第3話
雨粒が頬に当たって目が覚めた。
―気を失っていたようだが、生きているのか―
凝らした目に映るのは、薄墨の硝子を隔てた様な闇とその中に立つ木々。反対側にはコンクリートの壁がそびえている。さっき上から見た雑木林と壁の狭間に転落したようだ。
瞼の上で雨粒がはじけた。降り出した雨は灰色の壁に点々と染みを塗りつけている。自販機周辺のスペースを囲むように設置された、わずかな明かりにぼんやりと浮き上がって見える柵は、倒れているせいで余計に高く感じられた。
―あんなところから落ちて、よく生きていられたな―
朦朧としたまま眺めていた有希也だったが、我に返ったのは奇妙なことに気づいたからだった。
—頭に痛みがない—
石で3度も殴られ、血が噴き出したのだから大怪我をしているはずなのに。手を伸ばしてまさぐってみても傷らしいものはどこにもなかった。
―どうなってるんだ?―
それだけではなく、掻き回した頭の感触が今までとは明らかに異なっている。昨日散髪したての短い髪の毛がボサボサに伸び、丸みを帯びていた頭はむしろ楕円を描いている。顔は朝、電機シェーバーで剃った顎の周りが、無精ひげで覆われていた。
頬を撫でたところで手が止まったのは、殴られる直前バイクに乗ろうとしてレザーグローブをはめた記憶が甦ったからだ。
その手はグローブをしていなかった。それだけではなく、闇に慣れてきた目がとらえたのは同姓同名の赤の他人のような、同じようで異なる見覚えのない手。裏返しても表にしても見知らぬ手だった。
恐る恐る上体を起こし、全身を見回した。レザージャケットを着ていたはずが作業着に、ブーツがサンダルに変わっている。
両方の手を、握って、開いてみた。わずかに、正座を解いた後のようなしびれに似たぎこちなさを伴っている。手だけでなく、腕も脚も、全身が違和感に覆われている。激しく鼓動する心臓さえも自分のものではないようだった。
立ち上がろうとしたものの、つんのめって両手をついた。上手く立てなかったのは全身の違和感ともう一つ、左足に力が入らなかったからだった。
両手をついたまま顔を上げた有希也の前に、黒い塊があった。だまし絵の様に知覚するのに手こずったそれは、闇の中でうずくまる人間の背中だった。闇の中でも頭部が赤く染まっているのがわかった。とっさに伸ばした手の感触で、その人間がレザーをまとっているのが分かって鼓動が一層激しくなった。反射的に腕を引っ張ると、その身体は天を仰ぐように倒れ、はずみで顔がこっちを向いた。白目を剥き、力なく口の開いた顔であっても、それが誰か分からない訳がなかった。
―俺が死んでる―
焦点が狂ったように、視界が大きく揺れた。声を上げそうになっても、上手くのどを出てこない。代わりに吐き出された口臭に有希也はえづいた。呼吸が荒くなった分、余計に鼻を打った。
―頭を石で殴られ、転落して死んだんだ―
呼吸や脈拍を確認する必要がないほど生気の欠片も残っていない自分の死体を有希也は呆然と見つめた。何が起きたのか、すぐに理解できるほど易しいことではない。しかし考えても分からないほど難しくはなかった。
ボサボサの髪、無精ひげ、作業着、サンダル、鼻を打つ口臭、そして不自由な左足。ここにいるのは上村有希也ではない。では誰なのか。すでに答えは出ていた。
さっき出会った、薄汚い、金を奪おうと石を手に殴りかかってきた狂った男。
―あの男の中にいる!―
分かったところで易々と受け入れられるはずはないが、泣き喚くには現実感が乏しかった。
動かすことができない左足は伸ばしたまま、右足だけ折りたたみ、その場にうずくまった。
俺は上村有希也だ。間違いない。さっきまで実家で過ごしていたことも、ここまでバイクで来たこともはっきり覚えている。それが、どういうわけか、身体があの男に変わってしまっている。入れ替わったってことか。って事はあの男は死んだのか。俺の身体の中に入って一緒に死んだのか。あの男は死んだのか。誰を殺したんだ。俺かあいつ自身か。あいつは自殺したってことか、いや身体はこうして生きている。あいつだってこんなことになるとは思わなかったはずだ。誰が誰を殺して、誰が生き残ったのか。どうしてこんなことになったのか。
あれこれ考えたところで、答えなど分かるはずがなかった。こんな奇怪な状況に冷静に対処できるほど頭は働いていない。
有希也は抱えた右足のひざにじっと額を押し当てた。どのくらいの時間だろうか。長かった気もするし、刹那にも感じられた。
辺りを包んでいた虫の声は消え、今は葉を打つ雨音だけが耳に届いている。水玉模様にすぎなかった雨粒は、作業着を塗り潰しながら体温を奪っていった。
―とにかく今はここから抜け出さなければならない―
降り付ける雨に、ただ打たれているわけにはいかない。死体の側にいるのはまずいことぐらいは判断できた。今はとにかく、何処かへ逃れる必要がある。
有希也は顔を上げた。壁の上に、ぼんやりと明かりが見えた。
前には壁、後ろには林があるだけ。壁の高さは5メートルほどか。
林の間を歩いて行ってもどこに続いているか、抜け出せるかも分からない。おまけに下は雨に濡れてぬかるむ土、右足だけではまともに歩けそうになかった。
―壁を登るしかない―
雨は強さを増している。一刻も早くここから脱け出さなければならない。迷っている暇はなかった。
邪魔になるサンダルは脱ぎ、ズボンの後ろのポケットに入れた。ぬかるんだ地面を這いつくばり、泥にまみれた手で掴んだ壁は、四角いブロックが積み重なったもの。わずかな溝に指を掛けると、荒い砂粒の様な壁面が指先に食い込んだ。のどの奥からうめきに混じって口臭が漏れてくる。左足は言うこと聞かず、右足だけを力いっぱい伸ばした。
壁に寄り添いながらも、どうにか立ち上がることができた。それでも達成感などない。
―ここからが本番だ―
右手を伸ばし、頭の上にある溝に指を掛けようとした、その時、不意に視線を感じて振り返った。壁に背中を預け、探った視線の先にあるのは白目を剥いたままの自分の死体。
―気のせいか―
しかし暗闇の中に浮かび上がっているものがあった。後ろ手で壁を掴みながら凝視したそれはあの封筒だった。黒いジャケットの胸元からはみ出した白い封筒は目立つはずだが、さっきは気付かなかった。
—これを持って行けよ—
そう自分に言われている気がした。
右足を踏み出したが、泥に取られて膝が折れた。手をついた拍子に泥が顔に跳ねた。その顔を拭った手をそのまま胸元に伸ばす。泥のついた封筒の中身は、さっき見た通りの一万円札の束。
これからどうなるか分からないが金は要る。もはや落とし主のことなど構っている暇はない。横たわる上村有希也の顔に向かって封筒を掲げ、目を閉じて一礼した。それから作業着のポケットにしまった。
―振り返るのはこれで終わりだ―
死んだ自分に背を向けて、壁に向かった。
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