第4話
上に向かって手を伸ばした。また右足がぬかるんで膝が崩れたが、倒れるわけにはいかない。指先だけで壁にしがみつく。壁の細かな凹凸が指先を採掘するように食い込んだが、痛がっている暇はない。
登れない高さではなくても、慣れない身体で左足も上手く動かせないでは高い壁だ。わずかな溝に指をかけて身体を引き上げる。支えるのは右足一本。気を抜けば転落してしまうから慎重に、しかし力一杯壁をつかむ。降り続く雨に視界を妨げられながら一段一段よじ登った。
上村有希也はラグビーで鍛えた頑丈な肉体を持っていたのに、この細い身体はいかにも頼りない。
―少しぐらい鍛えておけよ―
唇を噛んだが、すぐにそれが間違いと気付いた。左足には力が入らず、動かすことすらままならない。この足ではできる運動も限られる。やりたくてもできなかったんだ。
―もし自分がずっとこの足で生きなければならなかったとしたら?―
有希也の目に浮かぶのは未来のことではなかった。ランドセルを背負って、あるいは学生服を着て、足を引きずって歩く年端も行かない少年の姿。この男はそうして生きてきたのだろうか。
華奢な身体ではあったが、不自由な足を補うように、指先の皮膚に厚みが、腕の筋には逞しさが感じられる。
そして右足。一本で支え続けてきたこの足には、トレーニングによって得られるものとは違う、細くてもしなやかな草食動物のような強さが備わっていた。
―見た目ほどやわではなさそうだ―
身体が軽い分登りやすいのは助かるが、すぐに汗が噴き出し、体臭が鼻をついて眩暈すら覚えた。呼吸はさらに荒くなり、口臭も混じって吐き気に襲われた。
それでも一刻も早くここから逃れたい。その一心で必死によじ登った。10本の指と2本の腕、それと右足だけで、必死に登った。激しく伸縮する心臓は血液を、肺は酸素を身体の隅々に送り込む。いつのまにか臭いは気にならなくなり、思うように動かせない左足を当然のように受け入れていた。
柵に手を掛けて乗り越えると有希也は大の字になり、動悸を背中で感じながら夜空を見上げた。降り注ぐ雨が今は心地よかった。
呼吸が収まるのを待って身体を起こした。ぼんやりと二つ並んだ足が見える。熱を持った右足と沈黙した左足にポケットから出したサンダルを通す。
柵を支えに、サンダルが脱げないようコントロールしながら立ち上がる。左足を引きずって自販機まで歩き、取り口に手を入れた。置かれたままの缶コーヒー。プルトップは簡単に開いた。温くなったコーヒーは渇いたのどを潤し、香りが通り風のように鼻腔をかすめていった。
―休憩は終わりだ―
空き缶を自販機の横のゴミ箱に捨てる。体力は消耗していても、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。
―壁は乗り越えた。次はどうすればいい?―
有希也はズボンのポケットを探った。右のポケットには例の封筒があるが、左にも何か入っている。取り出したそれは財布だった。使い古されてすっかり黒が色褪せ、四つ角が擦り切れた二つ折りの財布の中身は千円札が4枚と小銭が少し、それにレシートとキャッシュカード。
―あった―
カードサイズの保険証がケースもなく無造作に入れられていた。
―津原保志―
それがこの男の名前だった。
生年月日を見ると、自分と同い年だった。老けて見えたが、実年齢の方が若い。
住所に見覚えがある。この男の住むアパートは、さっきスマートフォンの地図で見た、交番に行く道すがらにあった。この足でサンダル履きだから近所に住んでいると思いきや案外離れていたが、目の前の道を歩いていけば辿り着ける。
このアパートしか行くあてはない。いつまでもここにいて人目に触れれば厄介なことになる。
雨に濡れた上着を脱ぎ、顔を拭うと赤黒く染まった。
それは紛れもなく上村有希也を流れていた血液だったが、怒りも憎しみも湧いてこなかった。雨が強さを増していて、いまは感傷に浸るより一刻も早くこの場を逃れなければならない。
上着を肩にかける。肩越しに、雨に晒されたバイクが見えた。大学時代から乗り続けている愛車にも、2度と跨ることはないだろう。最後に触れるだけでもしたかったが、この足では覚束ない。背中を向けて、左足をひきずって歩き出した。
有希也はただひたすら歩いた。人もクルマも通らない、街灯もほとんどない道。限られた視界を頼りに、耳に届くのは雨音だけ。気温は下がり、冷たい雨に打たれているのに身体が熱を帯びていた。濡れた道を慣れない身体で片足を引いて歩くのはそれだけで重労働だった。それとも身体が拒否反応を起こしているのか。
転ばないよう一歩ずつ用心深く歩いた。まず右足を踏み出し、そのあとからつま先が30度ほど外側を向いた左足が右足の半足分うしろに着地する。極力左足に体重をかけないよう注意しつつ反動を利用して右足を踏み出す。それをひたすら繰り返した。
この男もこうして歩いていたのか。それとももっとすたすた歩いていたのだろうか。痛みはないからやはりこの足は怪我ではない。この距離でサンダル履きであるのを見ても、この足になったのは最近のことではなさそうだ。
ぎこちないながらも徐々に勢いがついてきた。左足をもう半足分前に出してみても大丈夫で、腕の振りも大きくなる。わずかながら加速がついた。
子供の頃にお祖母ちゃんと一緒にこんな風に歩いたな。「おいっちにーおいっちにー」と腕を大きく振って。何の時だったけ?思い出せないけど、リズミカルに歩くのが妙に楽しかったのは覚えている。「おいっちにーおいっちにー」この調子だ。
その途端にマンホールに滑って転倒した。とっさに手をつき、水しぶきが顔に掛かる。全身水浸しで今更どうということはないが、顔を拭った右の手のひらに赤いものが見えて、有希也は口を付けた。指先を切ったり火傷をしたりすると、口をつけるのが子供の頃からの習慣で、今もそうしただけだったが、眼球から数センチの、ピントの合わない右手が目に入って、直ぐに口から引き剥がした。
それはこの男の、津原保志の血液だった。津原保志の血液が、蜘蛛が糸を張り巡らせるように口の中に広がっていき、有希也は泡を食ったように唾を吐き出した。唇をすぼめて口中の唾液を集め、一滴さえ拒絶するように、一心不乱に口の中の血を吐き出した。
突然激しい耳鳴りに襲われ、地表がぐらぐらと揺れ出した。平衡感覚が崩れ、四つん這いでいるのもままならない。目を開けていることもできず必死に地面にしがみつく。地震ではない。フラスコで溶液を混ぜるように、全身が揺さぶられた。
やがて雨音の喧騒が戻り、目を開けた。波を打っていた地表は平坦に戻っている。どうにか身体は落ち着いたが、右手はひりひりと沁みていた。血と雨が混じって流れ落ち、水たまりに溶けて行った。
有希也は手のひらを見つめた。今はこれが自分の手、これは自分が転んで負った傷。これが自分の身体を流れる血液だ。そっと傷口に口をつけた。血液がのどを通り、筋肉に皮膚に染みていくように全身を流れて行った。
さっきより上手に立ち上がり、有希也はまた歩き始めた。
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