タヌキと猫と締切日
磐見
第1話
「先生。追ッ返しましたよ、新聞屋」
「どうも。随分時間が掛かったねえ」
このアパートの部屋の中で一番広い場所、執筆用の書斎も兼ねているリビングへ声を張り上げると、先生の暢気な返事が聞こえた。――人にセールスの断りなんぞをさせておいて、おめおめと寛ぎやがって。内心ぶつくさ言いつつも、俺は新聞屋が去り際に押し付けていったチラシを片手に、フローリングの廊下を通って彼のもとへ戻る。
日本の夏は午前十時にもなればこんなにも暑いのに、この部屋にエアコンはない。代わりにやたらと古い扇風機が気だるげに羽根を旋回させていた。飼った動物は主人に似ると聞くが、住む家にもやはり性格は出るものなのだろう。先生本人を見るかのような間の抜けた部屋だ。
先生は片肘を机に置いて頬杖をつき、片手で鉛筆を回していた。退屈ここに極まれりといった表情である。癖のある黒髪はさらに寝癖でうねっていて、この人間が今さっき起きたばかりであろうことは、ともすると猿でも理解できそうに思えた。
「奴さんら、そこの商店街と連携を結んだとか言ってましたよ。新聞購読サービスで魚や野菜がついてくるとか。わざわざサンプルまで持ってきてね」
「へえ。新藤さん的にはそれ、お得な感じだった?」
「はあ、まあ。気が変わったンなら後で自分で交渉しに行ってください……というか編集者に新聞屋の相手をさせるんじゃないよ、あんたは」
「だって今、手が離せないんだもの。真っ白な紙を埋めるべく、果てしない思索の海に旅立っているところ」
社長室のごとく窓を背にして構えられた机の上には、原稿用紙の束と短い鉛筆数本、消しゴムひとつ。液晶の文字盤が、対面する俺の方に向けられた(……つまり、本人からは時刻が見えないようになっている)デジタル置時計。ペンスタンドには筆記具ではなくおもちゃの猫じゃらしが数種類。思い立てばいくらでもツッコミを入れられそうな執筆環境だが、特にコンピューター類を一切置かないのは今時珍しいだろう。令和に生きる小説家が、だ。
ちなみに、俺が数十分前にこの家に押し掛けてから今もなお原稿用紙は白いままだ。先生は一度筆が乗れば驚くほどの速さで物語を書き上げるが、書き始めるまでがあまりにも長いことに定評がある。
「……乗ってるのは泥船じゃあないでしょうね」
「かちかち山のタヌキほど悪いことしてないと思うんだけどなあ。あ、いっそタヌキを主人公に一作書いちゃう?」
何が面白いのか、先生は声を上げて笑い、自分が座るキャスター付き椅子を一回転させた。心は少年のまま背だけが伸びてしまったかのような、幼さの残る顔つきが、その振る舞いのせいで余計に子どものように見える。
先生のマイペースぶりは編集者の間ですっかり有名になり、彼の読者の間にすら知れ渡ってしまっている。しかしそれでも彼の新作を待つファンは多く――たしか二十七歳、俺が作家になることを諦めたのとちょうど同じ歳に、著名な文学賞を受けて世間にも名が知れてからは、ますます読者が増えることとなった。
数多の人々が――それから、俺だってこの人の生み出す物語を、読みたいと思っているのだ。どうにかして今日中には彼に筆を執らせなければ。
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