第60話 協力者
僕は放課後、和風カフェのようなところに来ていた。
いまどきのカフェに侘び寂びを小さじ1混ぜたような外観。たとえば入り口も引き戸である。
中に入ると、馥郁たる抹茶の香りが鼻腔をくすぐった――――というほどではなく、どちらかと言えば甘い香りがした。
入る前に考えておいたフレーズだったが、いま思い返すと、抹茶の香りがするのは茶室などではなくて、どちらかと言うと茶園なのではないか。
カウンター席が並んでいて、その向かい側に二人〜四人掛けの席がある。そして奥には靴を脱いで畳に座るタイプの席もあるが、どの席を取ってみてもテイストが和風である。
八つ時をやや過ぎた時間だったので、店内は存外空いていた。見たところ、待合席も店内に四つしか用意されていないので、満席になることがあまりないのかもしれないが。
「お客様は何名様でしょうか?」
店員の服装は和服で、和洋折衷というより、カフェの体裁を取った和風の店なのだろうか。
「いえ、先に待たせてる人がいるので……」
「そうでしたか。失礼しました。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
店員さんは恭しく会釈する。所作が非常に丁寧で、お茶の先生でも相手にしているような気分がした。
実際はパート・アルバイトなのかもしれない。ただ、そう見せるのはこの店の空気感だろうと思った。
と、言ったように店の内側はかなり和に偏っているが、流れているBGMは雅楽などの、日本古来の伝統的な音楽ではなく、ゆったりとしたジャズのような曲。
店のコンセプト的に鹿威しの音とかが永遠と流されていても違和感がないが、ここはカフェに寄らせたのだろう。ただ、生憎僕はジャズは全く詳しくないので、曲名は解らない。
僕は店内を進んで、待たせている人を確認する。
(座敷タイプの席だったか…………)
和風をコンセプトにしているのだから、座敷席を希望するほうが自然なのかもしれないが、店の奥かつ、靴を脱がなければいけないという億劫さが僕の中で全面に押し出されていた。ここに靴を置くので、これで「3おく」である。どうでもいい。
「悪い。待たせた」
「んー、いや……」
僕は待たせていた香流の真向かいの座布団に座った。壁に埋め込まれる形で、アクリル箱があり、茶道具らしきものが飾らていた。たしか、
「もう何か頼んだのか?」
「ん、んんー、いゃ…………うーん」
どっちとも取れない返事が返ってきた。何かスマートフォンの画面を凝視して呻っている。
僕はメニュー……じゃなかった、「お品書き」を取り出して、机の上で開いた。
ざっと値段を見る。価格帯は五〇〇円から一五〇〇円と言ったところ。飲み物でも五〇〇円だから、高校生にとってはあまり優しくはない値段だと思う。
いや、どうなのだろう。僕にあまりカフェとか喫茶店とかを巡る趣味がないから、少し高く感じているだけで、もしかするとこのくらいが相場なのかも知れない。
滅多に来ない店だから、高いものを注文しようかなと考えもしたが、結局六五〇円の抹茶ラテというものを注文することにした。抹茶セットというのも興味深かったが、やや値段が張ったのと、ここは茶店ではなくて、和風カフェなので、和風とカフェの積集合にありそうな、この商品を選んだ。
僕はお品書きを香流の方に向けてやるが、香流は先から机に置いてあるスマホから目を離さない。
メールを書いているわけではなさそうだ。すごい集中力で数秒おきに画面をトントンとタップしている。
画面を覗いてもバレない気がしたが、盗み見は良くないなと、僕はBGMとこのゆったりした独特の空気感に包まれながら、待つことにした。
それから数分後。
「んん!! よし、勝ったァァ!」
香流が急に声を上げた。そう言ってからまた少しだけ画面を操作して、スマホを机の脇に置いた。
「何をしてたんだ?」
「ん、見えなかったのか? 将棋だが」
見てよかったのか。
