第4話




《七月十三日(月)》


 奥のドアの前に立つ高山君の鞄には、小さな猫のストラップが付いていた。床に置かれた鞄にぶら下がり、こちら側を向いて小さく揺れている。


 胸の高まりに呼応して、手首あたりが涼しくなったように感じた。こんなにも嬉しい事があるなんて。昨日頑張った甲斐があったかな。


 私は電車に乗り込むと、いつものように高山君に声をかける。手早く自己紹介し、同中という切り札を出す。高山君は毎度見慣れた反応だった。


 私は、少し置いて行かれている高山君をさらに振り切るように話を続けた。いや、もう舞い上がっていた。


「実は昨日、映画館のとこで高山君を見かけたんだけど、昨日は映画観に行ってたの?」


「あ、うん」


「それで?」


「それで……? って、ひ、一人で映画観て、その後そう、買い物して、これ買ったんだよ」


 高山君は床に置いてあった鞄を持ち上げて、猫のストラップをこちらに見せてくれた。


 高山君が笑顔を向けてくれる。血が心臓に溜まって、全身に爆発した。


「……かわいい」


 心からのかわいいだった。


 私が昨日、高山君を買い物に誘った目的はまさにこれだった。二人で買ったもの、私が関わったものが、日を超えて存在出来るのか。高山君の記憶はどうなるのか。それを確かめる。


「これ、一人で選んだの?」


 私は笑顔を返しながら質問する。


「うん。なんか……自分に似てるな、と思って」



「え?」


 高山君は微笑んでいる。

 鳥肌が立った。それ、私が言った事……



 高山君の言葉が私に流れ込んでくる。心臓を通ってゆっくりと頭に入ってくる。その言葉は次第に心臓に温かく染め、かつ頭は柔らかく冴えさせた。


 そうだ。高山君は、完全に私を忘れた訳じゃない。私の残したものや与えた影響は、確実にその残滓として君の中にある。私が、君との明日を残せる余地が、確かにある。



「そんなに、似てないよ」


 私は静かに言った。


「そうかもね。何で買ったんだろ。でも、かわいいから良いや」


 私は、頭を通り過ぎたその水が視界から溢れ出すのを堪える。そしてそれを微笑みに変えようと努めた。


 まだ私は望んでも良いのかな。私は、彼と、明日を迎えたい。

 それにはまだ遠い事は分かってる。でも辿り着きたい。そこへ──


「明日さ!」


 私は笑顔で言う。私がどんなに可愛くなくても。無様でみっともなくても。君に残すなら笑顔だ。


「放課後、暇だったら……二人で一緒にあの、駅のとこのパン屋さん行って、浜辺、散歩しない?」


 高山君は面食らったようだったが、すぐに飲み込んだみたいだ。


「あ……うん。分かった、二人でね。俺は明日も暇だから」


 電車はもう私たちが降りる駅に着いていた。そのパン屋も、すぐそこだ。今日の高山君と、今日行ったって別に変わりやしない。

 でも、今日はいい。明日。明日だよ。明日はちょっと違う雰囲気で行っちゃおうかな。


 私は、ドアが開くのを見ながら、高山君に背を向けて言った。


「ありがとう。明日ね。約束」


 そして、そのまま歩き出した。





  *  *  *  *  *





《七月十四日(火)》


 私は髪を整えて、電車のドアが開くのを見ていた。ゆっくりと開いたドアの向こうには、高山君がいる。いつもと同じ制服で本を読み、鞄には猫のストラップがついていた。


 実は今日は、雰囲気を変えてミステリアスな女の子で行こうかな、とか思ったりもした。でも結局やめた。どんなキャラで話したって、結局序盤の話の内容は同じだという一種の倦怠もある。でもそれ以上に、もしかしたら少しは昨日の私を覚えていてくれてるかも、という淡い期待もあった。それに、ただ私がキャラ変してみたいだけだって頭では分かっていたし。


 私はもう一度髪を撫でおさえた。髪を整えても、大して髪は整わない。でも必要だった。


 ゆっくりと歩を進め、電車に乗ると、私はいつも通り高山君に声をかけ、自己紹介をした。高山君は全く覚えていない様子だったが、それも分かっていた事。また今日、始めれば良い。


 会話は、弾むように進んだ。なにせ、片方はもう片方の近況をたくさん知ってるんだから、会話のネタには困らない。


 「ねぇ、この後さ、あのパン屋行って、それで、周りの海辺、散歩しない?」


 私は、高山君に問いかけた。本心では、この約束を覚えていない事も想定していたし、また一から誘えば良いと思っていた。



 でも、それは甘かった。



 高山君はしばらく考え、煮え切らない顔をしていた。その少しの時間が、私には、大問一すら分からなかったテストのように、とてつもなく長くて不安定な時間に思えた。


 高山君が口を開いた。


「今日は……」


 電車が揺れる。



「何か、先に約束があった気がするんだ」



 車内に風が吹いた気がした。


 篠崎真紀の理解は早かった。私は、人は感情を抜けば簡単に行動出来る事を知る。



「それが私。昨日約束したの。覚えてる?」



「いや、ごめん。誰か俺の友だちだった気がするんだよな……篠崎さんとは、多分初めて喋ったから……」




 私の頭に感情が追いついてくる。何かが噛み合わなかった……。約束は覚えていてくれたのに、私じゃなかった。私という存在が抜け落ちてる。


 喜んでいいの? 約束を覚えていてくれたんだって。でもその約束は、私じゃ果たせなくなってしまった。君に私は残せなかった。言葉は覚えていてくれていると、希望的に観測すべきなのかも知れない。


 電車は、もうすぐ降りる駅へ着くところだ。はやい。電車も、時間も。


「私は、違う?」


「え? あ……多分……」


 無理だと分かっていても訊いてしまう。


 電車は駅に着き、ゆっくりとドアが開いていく。パン屋さんはもうそこなのに。君はちゃんと覚えてる? ちゃんとその後浜辺に行くんだよ。


「じゃ、ごめん。行くよ。今日はありがとう篠崎さん。またね」


 そう言い残し、高山君は行ってしまった。



 何か、明日の約束、またすれば良かったかな。でも、また高山君を振り回すだけか。

 高山君は優しい。曖昧な友だちとの約束を、ちゃんと守るんだもの。デートなんかしたら、三十分前に来ちゃったりして。


 電車は、そのドアを閉じ、私を乗せて動き出した。


 大丈夫。きっとまた明日会える。

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