第2話
頼みますよ先生、と念を押して、俺は洗面所に備え付けられた洗濯機のもとへと足を運ぶ。溜められた洗濯物がぜんぶ中に入っていることを確認して、洗濯コースの設定ボタンを押し、洗剤類を入れ、スタートボタンを押すと間もなく給水が始まり、ドラムが回りだす。
別に家事をしろと言いつけられているわけではない。先生は端的に言って生活力が皆無だった。俺よりも若いのに、俺よりも機械音痴で――小説の執筆にパソコンを使わないのもそのせいだ――そのくせこちらが締切日に押し掛けると、学生が定期試験の前夜に部屋の掃除をしたくなるのと同じように、家事に手をつけようとする。ただでさえ散らかった部屋がさらに汚くなり、何をどうしたらそうなったのか、洗濯機が泡だらけでめちゃくちゃになったこともある。
そこで少しでも彼の意識を執筆に向けさせるために、ここに来たときには彼が溜めた家事を片付けることが習慣になってしまった。もはや先生との仕事に関しては、担当編集というより家事手伝いをしていると言ったほうが正しいのではないか。
洗濯が終わったら掃除、それと猫の世話――とまで思い出してから、ふと気づく。いつもこの部屋にいるはずの子が見当たらないのだ。洗面所を出て一度リビングに戻って探し、名前を呼びながら他の部屋を見て回っても、やはりいない。
「……ミケさんはどこに行ったんです? 呼んでも来ないんですけど」
「え? いるでしょ、その辺に。床とかに」
尋ねてみると、先生からは気の抜けた言葉が返ってきた。飼い主のくせに適当な言い方をするものだ。ミケさんというのは、先生が数年前に拾って飼いはじめた猫の名前である。絵に描いたようなベーシックな三毛猫で、世の人がその姿を見て一度は思い浮かぶであろう名前を、先生はそのまま彼女(ミケさんはメスである)に与えたのだった。作家のくせに驚くほどオリジナリティがない――が、そこのところは今はどうでもいい。どこを見渡せども、その姿がないのだ。まさかこの家から出ていったのか、だとすればどのタイミングで……と記憶を遡るうちに、思い当たる場面があった。つい先ほどのことだ。
「もしかして新聞屋に吹っ掛けられてる間に、ドアの隙間から……?」
猫というと散歩を好まず家にいることが多いイメージがあるが、ミケさんは活動的で、外へ散歩に繰り出すこともしばしばある。行き先が分からないのが気がかりでないとは言わないが――彼女の行動範囲はそう広くなく、今まで迷子になったこともない。
ま、腹減ったら戻ってくるでしょ。言いつつ振り返ると、そこには颯爽と席を立つ先生がいた。髪についた寝癖を手櫛で無理やり押さえつけようとしている。
「いやあ大事件だ。難事件だ」
「は? ちょっと」
「うちのミケさんが行方不明とは全体未聞の緊急事態、未曽有の危機だよ」
「先生、もしかしてサボろうとしてるんじゃ」
さっきまで飼い猫に対して杜撰なことを言っていた人間とは思えない言葉だが、大根役者でももう少しましな演技をするだろうというほどに棒読みの口調だった。どうみても猫探しを口実にして執筆から逃げようとしているのだろう。阻止せねばなるまいと、俺はリビングから廊下に繋がる通路を塞ぐように立つ。
「あの猫、黙ってても帰ってきますって」
「飼い主として心配で放っておけないや。これはミケさんを救い出すために街に繰り出すしかないね。レッツ捜索」
「あんたがやるべきは創作でしょうが! 作る方!」
先生はどこにそんな敏捷性を隠し持っていたのか、こっちが反論している間に俺の体と壁の隙間をくぐり抜けて、あっさり廊下へと出て行こうとする。咄嗟にその襟首をつかむ。ぐえ、と妙なうめき声を上げた先生は、一度、俺の方にその首ごと視線を向けた。
「創作のヒントも捜索しちゃえばいいわけだよね。あ、今うまいこと言った僕に免じて見逃してくれない?」
「それ先に言ったの俺だろ。原稿書き上げてからにしてくださいよ、ミケさんは迷子になんかなりゃしないでしょうが」
「わかった、書く書く! 今すぐ書く!」
やけに素直な答えを聞いて、俺が一瞬、襟首をつかんでいた手を緩めたとたんに、先生は廊下を駆け抜けて外へと意気揚々飛び出していった。
クソタヌキ。――こうなったらもう、引き止めるだけ無駄になりそうだと悟る。とにかく手綱だけは引いておくべく、俺も先生を追って、アパートの外へと出て行った。
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