しかし、将棋か。家にもパソコンでできる将棋ソフトはあるが、その小さい蒟蒻を薄切りしたみたいなものでもできる時代なのか。
「…………将棋? スマートフォンってそんなことまでできるのか?」
「当たり前だろ。お前、何時代の人間だよ……って何も注文してないのか?」
同世代なのに、なぜかジェネレーションギャップを感じてしまっている。僕はメディアに触れる機会が人より著しく少ないから、反省せねばならないな。反省だけだが。
「一応、待ってた」
「はぁ? ……待たなくていいのに。馬鹿だなぁお前」
「理不尽だな……」
香流はお品書きを見て、少し悩んだ後、「お前はもう決めてあるよな?」と聞くだけ聞いて、僕が「決めてある」とか、肯く前に店員を呼んだ。
僕は予定通り、『抹茶ラテ』を頼んで、香流は『クリームあんみつ』なる、少し高いものを注文していた。
「ここにはよく来るのか?」
「まぁな。将棋部の打ち上げはだいたいここか、駅前のファミレスなんだぜ?」
「そうなのか」
だとしたら、先の価格の評定で、僕の吝嗇な一面が暴き出されてしまったのかもしれない。よし、倹約ということにしよう。
「あ、おい、連絡先交換しようぜ」
「ん? ……解った」
僕は一瞬、なぜだ? と言いかけたが、別に特別な理由がなくても、もう香流と連絡先を交換するのに抵抗はない。
香流はスマホを片手に持つ。
「おい、スマホ出せよ」
「ん、ああ。持ってきてるんだった」
僕はポケットから携帯を取り出す。登校中はポケットに嫌な重さを感じていたが、いまはすっかり慣れてしまっていて、逆に携帯を持ち歩いていたことを忘れてしまっていた。
おそらく、あれと似ている。メガネを頭に掛けているのに、メガネを探している…………みたいな。その逆だと、腕時計をつけていないのに、腕を見て時間を確認してしまうみたいな。後者は僕もたまにやってしまう。
「ははっ……ガラケーかよ」
「ああ。そもそも僕はあまり携帯使わないからな。高機能な端末を持ち歩いても宝の持ち腐れになってしまう」
「ま、オレも将棋するくらいにしか使ってないけどな!」
僕は電話帳を開いて、自分の連絡先を香流に見せる。
「090………。って、おい、メアド初期から一回も変えてないのか?」
「ああ。番号もアドレスも特に弄ってない」
一応、携帯番号は念の為、記憶してあるが、メールアドレスは覚えていない。というより、自分のメールアドレスを確認したことがない。
香流が登録した後に、自分のアドレスを確認すると、たしかに英数字が不規則に羅列されていて、ヒトが覚えにくい見た目をしている。
「おい、メール送ったが届いたか?」
「ん?」
携帯を仕舞おうとしたときに、ヴァイブレーション機能が作動した。香流からのメールだろう。
差出人欄には、初めて見るメールアドレス。
「件名が7六歩になってる」
「じゃあ、だいじょうぶだな!」
普通、「テスト」とかじゃないのかと思ったが、香流らしいと言えば香流らしいか。
一応、
「おまたせしました。こちら抹茶ラテになります」
「僕です」
軽く手を上げた。
店員さんは笑顔を崩さぬまま、僕の前にお盆ごと笹色の液体の入ったグラスを置いた。
抹茶ラテは下から、白、緑、白と層状になっている。最初に浮かんだ感想が、ボーリング調査なあたり、僕には和を楽しめる風情がないのだろう。
抹茶と煎茶の違いとか、茶道具の名前とか、そういう知識は持っているが、楽しむ上では知識だけでは足りない、もしくはそもそも不必要であるのかもしれない。それは逆にそれほど深い世界である証左かもしれない。
「……クリームあんみつになります」
今度は丼鉢を上から潰したような皿に主役のつぶあんやら、白玉やら、桜桃やら、アイスクリームやら、もう一人の主役のはずの目立たないみつ豆やら、色々で様々なものがそれぞれ自分のテリトリーを弁えてぽつぽつと配置されたものが、香流の前に差し出された。香流は目を爛々と輝かせていて、さながらお子様ランチを目の前にする子供である。
