原点

すでおに

第1話

 そこはまっすぐに伸びた道のはずだった。


 信号はタイミングよく変わり、渋滞することなくスムーズに流れている。ヘッドライトが届かなくても、左右に並ぶ街灯が照らしてくれる。スロットルを捻れば一気に加速する。その分身体に負荷が掛かるが、そういうもの。時にはレバーを握り、ペダルを踏んでブレーキをかける。一時停止からのリスタートは左右の確認を怠らず。障害物があれば避ければいいし、石ころの一つや二つどうということはない。ただ、空を覆う雲だけが気がかりだった。


 上村有希也うえむらゆきやは一人バイクを走らせていた。

 心地いい朝陽が射していた道も、いまはレザーのジャケットとグローブを身に着けていても肌寒かった。朝の暖かさに騙され、動きづらさに慣れないレザーパンツを拒否したのを今は後悔していた。バイクに乗り始めた大学時代に安いレザーパンツを見つけて衝動買いしてみたもののどうにも馴染めなくて、真冬以外はクローゼットに仕舞い込んだまま。そのせいでジーンズを通り抜ける風に足を冷やされていた。


 もう一つ朝と違うのは肩に掛けたバッグで、ポケットでは落としてしまいそうで所持品はわずかでもバイクに乗る時はワンショルダーのバッグを重宝するのだが、朝は財布と携帯電話とキーケースだけだったバッグに、今はリンゴが積まれていた。スピードを緩めるたびに加速度から解放されて背中に寄り添ってくるそれは、有希也にはむしろ心地よかった。


 今朝早くに枕元の携帯電話が鳴った。

 折角の日曜日、昼過ぎまで寝ている腹積もりが、寝ぼけ眼で手にしたディスプレイには母親の名前が表示されていた。朝っぱらから何事かと、口の回らないまま電話に出ると父親が寝込んでいると言われた。

 沈んだトーンだったものの、家で寝ているぐらいだから深刻なものではないはず。見舞いというほど大袈裟なものでもないが、久しぶりに両親の顔を見に行くのも悪くない。天気が良いし、冬になる前に一っ走りしておきたいというのもあって、有希也は簡単に支度を済ませてバイクに跨がった。


 前回のツーリングは2か月ほど前で、猛暑のせいでフルフェイスのヘルメットの中にびっしょり汗をかき、ヘルメットを脱ぐと頭から湯気が上るのを感じた。眩しかった街路樹の緑が、今日は黄色く染まり始めていた。陽射しには強さが残っているものの暑さは落ち着き、湿度も低い、ツーリングに最適な気候で、バイクで風を切るのは本当に気持ちがいい。


 実家に帰るだけだから身だしなみに気を使う必要はないけれど、家を出る前にシャワーを浴びて髭を剃った。誰にも会わなくても出掛けの習慣だからそうしないと落ち着かない。朝食はサービスエリアのラーメン。朝食には重めでも、ラーメンが好きだし、選択肢の限られるサービスエリアではそれが最良に思える。そこそこ美味しかった。食後のアイスコーヒーは一段と美味しくて、半年前に彼女と別れてから退屈な休日を過ごすことが多かったから、いい気分転換になる。エンジンを掛けるとまた優しい風に包まれた。


 空気が少しずつ吸い慣れたものに変わっていった。大学進学と同時に上京してから実家に帰るのは年に一度正月ぐらいで、それすら帰らない年もあったが、母親が上京してくることは何度もあったから、寂しい思いはしていない。社会人になって親に会えなくて寂しいもないが、やっぱり顔を見ると安心する。


 父親は寝ているだろうと家の20メートルほど手前でエンジンを切り、残りの動力でバイクを流して停車させた。正月以来の帰郷だけれど1年経っていないし、田舎町だから近所の景色に変化はないが、隣家の庭に咲いた金木犀の匂いが鼻をくすぐった。子供の頃は気にならなかった匂いをいつからか意識するようになった。銀杏の匂いも大人になって気になり始めた。近所になかったからか、年をとったせいもあるのだろう。


 門扉の取っ手をそっと開閉し、バッグの中からキーケースを出して玄関を開ける。気配を察したのか母親がいつものように「お帰りなさい」と迎えてくれた。その表情に明かりが灯っている。気づいた父親が起きてきた。


「また母さんが大袈裟に騒いで。大した事じゃないのに、わざわざ来てもらって悪いな。ただの風邪だよ」

 顔色は悪くないが、水色のパジャマの下に白の肌着の上下を着ているから悪寒はするのかもしれない。

「起きてこなくていいよ。寝てなよ」

「37度ちょっと出ただけだよ。薬飲んだからもう下がったけどな」

 そう言い残して寝室に引っ込んだ。風邪をうつさないための配慮だろう。

 電話口の母親は高熱に浮かされているような口ぶりだった。心配性の母親に振り回されるのは子供の頃からだから慣れっこで、今日だってどうせそんなところだろうと見当がついていた。


「お昼は?食べたの?」


「途中で食べてきた」

 サービスエリアで食べたラーメンは朝食の時間だったけれど、こう言わないと昼ご飯を作ってくれそうで、余計な手間をかけたくなかった。

「急だったからお土産はないよ」

 正月に来る時は、デパートの地下なんかでお菓子を買ってくる。母親がお茶と一緒に出してくれるそれを3人で食べるのが恒例で、これ美味しいわね、もう一個いただこう、と毎回母親はお代わりする。気を遣っているだけかもしれないが、喜ばれて悪い気はしない。


