デカルトについての所感

■デカルトについての意見

 デカルトは、方法的懐疑により、「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったことによって、なんでも疑う古典的な懐疑主義を乗り越えたのではないだろうか。人間の認識の論理を覆したことは、まさにコペルニクス的展開と言われるにふさわしいだろう。

 また、「私」はこの世界において、ひとりきりで偶然に存在するのではなく、「私」の内部にその観念が宿る絶対的な「神」の存在がある、と想定したことは、非常に評価に値すると思われる。この思想で、デカルトは独我論を乗り越えたのではないだろうか。デカルトの「神」という観念については、「無理がある」「都合がよすぎる」などの意見もあるが、私はいまのところこの思想に、曇った点を見出すことができない。なぜならば、自分ひとりでこの世界に存在しているという考えかたは直観的に考えて「不自然」であり、そこにはなにかしらの超越者の存在を認めざるをえないからである。それが、キリスト教の影響が強かった当時のフランスにおいては、「神」という言葉で表現されてもおかしくはない。


■デカルトについての疑問

 デカルトは、いったいどういった経験を経て、「神」という観念に辿り着いたのだろうか? ふつう、ひとは自分が認識しているものが、神の力だとは考えが及ばないと思われる。しかし、それもキリスト教の影響が強かった当時ならば当然の発想なのだろうか。

 また、デカルトは、キリスト教の影響が強かった時代において、余計な問題を起こさないために「神」という観念を持ち出したのであろうか。私はそうではないと思いたいが、その可能性も否定はしきれない。

 また、デカルトは、はたして他者の存在を想定していなかったのであろうか? デカルトの世界には、自分自身だけがいるように思える。


■デカルトについての反論

 心身二元論についてはわかりやすい説明をするのは難しい、という事情はわかるが、心と体を繋げるものとして、松果腺、という考えかたはやはりすこし無理があるのではないだろうか。

 このほかの反論については、今後見出していきたい。


■その他

 ごく個人的な話になってしまうが、私はデカルトにひどく感動した。自身の認識の問題を、こんなにも論理的にすっきりと解決してくれた思想には、はじめて出会ったというのがほんとうのところだ。

 心身二元論の松果腺などについてこそ違和感はあるが、それまでの思想、つまり「われ思う、ゆえにわれあり」や「神」の存在を持ち出してくることについては、いまのところ私は反論を挟む余地がない。あまりにも完璧な論理に見えてしまって、かえっておそろしい。こんなにもフィットする思想があってしまっていいのか、と思う。

 こんなにもわかってしまい、共感してしまうということは、いずれ乗り越えるべき思想なのだと思う。じっさい、デカルト以後の哲学者たちにもデカルトの思想に影響され、デカルトを乗り越えようとした者がいた(パスカルなど)。デカルトをよく読み、デカルトについて考え、デカルトを乗り越えることこそ、肝要なのではないだろうか。

 できることならば、デカルトを批判するか神学的に読むか方向性を定めて、卒業論文で取り上げ、向き合っていきたいと思ったほどである。

 ところで、『方法序説』の第二部を読んでいると「私の計画は、私自身の考えを改革しようと努め、全く私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。」(『方法序説・情念論』デカルト/野田又夫訳p23)とあるのだが、これもデカルトが個人主義であったことをあらわすひとつの証左なのではないだろうか。

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