……思うが、僕は食レポが不得意なようだ。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか? ……ごゆっくりお過ごしくださいませ」
店員はやはり逐一会釈して、庖厨の方へ戻っていった。
僕は差し出された抹茶ラテにストローを挿して、吸い上げる。
うん。甘い抹茶?である。このような飲み物を飲んだことがないから、独特な味がするが、不味くはない。むしろ美味しい部類に入ると思う。
一割ほど飲んで、ストローから口を離した。
前にいる香流はスプーンで掬っては食べ、掬っては食べを繰り返している。
先から、反対側、僕から見て後ろ側の二人掛けの席に座っている女性二人組から妙な視線を送られている気がする――というより実際に見られているが、なるほど、香流も制服を来ているあたり、
もし二人共私服だったら、今度は兄妹に見えたことだろう。
姉貴が完全撤廃しかけた制服というものの意義が少しだけ解った気がした。
「ところで、香流。今日の朝の件だが、僕は具体的に何を手伝えば良いんだ?」
「んあ? ああ、そうだったな」
香流はスプーンをアイスクリームに突き刺したまま、顔を上げる。
「うーん、ここでクイズを出してやろう。……もうすぐ何が始まる?」
唐突である。
情報量が不足していて、まるでなぞなぞみたいな文句のクイズだ。文にWhatが抜けていて解らないことは往々にしてあるが、Whereが抜けていて文意そのものからよく解らなくなることもあるのだな。
「……なんだ。見たい番組の再放送とかか?」
「は? 何言ってんだ、お前」
これでも少し捻り出したのだ。「番組」「再放送」という言葉は僕には全く縁のない言葉。なぜなら、うちにはテレビというものがないから。
「学校のことだよ。何急にテレビの話ししてんだよ。アホか」
香流はアイスクリームを掬って口に運んだ。時々、暴言みたいなものが吐かれるが、未だにヘイトが向いたままなのかもしれない。
「……すまん。じゃあ、定期考査か」
「…………それは禁句だろ……。気分を下げるなよぅ………」
甘いアイスを食べているはずだが、顔は苦虫を噛み潰したような顔をする。声にも綺麗にデクレッシェンドがかかった。
「夏休みだろ……。お前、それでも高校生か?」
「もうすぐってほど、すぐでもない気がするが……。それに定期考査も強ち間違いではないだろう。何せ、成績不良者は夏休みに補講があると聞いたことがある」
「………………」
香流の顔が急に青ざめる。たったそれだけの変化で色々察せられることがあった。
我が校は進学校ということもあり、成績についてはやや厳しい。まず、何より単位を一つも落としてはいけない。その時点で留年が確定する。
と言っても、定期考査の赤点ラインは固定ではなく、平均点の半分。そして、平均点そもそもがどの教科も低く、そのため一人も赤点が出ないこともある。よっぽど勉強をサボらない限り、赤点を取ることはないと言っていい。
ちなみに、この前の中間考査だと、高いものでも65点程度、低いものだと40点を割っていた。特に数学BがAと比較して異様に難化し、平均点が34点という悲惨な数字が現れた。
だが、難しかったのは記述の問題のみで、小問集合は平易なものが多く、E組には赤点はいなかったはずだ。
それに赤点を取ってしまったら、即留年というわけでもなく、最終的に成績表に「1」がつかなければいいので、例えば提出物だったり、出席率を含む、授業態度で挽回できる。
逆に、提出物が少ない教科だったり、授業態度を成績に全く関与させない教科で赤点を取るのは非常に危ない。
その場合は放課後や、土日や、こういう長期休みで、補講や再テストをして、救済していると聞く。基本的には出席日数さえ足りていれば、補講やら再テストやらで、先生たちがなんとかしてくれるらしい。
僕は抹茶ラテを四割ほど飲んだ。
「……な、なぁ、香流。お前……」
「もう補講はやだ……。再テストもやだ…………」
