第64話 侵略者

 教室に戻ると、僕の席が小さな侵略者によって占領されていた。

 なんて言うが、声に出さなくても適用されるのだろうか。


「何してんだ、香流かおる

「あ、! やっと帰ってきたか!」


 そう言うと、ぴょんと跳ねて、席からどいてくれる。どいてくれるだけで、僕の前に立って、席には座らせてくれない。

 香流はそのままワイシャツの胸ポケットから紙幣を取り出した。


「ほら! 金曜日の……」

「ああー」


 ところで、先程まで廊下で雁坂さんを見ていて、僕は香流を思い出していた。

 二人共小柄で、少し男子っぽいところがあるのもそうだが、仲良く赤点を取っていて、何かとすぐに泣きそうになる。

 こうして再び香流と相対することで、二人の共通点が僕の中ではっきりしてきた。


 香流が差し出してきた千円札は折りたたまれている。ワイシャツに仕舞うために折っていたということだろうが、何か訝しく思う。

 得体の知れないものを突くようにゆっくりと手を伸ばしていくと、最初は見かけ一枚に見えていた千円札が、折り方が甘かったのか、徐に開いて野口英世が顔を出した。


――やはりか。


「……多いよな。それ」

「ああっと……いや、いい。あそこはオレが持つつもりだったんだ」


 そっぽを向いてから、こちらに向き直しては、開き直った。その紙幣のように。

 香流らしからず、言い方がやや芝居がかっている。


「金曜にも言ったが、多くは受け取れない」

「おいおい、やめてくれよ。オレが払うってんだ。それを断るとか、女子に恥かかす気か?」

「女子……?」


 「……誰が?」って言いかけて、慌てて口を閉じる。いいや、閉じるのではなくて、何か別の言葉を続けるべきだった。


「……………え?」

「あ、いや、なんでもない」

「……おい?」

「解った。半分だけ受け取る」

「おい!」


 僕は香流が差し出してきた二枚の千円札から一枚だけ引き抜いた。しかしミスディレクションにはならない。


「楓雪。いま、おま……」


 目の前のは肩を震わせ、鋭い眼光でこちらを睨みつけてくる。

 香流とはある意味、同性の『友達トモダチ』として関わっていた節がある。一人称も一般的に男性が使うとされる「オレ」だし、言葉遣いも男子チック。見かけは、思えば中性的で、それは顔だけじゃなくて身体つきもだ。

 つまり、僕の中でそれらの判断結果を勝手に平均化して、香流を同性扱いしていた……?

 そんな分析はいまはどうでもいいか。


「あはは、冗談だよ、冗談」


 我ながら、棒読みの極みになってしまっていた。雄城みたいに「ガハハハ」と笑うべきだったか?

 ちなみに棒読みというのは、もともとは、漢文を読むに当たって、返り点を無視して読む読み方のことを指すらしい。この前、漢文の授業で先生が言っていた。


「……嘘だ嘘だ。うそ、だぁぁ」


 香流は一歩、一歩後退る。青ざめた顔を全てを否定するように横にぶんぶん振りながら。汗のように流れ出る失望を振りまいて。


「か、香流?」

「こ、このぉぅ! 覚えてろ!!」

「あ、おい!」


 彼女は教室を傍若無人に突っ走って行った。追って誤解を解こうとも思ったが、何を言えども解けなさそうだったし、失礼なことにも誤解でもないのだ。諦めて、素直に机に座った。


「ん?」


 おかしい……一番上にしまってあったはずの日本史の教科書がなぜか一番下に、しかも少しだけ傾いて差し込んである。僕は完璧主義者とか几帳面とかということではないのだが、机の中は常にある程度の秩序を与えている。


「…………してやられたな」


 日本史の教科書を取り出すと、表紙にセロハンテープで千円札が貼られていた。

 セロハンテープにはマジックで「歩」と書かれている。行書体だ。


 なるほど、金底の歩ということか。これで香流以外からの悪戯という線は消えた。もとからそんな線は点線ほどもなかったが。


 しかしここまでされると、負けを認めるしかない。僕の目の前に立ったところから、既に香流の罠にハマっていて、おそらくあの千円札二枚が開いてしまったのも演出だったのだろう。

 さすがに三千円は払う気はないはずだ。思えば、狼狽えていたとは言え、僕が香流の掌から千円札を一枚だけ取った時に、もう一枚押し付けて来なかったのは少し意外だった。


 とりあえず、二千円は受け取っておこう。ただ、明らかに多くもらってしまっているので、何かの節々に、なし崩し的に返済しようか。


 僕はメールで香流に「参りました。」と送っておいた。

 追記で「さっきはごめんなさい。」と送っておこうかと迷ったが、謝罪すれば僕が「香流を女性ではなく、男性扱いしていた」ということを認めた、とも解釈されてしまいそうで、それでは却って香流を傷つけ兼ねない。

 それに謝ることのほどでもないのかもしれないと考え直している自分もいた。

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