「気を遣わなくていいわよ。外は暑かったでしょ」

 冷えた麦茶と冷えた水羊羹を出してくれた。水羊羹は朝の電話の後に冷蔵庫に入れた、そんな気がした。


 やっぱり実家は居心地がいい。母親とリビングに二人きりでも変に気を使って会話の種を探す必要がない。お茶を淹れてくれたり、茶菓子を出してくれたりはするけれど、用もなく話しかけてくることはない。ずっとソファーに寝転んで、台所から聞こえる包丁がまな板を叩く小気味のいい音を子守歌代わりに、テレビを見ながらうたた寝をしていた。


「明日仕事でしょ。早く帰ったほうがいいんじゃないの?」

 目を開けるのを待っていたように母親が訊いてきた。


「自分で呼んでおいてよく言うよ」

 この手のやりとりは何度となく繰り返してきた。昔は毎日だったから、今日は懐かしく感じた。


 ソファーに座り直してから声の方を向いたのは、いい匂いに誘われたからだ。夕飯は上村家のおふくろの味、肉じゃが。早く帰った方がいいと言いながら、出してくれるあたりが、おふくろの味と言われる由縁か。おふくろの味の定番の肉じゃがも、母親が作るのはよそで食べるのとは一味違う甘辛味。そこがくせになるし、何度食べても飽きない。一度何が入っているのか訊いたことがある。


「教えたら隠し味にならないでしょ」ニヤリと片方の口角を上げたから、今も謎のままだ。


 父親も加わり、3人で食卓を囲んだ。3人になると無言でいるのはちょっと気まずい。といって、取ってつけた様に話し出すのもわざとらしいと躊躇っていたら「最近はどうなの、忙しい?」と母親。淀みない縦列駐車のような切り出しに、さすがベテラン主婦と顔には出さずに感心する。


「相変わらず、結構忙しいよ」から始めて、簡単に近況報告をした。今はまだ仕事の話。もう何年かしたら結婚とかの話になって、いい人いないのだの孫の顔を見たいだの言いだすのかもしれない。親心とはたぶんきっとそういうものだ。


「今はもう会社に骨を埋める時代でもないだろう。いい話があれば、思い切って外に出てみるのも悪くないかもな」

 あと数年で定年を迎える父親。昔気質なところがあるから転職を勧めるのは意外に思えた。いつかは起業したいという野望を感じ取っているのだろうか。


「せっかくいい会社に入れたんだから、辞めたらもったいないわよ」

 母親が少々荒っぽく、空いた皿にサラダをよそう。受け取りながら父親と顔を見合わせた。


 父親は夕飯を食べ終わるとすぐに寝た。食後に飲んだ薬が効いたのか。久しぶりに3人で食事をして安心したのかもしれない。


 ダイニングテーブルを離れ、ソファーに身体を預けてしばらくだらだらしていたら、いつの間にかいい時間になっていた。さっき母親が言った通り明日は仕事、それも月曜の朝はいつもより忙しい。そろそろ帰らないと本当にまずいと支度をしていたら、テレビのニュースが、事故の影響で高速道路が通行止めになっていると伝えていた。


「だから言ったじゃないの」

 母親は予言を的中させたかのように言った。


「日曜の夜は、一般道だって空いてるよ」

 そうは言ったものの遅くなるのは嫌で、手早く支度を済ませた。玄関でブーツに足を通していると、母親が肩越しにビニール袋を差し出した。

「これ持って行きなさい」

 中にリンゴが3つ入っていた。

「いいよ。重いし」

「外食が多いんでしょ。果物も摂らなきゃだめよ」

 仕方なくバッグにいれると、肩にのしかかった。母親の愛情みたいで照れ臭かった。


 ここでいいと言ったのに、母親はつっかけを履いて玄関の外まで付いて来てくれた。父親を起こさないよう、エンジンを掛けずにバイクを押す。東京と違ってこの辺りは街灯が少なく、暗い道を母親と並んで歩く。ヘッドライトが正面だけを照らしていた。

 ふと子供の頃に町内の盆踊りの帰りにこうして二人で歩いた記憶が蘇った。浴衣姿で水風船で遊んでいたら、母親が反対の手をつないできた。丁度そういうのが恥ずかしくなる年頃で、友達に見られたらたまらないとその手を解こうとしたら「誰も見てないからいいじゃない」と心内を見透かした様に余計に強く握りしめられ、そのまま家まで歩いた。水風船の音が途切れた夜道は、虫の声が余熱のように染みてきた。夏の終わりの頃だった。


「それじゃあまた、正月に来るから」

 家が見えなくなったところでシートに跨る。


「夜遅いんだから、気を付けてね」

 3か月ほどでまた帰って来るはずだった。なんてことはない、普段通りの別れの言葉を交わしてエンジンを掛けた。バックミラーが手を振る母親を映したが、それもすぐに見えなくなった。


 こうして会話をするのが最後になるとはこの時は思いもしなかった。

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