このエピソードを読む
2020年8月9日 15:54
たびたびすいません……。哲学話が、楽しくて、すいません。デカルトとキリスト教は実はめちゃくちゃ相性が良いと思います。これについてはプラトン思想まで遡るのですが、プラトンのイデア論がトマス・アクィナス以降のキリスト教の天《Heaven》と地《Nature》の思想の源流となっているという考え方があるのです。形而上と形而下とも、言えます。デカルトは「我思う故に我あり」として、「思う我あり」と考えました。思うことで我は存在する。「思考」することで自分の「存在の証明」としたわけですが、それにより自分を思考するという「客観性」を発明したわけです。(これが科学の礎となります)この客観性というのが、自分の視点を世界の外に存在させるということになります。この時、デカルトの心は身体を離れ、形而上に登ったわけです。デカルトの世界には実は自分自身もいないのです。では、世界の外にいる「思う我」はどう存在証明するのか?そこを神の誠実に頼ったのは恐らくデカルトの方便ではないかと思います。
作者からの返信
そちらの考え方は存じ上げております!そのように考えることもできますね!
たびたびすいません……。
哲学話が、楽しくて、すいません。
デカルトとキリスト教は実はめちゃくちゃ相性が良いと思います。
これについてはプラトン思想まで遡るのですが、プラトンのイデア論がトマス・アクィナス以降のキリスト教の天《Heaven》と地《Nature》の思想の源流となっているという考え方があるのです。形而上と形而下とも、言えます。
デカルトは「我思う故に我あり」として、「思う我あり」と考えました。思うことで我は存在する。
「思考」することで自分の「存在の証明」としたわけですが、それにより自分を思考するという「客観性」を発明したわけです。(これが科学の礎となります)
この客観性というのが、自分の視点を世界の外に存在させるということになります。
この時、デカルトの心は身体を離れ、形而上に登ったわけです。
デカルトの世界には実は自分自身もいないのです。
では、世界の外にいる「思う我」はどう存在証明するのか?そこを神の誠実に頼ったのは恐らくデカルトの方便ではないかと思います。
作者からの返信
そちらの考え方は存じ上げております!
そのように考えることもできますね!