夕暮れの下駄

 夏美の少し後ろを歩きながらふと空を見上げると、もう空は赤く染まっていた。もうすぐ日が暮れる時間なのだ。

 駅の近くによくいる白猫は、夕方になって涼しくなったからか小道の方に出てきていた。

「ねこ」

 夏美が屈んで猫に手を出す。人馴れしているらしく、機嫌がいいときは手を出せば寄ってくる。

 耳のあたりに皮膚の病気があって、それが痒いのか頭を擦り付けてきたりもする。

 猫は、撫でられると気持ちいいのだろうか。

 私が嬉しそうにしているなと思っても、猫が本当のところどう思っているのかなんて確認のしようがない。

 猫は夏美にすり寄ってきた。少し頭を撫でられてから、耳の辺りを夏美の太ももに擦り付けている。

 ――やはり痒いのか。

 スカートで一通り耳を掻いたかと思えば、今度は夏美の反対側の太ももに頭を擦り付けたり身体を擦り付けたりしている。

 それから暫くそうしたかと思えば、今度は私のほうにターゲットを定めて、かはり屈んだ私のスカートに頭を擦り付けている。

 一応野良猫らしいから、病院には連れて行ってもらえないのだろう。

「治るといいが」

「そうだね」


「でも、休日まで学校に来なきゃいけないなんて、生徒会って大変なんだね」

 私は、夏美の手伝いで学校に来たのだ。何もなければ部活もやっていない私は休日に学校になんて来ない。普段は夏美を待つために図書室で勉強しているけれど。

 まあ、成績は良くならない。いつまで経っても、下の上なのだ。

 嫌だなぁと思う。

 思っているだけで、だからもっとたくさん勉強しようとはならないのだけれど。

「こういう仕事は断れないからね」

 夏美は頬をぽりぽりと掻いた。

 責任もあるのだろう。

 電車を待っている頃にはもうほとんど日は暮れていた。薄暗い中古い駅舎で待つのは、それなりに雰囲気がある。怖くはないけれど。


 カランコロン、カランコロン。


 下駄の、音だ。

 下駄の音なんて聞いたのは、随分久々だった。虫がたくさんいる場所だというのに、下駄を履いたおじさんは気に求めずに薄着で歩いて私たちの前を通り過ぎた。

「下駄や雪駄を履いていると、靴を履くときも擦るようにあるいてしまうらしいね」

 夏美はおじさんが見えなくなってからぽつりと言った。

「そうなの?」

「ああ。下駄や雪駄は足を引き摺るからね。摺り足と言うのかな。ローファーとか履いていても、踵を擦ってしまうらしいよ」

 そういうのがオシャレなんだって、と付け加えた。

 夏美はオシャレだ。別に流行の服で着飾るようなタイプではないけれど、きっと誰が見てもオシャレだと言うだろう。似合う服が、分かっているのか。

 私は自分でどんな服が似合うのかわからないから、夏美に服を選んでもらっている。

 そういうところから違うのだろう。

 まあ、小さい頃から夏美の方がよほどかわいいことなど分かっていたことだし、今更何かを思うでもない。誰かに、お前が夏美の横に居るのは不釣り合いだ、なんて言われない限りは。

 ――不釣り合いってなんだ。


「彩菜は、和服を着ることはあるかい?」

「和服? 着物ってこと?」

「そうだね」

 押し入れの中に確か、母親の着物があるはずだけれど。

「私は着ないかな」

 母親はそういうのが好きで、礼装は大抵和服だけれど、私は別に、制服を着ているし。

「お母さんが沢山持っているんだから、彩菜も着てみたらいいのに。似合うと思うんだけどな」

「そうかなぁ」

 夏美が言うなら、そうなのかもしれないけれど。

 あと二分くらいで、電車が来る。もう、殆ど日は暮れていた。


 下駄をはいたおじさんは、どこか別の車両に乗ったらしく、姿は見えない。

 夕方、帰宅する人の多い時間帯だろうに、黄色くて短い電車にはぽつぽつと空席がある。大きな駅へ向かう方の電車だから空いているのか。

 朝学校へ行くときにこの電車と同じ方向へ走る電車は、満員と言って差し支えないほど混んでいる。逆に、朝学校へ向かう電車は、これはやっぱり空いている。

 方向の問題なのか。

 家は、どちらかと言えば田舎なのだろうと思う。勿論、本当にのどかな田園ばかりが広がる田舎という意味じゃなくて、都会から見ると相対的に田舎に見えるというだけの話である。

 私は、田舎の方が好きだ。

 都会は息苦しくて、空気が悪い。街を歩く人はみんな疲れた顔をしていて、同い年の女の子たちを見ればやれ映えがどうだとか、そんな話ばかりしている。

 タピオカミルクティーだって、飲まないまま捨ててしまうのだろう。

 都会が嫌いなわけでは、ないけれど。

 ――はっきりしないなあ。

 それなら田舎に住んだところで、結局今と同じように何もしないまま無為に時間を過ごすのだろう。

 都会も田舎も、そう変わらないのかもしれない。

 おじさんは下駄を履いていた。からんころんからんころんと、年頃聞かなかった音を鳴らしていた。

 なんだか、うらやましい。

 下駄がではない。もっと、別の何かが。


 幹線に乗り換えると、さっきよりもずっと電車は混んでいた。都心から帰ってきた人たちは、みんな疲れたような顔をしている。時間がもう遅いから、学生は私たち以外には居ない。それに、今日は休日なのだ。

 ――休日なのに、こんなに働く人が沢山居るのか。

 でも、世の中が動いているのだから、それは働く人が居てこそなのだろう。

「また彩菜は難しい顔をしている」

「え?」

「疲れたのかい?」

「うーん、疲れたのかな」

 夏美の様にずっと働いていたわけではないし、そこまで疲れているとも思えない。眠いと言えば、眠いけれど。

「夏美は疲れてないの?」

「疲れてるよ」

 そりゃね、と夏美は言った。

「今晩はぐっすりさ」

「私も今日は、早く寝ようかな」

「それはいいね。私も早く寝よう」

 外はもう真っ暗だ。でも、街灯りは確かに灯っていて、人はやっぱり生活しているのだろう。

 帰ったらすぐにご飯を食べて、それからお風呂に入って、寝ようと思った。

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