第61話 出資者
3.
「ただいま」
姉貴の靴が玄関で脱ぎっぱなしになっている。最近はよく家にいるな。
「あら、ふゆ、おかえりんしゃい」
姉貴はだらしない格好で面白い形でソファに横……? いや、縦になっていた。
具体的には、背もたれに脚をかけ、座面に背中を沈め、頭はだらりと床についてしまっている。殆ど逆さまになっていて、頭に血がどんどん上りそうだ。
ローテーブルには単行本から文庫本まで、乱雑に本が積まれていて、その横にスナック菓子のゴミとか、パックジュースのゴミとかが放置されている。
姉貴は意外と本を読む。図書委員でたまに姉貴が借りた痕跡が残っている本を貸し出す時がある。
「大学はなかったのか?」
「んー、今日は気分じゃなかったからサボったんだよーん。どうせ出席取ってないしね〜」
「大学はゆるいな」
「高校だってゆるいでしょ? なんてったってこのお姉さまがゆるくしてあげたのですから」
「怠けるためにゆるくしたわけではないよな?」
「え? うぇへへ?」
怪しげな回答をする。
「あ、そうだ!」
誤魔化すように思い出して、姉貴は読んでいた本を開いたまま裏にして、ローテーブルの上に置いた。
それから、くるりと器用に身体を起こして立ち上がり、ダイニングテーブルの上から二枚、それぞれ色の違うプリントを渡してきた。
「ん、なんだ……これ、前に僕が捨てたやつ」
学校で配られた大手塾の模試の案内だ。学校で申し込むと、個人で申し込むより割安で受験でき、かつ申込み期間も長いという癒ちゃ…………優待っぷり。僕は全く受ける気がなかったので、そのまま資源ごみに捨てたのだった。どうして拾ってきたのだろうか。
「これどっちか受けなさいって」
「……受けなさい?」
「……う、うん。そう、我が家の出資者が」
姉貴は僕から目を逸して後ろめたそうにいった。
「母親か……」
僕は母親がどのような人間であったかを憶えていない。中学に入るまでは同じ家で暮らしていたらしいが、いかんせん、僕は中学に入るまでの記憶を悉く失ってしまっている。
「ビンゴぅ。冴えてるねぇ〜。そ、お母さん。なんか、すごいふゆの成績をずっと心配しててね、もうぐいぐい来て、隠し通せそうになかったから、あんたの定期テストの結果送ったら、いまからでも塾に通いなさいって」
どうして僕の定期考査の記録を姉貴が持っている……。
「それで?」
「で、ふゆは嫌がると思うよ、って言ったら、じゃあ、模試で実力を教えてほしいって。成績が良ければ塾に行くのは免除するって。お母さんも心配なんだよ」
僕は姉貴が選んで使った言葉と無加工で使った言葉を単語の流れの中で淘げる。成績、模試、実力、免除。そして心配。
姉貴は嘘は吐いていない。だが、意訳が過ぎる。
母親がどのような人かは知らないが、目の前の姉貴がどんな人かはある程度知っているつもりだ。
「姉貴。随分オブラートに包んでいるが、本当はなんて言われたんだ?」
「…………やっぱお見通しかぁ」
姉貴は急に観念した子供っぽい言い方をし、腰に手を当て、けろりと話す。
「お母さんがね、ふゆが守ノ峰高校の平均点で甘んじているようじゃ、ダメだって。たしかに〜優秀で見目麗しいお姉ちゃんは、学業だけじゃなくて、生徒会長もやって、それでもって学校を改革しちゃったりして、やり手なだけじゃなくて、容姿端麗、しかも学年首席という華々しい功績を残したけど、でも、それといまのふゆを比べるのは違うって言ったんだよ?」
言葉の重複が激しいな。
「でも、『楓雪は平均点を取ったくらいで満足してしまっているのではないですか? 守ノ峰高校がいくら優秀な高校であるとは言え、私の目には怠慢に見えてしまいます』って。で、このままだとさっき言ったみたいにふゆを塾に
なるほど。姉貴も道連れになってるのか。
「もちろん、反論したよ? わたしは関係ないでしょ! って」
いいや、そこではない。もっと、定期考査と学力は完全には一致しないとか、これが僕の限界とか、すぐに塾に通わせるのは早計だとか、まだ高校二年だとか……。
