夏美は、木に止まった蝉を眺めていた。ちっとも動かないで止まっている蝉を眺めて、鳴いているのかな、なんて独りごちている。

 まあ、鳴いてはいるのだろう。

 蝉は、鳴くものだと思う。

 なんとなく私は蝉が鳴き始めたら夏だなぁと思うし、七月下旬になっても蝉が鳴かなかったから今年は夏が来た実感が全然しなかった。

 それくらい、夏と言えば蝉の鳴き声と刷り込まれている。

 ――蝉は鳴くのが普通なんだろうなあ。

 いや、鳴かない蝉も、居るのだろうか。失声症の人が居るのだから、鳴くことの出来ない蝉が居てもおかしくはないだろう。

 でも声が出るから、声が出ない苦しみも、声が出ない悲しみも、私には分からない。

 幸せなのだろうか。

 そうでもないのか。

「また考え事をしている」

「え?」

 夏美はいつの間にか私の顔を見ていた。ずっと蝉のことを見ていると思っていたから、少しびっくりした。

「びっくりすることは無いだろう? ひどいなあ……全然私のことを見ていないんだから」

 私を見るのをやめた夏美は、全然関係ない方向を暫く見てから、やっぱり私の顔を見た。

「また考え事しちゃった」

「まあ、ものを考えるのはいいことだよ」

 知らないけどね、と夏美は言った。


「蝉の声、無いと寂しいけど、やっぱりあるとうるさいね」

 木のところから、大体三分くらい歩いたような気がする。

「でも、夏って感じがする」

「蝉の声が無いと夏って感じはしないなあ」

 あとは鈴虫。

 清少納言も夏は夜と言っていたから、それなら鈴虫の鳴き声のほうが、蝉のそれよりも日本の夏の象徴的な音としては正しいのだろうか。

 人によるのか。

「なんとなく、鈴虫を飼いたいなあって思うんだよね」

「鈴虫? 夜に鳴いてるあれかい?」

「うん。なんか、鈴虫の鳴き声って落ち着く感じがするじゃない?」

「案外近くで聞くとうるさいと思うんだけどな」

「それはまあ、我慢するよ」

 多少うるさくても、私は清少納言と一緒で夜の方が好きなのかもしれない。いや、昼は昼でうるさいけれど。

「夏は、うるさい季節だね」

「彩菜は時々歯に衣着せぬ物言いをするなあ」

「そうかな。でも、やっぱり他の季節よりも音が多いから」

 虫の鳴き声もそうだし、夏祭りは大体音が大きい。公園から少し離れていても、太鼓の音や盆踊りの曲が聞こえてくるのだ。

 じゃあ、夏はうるさい季節か。

「でも、風鈴でうるさいと感じることは無いんじゃないかい?」

 確かに。

「風鈴はうるさくないね」

「風鈴がうるさくないなら、じゃあどちらかと言うと、音だね」

 夏美は、少し微笑んだ。

「夏は音の季節だ。私の季節は、音なんだよ」

 そういうと夏美は鞄からペットボトルを取り出した。もう少ししか水は入っていなくて、夏美はそれを全部飲み干した。

「暑いなあ……」

「結局それなんだ」

「そりゃそうだよ。夏は音とか、そんなこと言う前に、夏は暑いものさ。というか、暑いからこそ夏なんだよ」

 まあ、暑いものは確かに暑い。

「なんて言ったって、蝉が地中から這い出して来る暑さだからね」

「蝉って暑いから這い出して来るの?」

「さあね」

 もしかしたらそうかもしれないと夏美は言って、近くの木の中腹あたりを見た。

 蝉が、止まっていた。

「どうして君は残り一週間の命になると外へ出てくるんだい?」

 誰も何も答えなかった。

 それはそうである。蝉と意思疎通が取れるなら、テレビの動物番組に引っ張りだこだろう。いや、蝉だけだと幅が狭すぎるのか。テレビ的な事情はよくわからないけれど。

「自分以外のことなんて、わからないね」

「そういうものなんじゃないかなぁ……」

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