ルネ・デカルトの「神の存在証明」を、いま、ここで、言う。

●論文の要素

・話題…デカルトの「神の存在証明」は現代に応用できないか?

・主張…「神は死んだ」現代と場所(無神論が強すぎる現代日本)だからこそ応用できる。

・理由…デカルトの「神の存在証明」は一般のイメージよりも論理的に実証されているから。


●動機

 ルネ・デカルト(1596-1650)は、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」の命題や心身二元論などで高く評価されているが、そのいっぽうで、『方法序説』や『省察』などの著作に見られる「神の存在証明」については現代的でないとして軽視や無視をされることが多い(※要出典。講義や周囲の方々から聴いた意見であるから)。

 そこで、そんなにも「神の存在証明」というのは現代的でないのかとデカルトを紐解けば、そこには「神は死んだ」現代日本だからこそ応用できる可能性のある「神の存在証明」があった。そこで、私はこの興味深いテーマを取り上げたいと思った。


●デカルトの「神の存在証明」について

「しかし、神の観念と精神の観念とが感覚のうちにまず存したのではないことは確かなのである。神と精神とを理解するのに、想像力を用いようとする人々は、音を聞き香りを嗅ぐために眼を用いようとする人々と、まるで同じことをしているのだ、と私には思われる。」

(『世界の名著 22』、野田又夫編、中央公論社、昭和 42 年、p 192)

 以上の文章は、『方法序説』第四部のものである。神が観念から与えられていることを端的に示している。

 デカルトは、第一証明において、「無限」の観念がわれわれに与えられていることを根拠に神の存在を必然的に導く。第二証明において、存在があり続けるためにはほかの依りどころが必要であり、それが神であるという。第三証明では、すべての観念や概念は、神に由来するという。


●「神の存在証明」の現代性

「神は死んだ」とされ、意識的にしろ無意識的にしろ無神論が強すぎる現代日本において、

デカルトの論理的な「神の存在証明」は、なにかしらの刺激を与えてくれるのではないか。


●参考文献(※今後、増えていく予定)

『世界の名著 22』、野田又夫編、中央公論社、昭和 42 年。

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