香流は絶望に打ちひしがれた顔をしていた。両耳を強く抑えて、現実から必死で目を背けているように見える。
「経験者だったか………」
暗鬱な空気が立ち込んだ。まるで残されたつぶあんのようなどんよりした色の空気が漂っていそうだ。
香流は俯いたまま、ガタガタと身体を動かして、カバンから筆箱を取り出した。まさか、いまから勉強をするというのか。殊勝な心掛けだと思ったのも束の間、筆箱をがさごそあさり、一本の多機能ボールペンだけを取り出すと、急に分解しだす。
変わった現実逃避の方法だな、と思ったのも束の間で、その太い軸から器用に丸められた紙が取り出される。
「……おい、まさか」
香流は徐に紙を開いて、僕に見せる。
素点表とも呼ばれる、定期考査の結果が載っている紙。丸めてあったせいで折り目やらシワやらでくしゃくしゃだが、判読はできる。
分解された方のペンを見れば、多機能ボールペン肝心の芯が一本たりとも入っていない。完全に隠蔽工作するための、素点表を封印するためのケースになっている。
「………すごいな」
僕はダブルミーニングで言った。
「うぐ………。何も言うな」
香流の素点は、左から順に、現代文B18点。古文12点。漢文75点。世界史B28点。日本史B47点。数学II96点。数学B98点。物理基礎89点。化学76点。コミュニケーション英語II58点。英語表現II54点。合計651点。学年平均が592.3点なので、合計点だけ見ると、かなり優秀で、僕(595点)よりも高い。
見るからに面白いくらい理系に偏っていて、特に現文と古文(勘違いしてしまうかもしれないが、どちらも満点は100点である)は目も当てられないくらいなのに、漢文が平均点を十点以上、上回っているのが典型的だ。
参考までに、学年トップの界は1010点(平均92%)と一人だけ四桁の大台に乗っていた。
合計点だけ見れば申し分ない点数だと思う―――が、それなのに赤点がなんと三つもあり、古文に至ってはちょうど平均の四分の一。俗に言う青点である。
僕は初めて見たが、赤点を取ると、該当科目の点数欄が網掛けになるのだな。
「やだ。もうやだ。毎回毎回休みの日に学校に来させられて、どんどん周りは合格してって、オレは取り残されて、最後には一人、先公にこっぴどく扱かれる…………それが何教科も………」
香流はアイスクリームを頬張りながら震えている。
「再テストのことはよく知らないが、世界史は丸暗記でも赤点くらいなら回避できるだろ」
「出たな。妖怪『暗記するだけ』。暗記がどれだけ難しいことか解っちゃいないんだ」
いじけた子供に言う。
「だいたい、文系科目って何のためにあるんだ! あんな昔のこと覚えて何になるんだ! 覚えることなんてコンピュータに任せればいいじゃないか! というか早く文理選択させろ!」
香流は訴えても仕方のない文句を言う。守ノ峰高校は三年から文理に分かれる。しかし、香流は知っているか知らないが、理系を選択しても、国語(現文、古典)と社会公民から一科目は必修のままで、文系科目から完全に逃げられるわけではない。
「たとえば、歴史はその時代背景と当時の状況を
借りてきた答えだ。常套句と言えば聞こえがいいか。
自分の過去すら知らず、知ろうともしないのに、それでいて、自分の言葉で文系科目の意義を語れるはずがない。
「繰り返すって……再現性が全くないじゃないか!」
「そうだな。でも、論理はなくとも、類推を可能にするものなんじゃないか? 文系科目はたしかに再現性も線状性――学んだことと、学んだこととの繋がり――も理系科目に較べて薄いと思うが、過去の似た事象と、その因果を思い起こして、現在に活かすことができる」
「……で、でも、過去といまとじゃ、全然技術の発展が違いすぎて、参考にできなさそうじゃないか。いまを疎かにして実用性がない昔ばっか見てると取り残されるぞ!」
妙に説得力がある言葉だった。現に僕は既に取り残されている気がする。スマートフォンの機能性など、知らない間に科学技術は著しい発展を遂げているようだった。