「でも、『こんな情けない成績を正さず、弥が上にも是としてしまっている環境の、その一端を担ってしまっているあなたにも責任があります』って。全く信じらんないよね! 別にわたしは大学の成績だっていいのに」
姉貴は大きくため息を吐いた。
「で、じゃあ、仕送りを減らさないで済む方法を教えてって言ったら、模試で相応の成績、全国偏差値60出せば許してくれるって。あ、最初は65だったけど、わたしが頑張って引き下げたんだからね! 感謝しなさい?」
姉貴は引き下げた、というが、出し抜かれたようにも見える。世の中には、最初に過大な要求をしてから、譲歩することによって、本命の要求を通す、ドア・イン・ザ・フェイスという有名なテクニックがある。
何かをしてもらったから、お返しをしないといけない。今回で言えば、「譲歩してもらったから…………」という人間心理の
「なら、この前学校で受けさせられて模試を出せばクリアじゃないか? 捨てた気もするが」
あの模試だと60は優に超えていた。
「あー。あれはダメだって。簡単過ぎるってのお母さんも知ってるらしい」
なぜか一年の頃にも受けさせられた外部模試。受験料は収めていないから無料なのかもしれないが、それでも守ノ峰高生に解かせるは難易度が低く、簡単に高偏差値が出てしまうため、優越感に浸れる反面、「わざわざ土曜日に来て受ける意味があるのか?」と否定的な意見をよく耳にする。
実際、すっぽかす生徒も散見される。
「だから、この二社のどっちかを選びなさいって」
「非常に面倒くさいな」
「わたしも、お母さんの杞憂だよって言ったよ、そしたら『親として楓雪を心配しているのです』だって」
会話の中で母親の話し方を再現しているのだろう。姉貴が最初に伝えてきた、「心配」という言葉とはかけ離れて、冷たいものだった。
「まぁ、わたしだって我が
「……たしかに出資者の意向を無下にはできないな。解った。受けるよ」
「あ、で、逆に偏差値65以上出したら、仕送り増やしてくれるって」
「……………」
「だから、お勉強、しようね? なんならお姉ちゃんが教えてあげるよ?」
矢鱈乗り気だったのは、これのせいか。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」という俗諺が想起された。姉貴は既に出資者の手のひらの上ということだ。
僕は模試の紙を見て、早い日程の方、八月
「姉貴。ところで偏差値60はどれくらい難しいんだ?」
「んー、どうなんだろね。わたし、高校のときはそういう模試、一回しか受けたことないし。その模試も高3の夏に受けた大学別のだから……。でも、受験者層が高2から模試を受ける意識高い子たちなんだから、見た目より難しそうだよね」
「そうか…………」
これは事前にデータ集めが必要になってくるな。
僕は裏面の詳しい案内を見た。
「ふゆは文理どっちで受けるの?」
「どっちでもいいけど、一応、理系かな。どうせ理系選択するし」
香流とは違って、僕は得意教科もなければ、不得意教科もない。
「ふーん……」
姉貴は何かをいいかけたが、やめた。ならば、僕も聞き返す必要はない。
集金日は……来週の月曜日が最後か。ギリギリだった。
「まぁ、お金はお姉ちゃんのポケットマネーから出してあげるから」
「普通に仕送りのお金を使えばいいだろ」
「ううん。わたしのお金をベットして、ふゆにプレッシャーをかける作戦」
姉貴は楽しそうに言うが、こちらはちっとも楽しくない。これから迎える七月に定期考査を受けて、どうしてまた八月にも模試を受けねばならなんのだ。
こういうことになるのなら、日頃からもう少し高い成績を出しておくべきだったか。
嗚呼、已んぬる哉。
「ところで、姉貴。出資者とはいつ話していたんだ?」
「ん、昨日の夜だよー」
予想通りの答えが返ってきて、僕は小さく溜息を吐いた。そして心の中で、黙って姉貴のことを労った。
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