない。


 散らばったゴミや空同然の冷蔵庫から栄養バランスを意識していなかったのも一目瞭然で、健康でいろという方が無理な話。酒の空き缶であふれているのに、つまみ類は見当たらず、菓子類のゴミもないから、食欲はあまりなかったのか。

 身長は162、3といったところ。177センチの上村有希也より二回り小さく、視線が低くなった実感があった。初めて入った部屋なのに天井が高く、床が近い。

 この身長でこの痩せ具合なら体重は50キロを下回りそうで、80キロあった上村有希也より身軽なのは助かるが、心許なさも感じた。吹けば飛ぶようとまではいわなくとも風邪は引きやすそうで子供の頃から身体が丈夫な有希也とは対照的。小柄なのは生まれつきか、事故に遭って運動が出来なかったせいか。


 両腕を蛍光灯の下に伸ばした。細くて短い腕の手首に浮かぶ血管の青い筋は、流れる血の色まで青く思わせる。

 天井に向けた手のひらを、握って、開いてみた。さっき感じた痺れのような感覚はなくなっている。手のひらに感じる厚みは視覚よりも感覚的なもので、不自由な足を補ってきた腕は細くても頼もしく、擦りむいた手のひらの痛みはとうに消えていた。

 手のひらに、マジックで書いた文字が見えた気がしたのは、ただの錯覚。単なる見間違いで、暗示的なものではない。


 ラグビーに打ち込むうちに身体の防衛本能が働いたのか、上村有希也は体毛が多かった。わき毛胸毛に始まり、へその周りや肩、首の付け根まで。直毛だったから縮れ毛よりも不潔度は軽度で済んだはずも、評判がいいとは言えず、特に女性には受けが悪かった。

 津原は男性ホルモンの分泌が少ないのか、胸毛はなく、わき毛も乏しい。その割に清潔感に欠けるが、心がけ次第で改善は可能だ。


 人並に生えたすね毛―左足も―が、下半身をより貧相に見せた。両足の間にあるものは、上村有希也のとどことなく似ている気がして、また少し親近感を抱いた。大きかったら嬉しかったのか、それは分からないが、洗う前に素手で触るのは抵抗がある。幸い今のところ尿意はもよおしていない。


 視界が微かにぼやけているのは、埃が舞っているからではなく視力が落ちたせい。と言っても有希也はかなりの近眼でコンタクトレンズを使用していたから、それと比べれば若干落ちる程度で裸眼でこれなら視力は悪くない。装着感はなく、コンタクトをしていないことは感覚で分かる。


 布団の上に静かに座るつもりが、上手くいかずに尻もちをついた。部屋中が振動し、地震の時のように蛍光灯の紐が揺れた。隣の部屋にも伝わったかと耳を澄ましたが、反応はない。


 なによりも確認しなければならないのは足。状態をできるだけ把握したい。見慣れない足には、子供の頃に銭湯で会った見知らぬおじさんのような生理的な抵抗を抱いたが、今はこれが自分の足に他ならない。


 まずは右足から、伸びた膝を折って伸ばして折って伸ばして、オールを漕ぐように繰り返してみたが、つっかかりもひっかかりもなくスムーズに動く。

 爪先をピンと伸ばして戻して伸ばして戻して。時計回りに回して反対に回して。指揮棒を振るような無軌道な曲線も爪先で描くことができた。足首にも異常はない。

 最後に股関節。伸ばした脚を弧を描くように外に振って内に振ってを繰り返しても問題はなかった。


 履歴書に、子供の頃に事故に遭って左足に障害が残った、とあった通り、右足に不自由はない。右足は負傷せずにすんだようだ。


 そして左足。ここまで引きずるように歩いてきて、不自由ではあるが、痛みはなかった。今もないからアドレナリンが出ていたせいではなく、慢性的な痛みはないようだ。


 右足に比べるとたしかに細いが、大差があるわけではなく、目に付く変形もない。しかし膝の皿の外側をなぞるように縦についた長さ6、7センチほどの手術痕があった。年月を重ねて、擬態する昆虫のように目立たなくなってはいるが、消えることなく、人が人を修復した証拠がそこに刻まれていた。指先でなぞるとビビッと電流が走る、ことはなく、ただ古傷が口を閉ざしていた。


 津原保志は事故で左膝を負傷し、手術を受けたが後遺症が残った、ということか。外側に傷があるから、こちら側から何かが、おそらく自動車が衝突したということか。


 左膝は自分ではまっすぐに伸ばせない。自分で動かせるのは足をまっすぐに伸ばした状態から10度ほど曲がったところまで。そこから膝を曲げても、もう50度程度しか曲がらない。両手で脛を掴んで引き寄せると、直角ぐらいまでは曲げられたがそこまで。これでは上手く歩けるはずがなかった。


 津原保志は事故に遭った子供の頃のその日から、この身体で、この足で、一人歩いてきたのか。これまでの人生はどんなものだったのだろう。

 履歴書の他に身の上が分かりそうなものはと見回しても、狭い部屋にはタンスも本棚もない。テレビもなく、新聞や雑誌もなくて、社会から遮断された、刑務所にでもいるような気にさせられる。


 でも刑務所には電話はないかと目を留めたその電話機が置かれた台に引き出しが付いていた。書類の一つは入っていそうで、有希也はまた立ち上がった。立ち上がるのにもいちいち労力を使う。慣れるまで辛抱するしかない。


 かたい引き出しを力づくで引っ張ると、公共料金の請求書や宅配店のチラシ、ダイレクトメールが押し込まれていたが、一番上にあったのは預金通帳だった。懐事情を知ることができる履歴書の後に見るにはうってつけの資料で、有希也は壁に背中を預けてそれを開いた。


 残高は4万721円。7日前に記入しているのは残高を気にしてのことか、無職でこれでは厳しい。キャッシュカードで引き出してこれより減っているかもしれない。最近の記録は引き出す一方で、入金は『給与』と記載された先々月の25日が最後。15万円ほどが振り込まれている。3か月前に辞めたアクセサリー製造会社の給料だろう。津原は15万の給料で毎月やりくりしていたということだ。


 土地柄を考慮すると生活はできそうでも、最後の給与が振り込まれる前の残高は約12万円。1か月分の給料にも満たない預金では転職など望めない。次の仕事を見つけたうえでならまだしも、それもないまま津原はなぜアクセサリー製造会社を辞めたのか。


 毎月末に『振込』されている3万8千円が2か月途切れている。おそらく家賃だろうが、この経済状況では払えるはずがない。


 この部屋に他に金が隠してあるとは思えず、金になりそうなものも見当たらない。財布に入っていたキャッシュカードは暗証番号が分からないから、財布の中の現金4千円と例の封筒の金が全財産になる。


 有希也は脱いだズボンを手繰り寄せ、ポケットから封筒を取り出した。灯りの下で見てもやはり宛名も何も書かれておらず、訳ありの金に違いない。雨で濡れた封筒を皮を剥くように破った。中身もいくらか濡れているが乾けば問題はない。全部で287万7千円だった。単純に計算すれば、このアパートなら2年近く暮らすことができる。この金は津原保志の命綱だった。

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