ただ、それも一つの側面に過ぎないし、これ以上の議論は不毛だ。
「なるほど。だけど、一人、逆に昔を全く見ないで、現代の再テストで取り残されている人間を僕は一人知っている」
「……ろ、論点のすり替えだ!」
「でも、大事なのはそっちだろう? 文系科目の不必要性や妥当性を学修半ばの一高校生が訴えたり、験したりしたところで、現行の教育制度は変わらないよ」
しかし、こうして話してみると、会話能力とか語彙力とかは一介の高校生だ。なのに、話していても、香流を小学生たらしめる所以は何なのだろうか。
「…………正論がいつも正しいと思うなよ。ていうか、お前の点数はいくつなんだよ!」
「国語? それとも世界史か?」
「素点表見せろ」
一学期の中間考査の素点表が配られたのは六月の初旬。もう、六月の下旬に差し掛かろうとしている。
「もう、持ってないよ。でも、全教科平均点かその前後だ」
「はははは! 語る割に平均点とか。しかもお前、合計点はオレに負けてるんだな!」
「そうなるな」
僕は抹茶ラテを六割ほどまで飲んだ。
「何も反論されないと、なんかウザいな……」
「合計点は負けてるのは事実だからな」
「……で、でもたぶん、次のテストはお前に負ける……」
「そうか? 理系科目がこれだけ強ければ……」
「…………まぐれなんだ」
香流はスプーンをつぶあんに突き刺した。
「は?」
理系科目はまぐれで高得点を取れるような教科じゃない。先にも言ったが、数学Bの平均点が34点で、100点中60点分は記述式である。まぐれでそのような高得点を取れるはずがないし、数学IIも同じ点数配分だし、化学も八割くらいは計算問題、物理は全て計算問題で、選択問題はなかった。
香流は人差し指と中指でその科目を指差した。
「……英語?」
「ああ。コミュ英も英表も選択肢を勘で選んだら奇跡的になんかめっちゃ当たったんだ。そんで、記述で合ってたのは単語とか、中学生みたいな自由英作文くらい…………」
「もしかして、いつも再テストって……」
「………去年は現文、古文、英語×2と現社」
五教科………だと。
「―――ええと、な、なんだ。それはご愁傷さまだったな」
香流はもぞもぞと素点表を回収して。
「た、たすけてくれ」
机に乗り出して懇願してきた。
「いや、無理だが」
一蹴した。香流から見れば、僕の文系科目の点数は高いのかもしれないが、客観的に見れば、別に大して高くない。明らかに力不足である。
「そうじゃないと、夏休みの半分くらいが潰される……」
切実に悲壮感を吐露した。
「な、なぁ、これも界との間を取り持つ一環だと考えられないか? オレの目標は夏休み、界とどっかに遊びに行くということじゃん?」
「それは初耳だったな」
じゃん? て。
「で、でも、その夏休みがやって来なかったら、遊ぶもクソもないだろぅ?」
香流は一言いう毎に、声が震え、顔を近づけてくる。
「ほら、制服に付くぞ」
「な、なぁ……後生だから」
「はぁ…………。それこそ界に教えてもらえばいいだろ。学年首席なんだから」
「だめだ。あいつはだめだ」
「どうして。ついでに遊ぶ約束でも取り付ければ、一石二鳥だろ」
「あいつは教えるのが壊滅的に下手なんだ。あいつはあいつのフィールドで教えようとするし…………」
たしかに、それは界らしいかもしれない。勉強ができることと教えることが上手なことは同値ではない。
素晴らしい水泳のコーチだが、本人は泳げない、みたいな話を聞いたことがある。今回の場合と逆の事例になるが。
「それに、界相手だと………いや、なんでもない………。だ、だから、お前みたいな平均くらいのやつの方が、むしろ適任ってことだ!」
「他の将棋部のやつは?」
「だめだ。オレが勉強できないキャラってことが知られてしまう。部長としての威厳が損なわれる……」
別に将棋の実力があるのだから、そこで見栄なんてはらなくてもいいと思うが。
