第6話

 有希也は冷蔵庫にもたれ掛かかり、漠然と部屋を眺めた。目の前は、できることならこのまま火を着けて燃やしたいぐらいのゴミの山。窓を覆うまだら模様の薄茶色のカーテンは、虚妄じみたこの部屋と現実世界を隔てる境界線のよう。耳に届くのは雨音だけで他には物音も聴こえず、人の気配も感じられなかった。


―他の住人は何をしているんだろう?―


 このアパートは全部で6部屋あるのをさっき確認した。空き部屋があるかもしれないし、留守にしている住人もいるだろう。日曜の夜更けだから明日に備えてすでに眠りについたのかもしれないが、明かりの点いた部屋もあった。雨音に掻き消されて何も聴こえないだけか。


 電気の消えていた真上の部屋からは足音も聴こえない。こんなボロアパート、天井も薄いだろうに、と視線を上げた瞬間、蛍光灯が目に入り、残像が照射されたように石を振り上げた津原保志の姿が蘇った。


 とっさに両手で顔を覆ったが、すぐに離した。目の前にあるのがまさに、有希也を死に至らしめた手だったからだ。


―この手で俺の命が奪われた。津原保志という男に殺されたんだ―


 有希也はその手を強く握りしめた。手のひらに爪が食い込み、骨に当たる感覚が脳まで届いた。


―金を拾って届けようとしただけ。ただそれだけなのに、なぜ殺されなければならないんだ―


 握った拳をゆっくりと開いた。爪の痕が赤い窪みとなって、手のひらに滲んでいた。


―殺された・・・、俺は殺された、のか?―


 それならばここにいるのは誰だ?


 上村有希也か津原保志か。


 心は間違いなく上村有希也。


―心だけは助かった・・・のか?―


 この身体は自分を殺した津原保志のものだ。そんな人間の身体になって助かったなどと言えるはずがない。


 それにだ。


 津原保志には非情な現実が突きつけられていた。


 上村有希也の死体は、あの場所に残っている。遅かれ早かれ発見される。頭から血を流した疑いようのない他殺体、警察は殺人事件として捜査するだろうが、犯人は他ならぬ津原保志。特定されれば自分が捕まることになる。被害者である自分が殺人犯の汚名を着せられ、刑務所に入れられるのか。あまりにも理不尽だ。受け入れられるはずがない。


―もしそうなったら?逮捕されてしまったら?―


 すべて話すだけだ。俺は上村有希也だと。俺を殺した津原保志の身体に乗り移ってしまったのだと。子供の頃のことから今日の事まで、自分しか知らない事実を話せば嫌でも信じるはず、真実を知ってくれるはずだ。


―そうなったところで、元に戻れるわけではないが―


 上村有希也の身体は死んでしまった。あの場所で見た、白目を剥いたあの身体にもう二度と生命が宿ることはない。これから身も心も津原保志として生きるのか、心は上村有希也として生きるのか。どちらにしてもまともな人生は送れない。


 それとも、今すぐ自首するか・・・。自首?被害者なのになぜ自首しなければならないのか。むしろ、俺は殺されました、と訴え出たいぐらいだが、それが正気の沙汰ではないことぐらい判断はついた。


 部屋の隅では、倒れた発泡酒が零れたままじっと身を潜めているようだった。


 有希也はもう一つ、大切なことと向き合わなければならなかった。さっきから頭に浮かんでは消し浮かんでは消していた。家族のことだった。一番大切にしているもので、一番大切されているもの。それなのに、ほんの数時間前に会ったばかりなのに、今はどんなに手を伸ばしても届きそうにない。


 いつかまた会えるかな。会える日が来るかな。俺の話を信じてくれるかな。


 息子を殺した男の顔なんて見たくもないか。


―お父さん、お母さん、こんなことになってごめん―


 有希也の目に涙が溢れた。


 有希也には兄がいた。しかし一目会うこともなく、有希也が生まれる前に亡くなっている。母親の隣で眠っていた赤ちゃんが、気がついたときには息絶えていたという。突然死だった。結婚8年目にしてようやく授かった新しい命は、わずか半年で天に召された。


 母親は泣き腫らした。そして自分を責めた。あなたのせいではないと医者に言われたのに食事がのどを通らず、やつれてしまったという。


 それを支えたのが父親だった。父親にとっても大きなショックだったが、一緒に泣くより、気丈に振る舞うことを選んだのは、一日も早く母親の笑顔を見たかったからだ。その甲斐あって、母親に笑顔が戻った。息子の死を乗り越えたことで本当の夫婦になれたと父親が教えてくれた。


 それから2年後に有希也が生まれた。兄が残してくれたのは両親の愛情と、母親の心配性だった。


 有希也は両親の愛情を独り占めして育った。


 休みの度に、水族館や動物園に連れて行ってもらえた。


 習い事も一通り経験した。


 数えきれないほど写真を撮った。


 欲しいおもちゃは全部買ってもらえた、というわけにはいかなかったのは、なんでも買い与えたらワガママな子になるじゃないかと、母親が憂えたからだ。その判断には感謝している。


 ただし本は好きなだけ買ってもらえた。子供の頃から部屋の本棚にはたくさんの本が並んでいた。おかげで子供の頃から読書が好きで、そのせいか勉強も出来て、中学は地元の私立校に進学した。運動神経もよく、いつもリレーの選手に選ばれ、高校時代はラグビー部の副キャプテンも務めた。一流といわれる大学に進学し、大手の証券会社に就職した。順調といっていい人生を歩んできた。それなのに。


 有希也は伸ばしたままの左足に触れた。筋肉の乏しい太腿。もう2度と、ラグビーはおろか普通に歩くことすら叶わない。


―あの時、あの場所で、休憩なんてしなければこんなことにはならなかったのに―


 溢れた涙が頬を伝い、伸びたままの太腿にこぼれ落ちた。


 今頃、本当の自分はあの場所で雨に打たれている。夜の静寂を奪うほどの激しい雨が、2度と目覚めることのない上村有希也の身体に無情に降り注いでいる。


 有希也は冷蔵庫に手をつき、流しに寄りかかりながら立ち上がった。熱の冷めた身体は、スプレーで固めたように強張っていた。そのまま左足を引きずってゴミを縫って窓まで歩き、外を見ようとカーテンをめくって、息をのんだ。


 そこに津原保志がいた。窓ガラスに映る津原保志が、こっちを向いて涙を流していた。


―なんでコイツが泣いてるんだ―


 虚を衝かれた津原の涙に思わず頬が緩むと、窓ガラスの津原も笑った。


 そのまま、まじまじと見つめた。鏡のようにははっきりと見えないが、暗いガラスの中で、津原もこっちを見つめている。ぼさぼさの髪に無精ひげ。こけた頬を撫でると、津原も撫でた。


―コイツは何者なんだ?―


 分かっているのは名前と生年月日と住所、それとおそらく独身で、部屋が汚いということ。左足は改めて挙げるまでもない。


 振り返って部屋を見回した。本当に汚い部屋だ。最後に掃除したのはいつだろう。もう一度窓の方を向いたら、だるまさんが転んだのように、ゴミの下からゴキブリが出て来そうだ。


 そんなことを考えていたら、ちゃぶ台の下に封筒があるのを見付けた。


―また封筒か、今度は何だ?―


 有希也は腰を下ろして手繰り寄せた。

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