第5話
《七月十五日(水)》
開いたドアの向こうには、高山君の姿は無かった。
三番から乗り込み、他の号車に渡って探した。高山君は、この電車には乗っていなかった。
なんで?
きっとただちょっと用事があるだけさ。
なんでいないの?
そういう日もあるだろう。
私の事、忘れちゃったの?
それはむしろ当然の事だ。
おかしいのは私の方?
そうだ。勝手に依存してるだけだ。
毎日ここで会えると思ってた。
連絡先も知らないままじゃいつ繋がりが切れても仕方ないだろう。
高山君が私を思い出す事はもう無いの?
きっと無理さ。
私はこれから、誰にも相手にされないの?
高山君…………────
* * * * *
《七月十六日(木)》
私は、またここに立っていた。三番の印を踏み、ただ向かいのホームを見ていた。
今日も高山君はいないかも知れないのに。私は一生これを求めて、毎日立ち尽くす事になるのかも知れないのに。でもここに来ずにはいられなかった。
気がつけば足がここを踏んでいた。
駄目なんだ、本当は。ここに居ては。おかしな現象に気づいたその時から、私は人に何かを求めてはいけなかった。
私は、右手で制服のスカートを握る。
もうすぐで、あの無機質な塊がやってくる。そこには何も無いんだ。
誰か私の異変に気づいてくれないかな。君、様子がおかしいですよって。病院に連れて行って、あなたは頭がおかしくなっていますって。言ってくれないかな。
音が近づいてくる。
私は、左手でもスカートを握る。
視界が暗くなる。金属の塊は目の前に来ていた。それはゆっくりと、音を出して止まる。
私は下を向いた。機械なんかのタイミングに縛られたくはない。そんな強がりだった。
三番の印が目に入る。今までに何度も見たこの番号。私は毎日、ウキウキしながらここに立っていた。今でもこの場所は私と高山君を繋いでいる様で、昨日の悲傷を嘘みたいに癒やしてゆく。
ドアが開く。随分とスローモーに感じる。
前にもこんな事があった気がする。私が下を向いて、君を待っている。でも、その時とは……その時とは違っているはずだ。
私は乗り込む。今回は足が動いた。下を向いたまま、ゆっくりと。昼の太陽の光が足元だけを暑く照らした。
高山君が目の前にいるのか、私には分からない。私から話しかけるなんて事は、多分間違っていた。
ドアが閉まり、地面が動き出す。こいつは何回これを繰り返してるんだろう。
当たり前なんて存在しない。全ては変わらずにはいられない。そんな事はずっと昔から言われている事。だけど人は当たり前の事を積み上げて、変化を憂うものなのだ。そんな事をカッコつけて考える。
高山君がそこにいるなら。そこにあの猫のストラップが揺れているのなら、その声を聞かせてほしい。私は、高山君という箱の中に何があるのか全然知らない。だからきっと私だけじゃ無理。それを確かめさせてほしい。
白い床に硬い靴が浮かんでいる。時間は止まらない。変化は唐突で、人は変わっていく。
そう、その時なんてすぐに来る。
「あの……大丈夫ですか?」
私の中の全ての事象が収束する。
顔をあげる。
何度も思い描いたまさにそのそれが、私の目の前に現れる。
「なんで声かけてくれたの?」
私は微笑む。
「様子がおかしかったし…………」
高山君は顔を横に向ける。
「知ってる人だと思ったから」
私の前にはまだ道が続いているんだ。
「私、その先を望んで良いと思う?」
「何だか分からないけど、良いんじゃないかな?」
私は吹き出した。
「君、それ、どこまで分かってるの?」
「いや、なんにも分かんない!」
これが初対面なはず無い。
私は必ず、『初めまして』のその先に、辿り着いてみせる。
* * *
海は光を跳ね返して、君に浴びせていた。浜辺の風はいつでも涼しくて、ここに来る度、夏の評価を見直す事になる。私は砂を軽く払って、コンクリートの段差に座った。高山君も、近くに座る。
「初めまして。私、篠崎真紀」
私は目の前に広がる海を見ながら言った。
「こちらこそ、初めまして。高山翔太です」
高山君が少しおどけて言う。海は綺麗だ。
「私の事、覚えてる?」
「いや、全く誰だか分かんないよ」
高山君はほんの少し口をつぐむ。
「でも、どっかで会ってる気はする。なんか、さっき初めて見た時、何か感じたんだよね。あ、この人、いい人だー、って」
「何それ」
私は笑う。
「ねぇ知ってる? 私たち、中学一緒なんだよ?」
「え、そうなの⁉ 甲津?」
「そ。それからね、高山君、ちょっと前にテニス部辞めちゃったでしょ?」
「え……うん」
「あと、あそこのパン屋さんのメロンパン、好きでしょ? 私も好きなんだー」
「そう! すんごい好き」
「あと……その、ストラップ、かわいいね。なんか、高山君に似てる」
「そう……かな。買った時は似てる気がしたんだけど、実際そんなに似てないと思うんだけど……」
「あはは、嘘。全然似てないよ」
「そうだよね! なんで買ったんだろうな」
海は綺麗だった。
「私の事、怪しまないの?」
「え? んー。あ、もしかしてストーカー⁉ なんてね。いや、でも不思議と納得してるっていうか……あ、この人はそうだよね、そういう人だよね……って思う」
そう。そうなんだよ。
私は君と、たくさん遊んだんだ。たくさん話した。君が覚えていなくても、その時間は確かにあった。
生徒手帳を拾ってくれた。
中学の時の話をした。
一緒に変なメロンパンを買った。
君の部活の話をした。
一緒にショッピングモールを歩いた。
一緒に猫のストラップを買った。
君はそれをつけてくれた。
会話を覚えていてくれた。
浜辺を歩く約束をした。
約束を守ろうとしてくれた。
初めまして、もたくさんした。
バイバイ、もたくさんした。
それが君に残っていなくても。私の独りよがりだとしても。
どんな理不尽でも、思い出を完全には消せなかった。
私は、最後の抵抗をする。この世界に抗うなんて大それた事じゃない。
ただ、私という存在が消えてしまわないために。
高山君の頬にそっとキスをした。
私が記憶から消えるなら。友だちに
驚いている高山君を見ても、私は恥ずかしさを感じていなかった。きっと『恥ずかしい』という感情は、その人が自分を覚えている事を恐れているんだ。
私は高山君の手を握る。思えば、こんなにしっかりと触れ合うことすら初めてだ。
「初めまして。高山君」
後は明日の君に託すよ。
私は鞄を持って立ち上がり、スカートの砂を払った。そしてそのまま振り返らずに歩き出した。
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