「他に友達はいないのか?」
「いるけど……あいつらはだめだ。『わかりまちゅかぁ?』とか絶対にからかってくる。一回、教えてもらおうとしたら、放課後ずっとおもちゃにされた。イライラしただけで、全然何も入って来なかったし、教えることがそもそもアルファベットの読み方とか、全然参考にもならんかった。いくらオレでもアルファベットくらい読めるわ!」
香流は背も低いが、顔立ちも稚さがある。声も頑張って低くしようとしているのだろうが、すぐにメッキが剥がれる。一人称や、やや乱暴な言葉遣いで武装しているのだと勝手に思っているが、それが逆効果になっているのだろう。
なるほど、いまさら合点がいった。
「その点、お前はいいな。オレを子供扱いしないし…………」
僕は飲んでいた抹茶ラテを喉につまらせかけた。
噎せはしなかったが、危ないところではあった。
「まぁ、解った。テストの件は一緒に勉強するとかで良いだろう? それに効果があるかは知らないが」
「本当か! ありがとう!」
僕は空になったグラスを机の端に寄せる。
「で、一つはっきりさせたいんだが……」
「んあ? 何だ?」
「香流は界のことを異性として好きなのか?」
「ああ、そりゃぁ………って!? ゴホッゴホッ、ガハッ!」
香流は食べていたさくらんぼを喉につまらせたのか、派手に噎せる。僕はそっと水を差し出した。もし、香流が好きなものを後で取っておくタイプなら、さくらんぼ好きなのだろう。
香流はひったくるようにコップを取って、水を流し込んだ。そして、コップを机に叩くように置く。
「い、いきなり何言ってんだよ!」
顔を真っ赤にして、さくらんぼを喉につまらせかけたせいで、目も涙目である。
「……茎も飲み込んじまったッ、じゃないか!」
「だから、許可を取ったじゃないか」
「だって、そんな変なこと、聞いてくるとは、ケホッ、ケホッ、思ってないじゃん……」
香流は咳き込んでは注いだ水を流し込む作業を繰り返している。
「仲を取り持つと約束はしたが、恋仲を取り持つようなことは僕ではできないと思ってだな」
「…………!? そ、そのくらい、お前の手を借りなくても、自分で……! ってくっそ! 誘導尋問かよッ!」
「……そんなつもりはなかったが。まぁ、それなら良いんだ。僕は色恋沙汰には疎いから」
「てか、どうしてオレがその、界をす、す、好きだなんて……そんな、馬鹿げた勘違いを…………」
「いまさ……いや、なんでもない。そうだな。香流を見ていてそう思っただけだ」
「そ、そんなに分かりやすいのか……?」
顔を青くして言った。さながらリトマス紙のような変化をする。
「…………。違うと思うぞ。僕が敏いだけだ。当の本人には気づかれてないだろうし、他の人も気づいていないと思うぞ」
疎いと言った後に敏いとか言っているあたり、交錯してしまっている。
だが、いま言ったことは半分本音である。
まず、界は絶対に気づいていないと断言してもいい。界は要領がいい割に、自分の世界しか見ていない節がある。
先も香流が言っていたが、界は自分の基準で勉強を教えようとしたと。あいつは人の立場に立てない……いいや、立てないという言い方は正鵠を射ていない。そもそも試みないから、立たないと言う方が近い。
だからこそ、あいつはかなり人を選ぶ。自分と同じような価値基準や、自分と匹敵乃至超える実力の持ち主にしか興味を持たない。
交友関係を狭めれば、環境としては心地よいものかもしれないが、その弊害として狭隘な了見となってしまいがちだ。
かと言って、界は視野を視野狭窄の筆頭候補である、「差別や偏見」が著しいわけでもない。むしろ逆だ。差別や偏見をしない、もたない。
だが、それは良識があるとか、そういうわけではなくて、単に興味が沸かないだけだからだ。
別に、個人的には差別をすることや、偏見を持つことを、良いことだとも悪いことだとも言わない。
