第5話

 強さを増した雨が散弾銃のように打ち付けた。なんてことはないただの道ですっかり体力を消耗してしまった。それでも途中横を通過したクルマは1台だけ、人には会わずに済んだ。ポケットの隅で糸屑にまみれてはいても運はまだ残っているようだ。


 そこに建っていたのは、案の定古びたアパートだった。ひと気のない雨の夜更けにぽつんと佇んでいて、灰色がかった壁は新築当時は鮮やかなベージュだったのが見てとれる。上下3部屋ずつの2階建てで、雨にさらされた階段は白の塗装が剥げ、ところどころ虫歯のようにオレンジ色が浮かんでいる。築20年は経過していそうで、都内でも家賃は5万円しないだろう。


 いま窓に明かりが見えるのは2部屋だけ。この足では2階に住むのは厳しく、財布から保険証を出して確認すると、ちょうど目の前にある明かりの消えた103号室がこの男の部屋だった。


 103号室の表札は日に焼けてすっかり色褪せ、かろうじて「津原」の表記が読み取れる。ここに住み始めたのは最近ではないようだ。その下にあるのは、両面テープで張り付けたようなボタンだけの粗末な呼び鈴。ドアに付いた口は郵便受けというのか新聞受けというのか。懐かしく思うのは、オートロックのマンションでは見かけないせいだろう。ドア自体もプレハブのような造りで、強度も防音も一般的な基準を満たしていなさそう。


 ポケットを探っても鍵は見当たらなかった。外出時に施錠を欠かさないタイプではなさそうだし、盗まれて困るものもないだろうと推察した通り、ノブをひねるとドアが開いた。


 猫のトイレのような狭い玄関にはスニーカーと革靴が一足ずつ。置かれているというより転がっているそれらは薄明りでもわかるほど、左足の底が斜めに削れていて、いずれもこの男のものだと分かる。


 ドアを閉めると雨音が遠ざかった。張りつめていた緊張がわずかに和らぎ、一つ息を吐く。


 放り出すようにサンダルを脱ぎ捨て、壁に手をついて玄関の段差を乗り越える。壁のスイッチを押すと蛍光灯が部屋を照らし出した。


 ドアを開けた時から鼻が感知していた通り、そこには不潔が充満していた。


 四畳半ほどの部屋の中央にはテーブルよりちゃぶ台という方が相応しい小さな丸い机が置かれているのだが、その上は潰れた缶ビールや発泡酒の空き缶で溢れている。ちゃぶ台の周りには、コンビニ弁当のケースがそこかしこに放置されていて、蓋は閉じているものの中で食べ残しが腐敗しているものもある。散乱するペットボトルは、飲みかけのものあるし、空であっても底に滓がこびりついたまま蓋がされていないのもある。ちゃぶ台の横の敷きっぱなしの布団には焼け跡のような茶色い染みが付着していた。


 好き放題に散らかった男の一人暮らしそのもののワンルーム。家族がいれば衝動的に人を殺すような真似はしないだろうし、指輪もしていない。同居人はおろか来客の気配すらないこの部屋に住んでいるのは津原保志一人で間違いない。


 右手にある流しには、カップラーメンの空の容器が積み上げられていたが、黒茶けた汚れがこびりついていて、食後にすすぐことすらしていないのがわかる。

 流しには他に白いマグカップと茶色の箸が一膳、流し台には皿と茶碗とグラスが一つずつ置かれている。流し台に置かれた炊飯器を開けると、内釜には干からびた米つぶがこびりついていた。


 下に置かれた、旅館で見掛けるような白い小ぶりの1つドアの冷蔵庫の中身は発泡酒が一缶。他には使い掛けのバターと瓶入りの佃煮、いずれも賞味期限が切れていた。いくらか汚れているが片付いている分部屋よりきれいで、この中に避難したい気にさせられる。


 のどは渇いていても酒を飲む気にはなれず、有希也は流し台のグラスをとった。そのまま使いたくはないが、キッチンスポンジは汚れていて手に取るのも躊躇われる。拍子抜けするほど軽い洗剤のボトルは、案の定ひっくり返しても出てこなかった。


 水道が止まっていることも危惧したが、蛇口をひねると無事黒くも赤くもない透明な水が流れた。石鹸は見当たらず、仕方なく水だけで手を洗う。右の手のひらの傷口を流してから、入念に水洗いしたグラスに水を注ぎ、渇いたのどに流し込む。身体が熱を持っているせいで毛穴から汗が噴き出したが立て続けに3杯飲み干した。


 水分補給を終え、ようやくその場に腰を下ろした。床が濡れても気になる部屋ではない。足にまとわりつく濡れたズボンは、右足はすんなり脱げ、左足も両手でひざを折り曲げると案外簡単に脱げた。ズボンを脱ぐのにさほど苦労しないことを知る。


 雨と汗で全身ぐしょぐしょで、すぐにでもシャワーを浴びたかった。玄関を入ってすぐ右にユニットバスがあったが、布団の上に置かれた目覚まし時計が12時を過ぎていた。狭いアパートは隣に響く。外は土砂降りとはいえ、余計なトラブルの種は蒔きたくないから諦めた。


 タンクトップとトランクスになった有希也は、左足は伸ばしたまま、右足だけひざを折って冷蔵庫に背中を預けた。


 どうしようもなく汚い部屋だ。集積所から拾ってきたごみ袋をひっくり返したわけでもあるまいに、なぜこうも散らかせるのか。空き缶を袋にまとめることもできないのか。なんでこんなところで暮らせるんだ。


 部屋全体がゴミ箱のようで、きれい好きの有希也はここにいるだけで苦痛で呼吸さえためらわれる。ストレスに任せ、そばにあったペットボトルを拾って部屋の隅で捨て猫みたいに佇んでいた空き缶目掛けて投げつけた。狙い通りに命中し、乾いた音が鳴る。ペットボトルはあさっての方向へ跳ね、倒れた缶から黄色い液体が床にこぼれた。


―空じゃなかったのかよ―


 有希也は舌打ちし、うんざりしながら片付けようとして、止めた。


 この身体は、この足は、立ち上がるにも一々労力を使う。面倒臭くなって、起こしかけた身体をそのまま冷蔵庫に預けた。幸い中身は少量で流出はすぐに止まった。


 掃除となると、立ったりしゃがんだりを繰り返すのだからこの足では楽な作業ではない。ただの掃除がただの掃除ではない。散らかっているのも仕方ないのかもしれない。ゴミをほったらかしにしているあたり、だらしないのは否定できないが。

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