第2話
予想した通り、国道は空いていた。通行止めの高速道路から流れてくるかとも思ったが、日曜の夜。もともと交通量が少ない時間だけにそれはなく、有希也の運転するホンダCB400SFはすいすい進んだ。
有希也は普通免許も持っているが、クルマは持っていない。独身の東京暮らしでは必要ないし、駐車場代もばかにならない。なにより大学時代にアルバイトで貯めて買ったこのバイクに愛着があった。中古だが走行距離は少なく、新品とかわらないぐらいに黒いボディを光らせていたから即決した。その目に狂いはなく、5年以上乗っているが故障は一度もない。燃費もいい。有希也はスピードを出すことに興味はないし、改造もしていない。どんな時でも安全第一で、雨の日は極力運転しない。マフラーも純正で、回転を上げた時の、悪気のない素直なエンジン音が好きだった。
早めに帰宅できそうだ。普段より1時間も早く夕食を済ませたせいで小腹が空いていたし、身体も冷えてきたからラーメンでも食べようか。
そんな気にさせられたのは、この先に一度来た店があるからだった。国道を外れた少し寂れたところにある店は、場所が悪いながらも味が評判で、テレビで取り上げられたこともあって行列が出来ていた。20分ほど並んだが、わざわざ食べにくる価値はあったと満足して帰ったのを覚えている。豚骨好きの有希也に、また食べたいと思わせる味噌ラーメンで、フルフェイスのヘルメットにスープの匂いを充満させながら運転した記憶も食欲を刺激した。
朝食もラーメンだったが元来有希也は日に2度同じメニューでも苦にならない。好物だからではなく、むしろ嫌がることが理解できないほど拘りはなく、好き嫌いもなかった。親が料理上手だと子供の好き嫌いが少ないという話を聞いた時は妙に納得したものだった。
しかし遠目からでもわかるほど煌々と点る電飾看板が、今日は見えなかった。閉じたシャッターに『日曜日は20時閉店』の無慈悲な表示。人通りの少ないこの時間は閉まっているかもしれないとの悪い予想が的中した。諦めてエンジンをかけなおしたら、排気ガスにスープの匂いが混じっていたのは気のせいか。
そのまましばらく細い道を走った。
街灯が少なく、スピードを落としてライトをハイビームに切り替えも、前方確認には一際注意を要する。往来が乏しく、貸切のような田舎道でも、鹿が飛び出してきそうでブレーキに手を掛けて走った。
しばらくバイクを走らせたものの、見慣れない道が続いて中々国道に合流できず、道の凹凸に不安をあおられた。夜闇が体内磁石を狂わせたのか、現在地を見失っていた。
自動販売機を見つけてバイクを止めた。
車道の脇に広めのスペースがあり、場を持て余すように飲料自販機が2つ並んでいる。その明かりが街灯代わりになって休憩するのにちょうど良い。
エンジンを切ってヘルメットを脱ぐと、虫の声が滲みてきた。裏は雑木林。そこはただの闇ではなく、無数の生命が宿っていると知らしめるように虫が鳴いていた。他に聴こえるのは砂利を踏む自分の足音だけで、足元には空白に似た静寂が広がっていた。
息を吸い込むと澄んだ空気が肺一杯に広がった。排気ガスを換気したようで、いいリフレッシュになった。周りを囲む柵に腰掛けようとしたら、下に暗闇が広がっていて、高いところが苦手な有希也は慌てて離れた。
自販機の明かりに照らされてレザーグローブを外し、肩にかけたバッグのファスナーを開けると、母親に渡されたビニール袋が白く浮かび上がっていた。透けて見えるリンゴの赤が愛情のように見えた。
その下から財布を出し、自販機に小銭を入れた。冷えた身体を温めようと当たり前のようにホットコーヒーを選んだものの、眠れなくなったら嫌だなと後悔しつつ取り口に手を伸ばした有希也だったが、自販機の下に落ちているものが目に入り、そっちを先に拾い上げた。
地面に白く浮かび上がっていたのは封筒だった。何の気なしに拾い上げたら口が開き、中身がこぼれ落ちそうになった。それは10枚20枚ではきかない、一万円札の束だった。
「おい」
暗闇の中で声がした。不意のことに身体を硬直させた有希也のもとへ、声の主が歩いてくる。やがて自販機の明かりが姿を照らし出した。
ボサボサの髪に無精ひげ。小柄でやせこけ、古びた作業着にサンダル履きの身なりは、薄汚いという表現が当てはまる。片足を引きずるように歩いているが、怪我をしているのではなく、左足が不自由なようだ。
「それは俺が先に見つけたんだ。こっちによこせ」
男は手を差し出してまた一歩近寄った。しかしその言葉は、この封筒が男のものではないのを明らかにしていた。
「警察に届けますよ」
こんな大金をネコババするわけにいかない。有希也は薄気味悪い男を警戒しながらも要求を拒んだ。
「馬鹿言うな、いいからよこせ」
手を差し出したまま右足を一歩ずつ踏み出した。酒を呑んでいるようで顔が赤い。どおりで呂律が怪しいはずだ。
「今頃持ち主は困っているはずですから」
「そんなこと言って、一人占めする気だろ?」
「ちゃんと届けますよ」
あんたじゃないんだから、と言いたいのを呑み込む。
「じゃあ代わりに俺が届けてきてやるよ」
明らかなウソに有希也は首を振る。
「だったら半分ずつ山分けでいい。それなら文句ないだろ」
言い終わらないうちに男は封筒の方へ手を伸ばした。有希也がとっさにその手を払うと、男の身体はバランスを崩し、足をもたつかせて尻もちをついた。
「すいません」
慌てて腕を掴んで引き起こしてやると体臭が鼻をついた。しばらく風呂に入っていないようだ。
立ち上がった男は舌打ちし、尻を掃ってから来た道をまた左足を引きずるようにして戻って行った。自販機の明かりを外れると闇に吸い込まれる様に姿が見えなくなった。
男の腕を掴んだ右手、汚れているわけではないが汚らしく感じる。有希也はため息を吐き、その手をジーンズの太腿で擦った。
札束の入った封筒をレザージャケットの内ポケットにしまい、スマートフォンを開いて交通情報と地図を確認する。いまも続く通行止め区間を過ぎてから高速道路に乗れば自宅までは1時間半程で、とっとと家に帰りたいが、金を交番に届けなければならない。持ち逃げしたところで誰にばれるわけでもないが、威勢のいいことを言った手前そういうわけにはいかない。バイクで5分ほどのところに交番があった。
封筒には何も書かれておらず、中は札束だけで明細や領収証は見当たらない。きれいな金ではなさそうだ。交番に行ったら色々と聞かれるだろう。家に着くのは12時過ぎるかもしれない。それからシャワーを浴びて、と睡眠時間を計算しながらグローブをはめ、ミラーにかけたヘルメットを取ろうとした瞬間、頭を衝撃が襲った。
闇に鈍い音が響いた。
薄れゆく意識で振り返った有希也の目に飛び込んできたのは、目を血走らせ、大きな石を振り上げたさっきの男。
とっさにかばった手もろとも頭にめり込んだ。真っ赤な血が噴き出したが、もはや悲鳴がのどを出ない。返り血で顔を染めた男は、そのままもう一度石を振り下ろし、三度目の鈍い音が鳴った。
すでに有希也は致命傷を負っていたが、高校時代に打ち込んだラグビーがそうさせたのか、朦朧とした意識のまま男の胴体にしがみついた。
足が不自由な男は抵抗することもできず、二人はもつれあったまま柵を乗り越え、暗闇の中に転落した。
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