差別をすれば、その分、視野狭窄と言ったが、たしかに視野が狭くなってしまいそうだし、逆に差別を否定すれば、その事自体が差別に繋がり、自己矛盾を起こしそうだと思うからだ。
そして、残りの半分は嘘である。
まず、僕が敏いというのは真っ赤な嘘で、他の人間が気づいていないというのは完全な憶測で、もし香流が界とのことで他の同級生などに相談していれば、いとも簡単に気づかれてしまうだろう。
高校生という生き物は変に勘ぐる習性がある。
実際に何とも思っていなくても、男女が二人でいるだけで「逢引」だの言ってくる人いるくらいだ。
それに、実際、水早川先輩は感づいていそうなものだった。というより、香流があの時、殆ど何も包み隠さず言ってしまったから、察しただろう。
「……そうか。そうだよな。そんなかんたんに解るわけがないよな!」
「あ、ああ」
「……でも、お前にバレてしまった以上」
香流は緩やかに顔を擡げて、異しく視線を合わしてきた。似つかわしくない不敵な笑みを湛えながら。
もしや口封じでもする気だろうか。
「お前にはこっちの面でも手伝ってもらおう」
「…………随分な開き直りだな」
だが、手伝えと言われても、その方面にはからっきしだ。僕にできることと言えば変わらず、二人をマッチングすることくらい。
「もう逆にすっきりした。何かをずっと隠しているっていうのは辛いものだったんだな」
急に悟りを開いたかのように、人生訓みたいなものを言い出す。だが、僕は香流の言うことが解らなかった。
何かを隠す。辛いから何かを隠すものではないのか。
「そうか」
香流は伝票を唐突に取り上げた。
「ここはオレが持つよ。協力の前払いだ」
「いや、そんなことされなくても、ちゃんと協力するぞ。約束は約束だし、自分の分は自分で払う」
協力の前払いというより、強要の押し売りみたいに感じた。
「いいって、いいって。いまオレの財布は潤ってんだ」
任せろと言わんばかりに胸を張った。
香流はバッグを掻っ攫うように手に持って、靴をささっと履き替え、会計の方へ勇み足で向かって行った。僕も急いで靴を履き替えて、香流の後を追う。
「一七三二円になります」
僕は一応、二千円を手に持っているが、後ろから割り込むように払うのも少し違う気がした。返すなら別に店を出た後でも良い。
「……あれれ?」
香流はがさがさカバンの中を漁る。明らかに焦りが出ている。
「…………ぁ。そうだ。昨日、お金を入れようと思って、財布。机の上に置きっぱなしだ」
香流はゆっくりとこちらを振り返る。いまにも泣きそうな顔をするので、カウンターの死角になる位置で、香流に二千円を差し出した。
「んぐ……。ごめん……………」
香流はしょぼくれた背中を向けながら、よろよろとした手で木製のカルトンに千円札を二枚そっと置いた。
小さな肩を震わせながら、げんなりした少女を見て、何となく、香流のことを実際に子供扱いする人の気持ちを理解したような気になった。
外に出ると、太陽も西の空で涙目になっていた。
「……来週。金は返す」
「別にいいよ。僕、そんなお金使わないし」
「絶対返す。二倍にして返す」
「いや、いいって。返すとしても、香流が食べた分までにしておいてくれ。それ以上は受け取れない―――じゃあ、また今度な」
僕と香流の家の方角は真逆である。
「あ、待て。帰る前に、お前の下の名前、これなんて読むんだ?」
香流は連絡先を交換する時に、僕の名前の漢字は知ったようだが、読み方が解らなかったのだろう。僕の名前が「む」の欄に入っている。
「それで『ふゆき』って読む。ちなみに、苗字は『ゆわえ』だ」
「ゆわえ、ふゆきだな? 解った。じゃあな、
香流は最後にニカッと笑った。僕の名前を入手したことが嬉しかったのだろうか。
香流が去っていくのを見てから、一度、店の方を振り返った。いい雰囲気のお店だったと思う。なるほど、カフェ巡りをする人の気持ちが少しだけ理解できたような気がした。
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