第59話 消失と約束と

2.


 一昨日にお祭りを終えたE組には少し腑抜けたようないつも通りの風が教室に吹き込んでいた。実は定期考査二週間前なのだが、それよりも夏休み間近ということが生徒にとっては心の多くを占めていることだろう。

 少し周りを見渡しても、そもそも生徒が疎らにしかいないということもあるが、勉強している生徒はいない。


 そう言えば、「終えた」と言ったのは少し語弊があったかも知れない。まだ一応、クイズとか駅伝とかは残っている。他の勝ち残ってるクラスはまだお祭り中である。

 メインの競技……というのも語弊があるかもしれないが、複数日に亘って行われる競技はすべて終えていたということだ。


 僕は結局、将棋と男子バスケに出て、将棋は準決勝敗退(進出と言ったほうが見栄えが良いだろうか)。バスケは優勝という、一見、華々しく見えるのだが、個人としては完全に強いチームメートに肖ってしまった分不相応の結果である。

 特に、男子バスケは決勝点を決めてしまったこともあって、いいとこを掻っ攫って行きやがったとか思われているかも知れない。皆シュートを決めることに関しては物凄く貪欲で獰猛であったから。

 しかし、そのようなことは既にどうでもいい、もう過去のことで、僕は全競技を無事終了し、再び正真正銘の日常を取り戻していた。この学校は事あるごとにイベントがあるから、日常の尊さがひしと感じられる。


 その最中。


 制服のズボンのポケットの中で何かが小刻みに震える。不慣れな感覚に、もしかしたら小人がポケットに迷い込んで寒さに震えている……?なんてメルヘンチックな発想がひょこっと湧いて出てきたが、いまは夏の入り口一歩手前だ。


 僕は少しだけ椅子を引いてから、ブツを取り出した。携帯電話である。

 僕の携帯電話は二つ折りで、開いて手に持って、上側がディスプレイで、下側には複数のボタンが羅列されている。所謂ガラケーと呼ばれるやつだ。

 そういえば、昨今はスマートフォン(スマホ)なるものが急激に普及してきていて、もしかするとガラケー利用者はもはやマイノリティなのかもしれない。


 実際、教室でいま統計を取ってみても、スマホをいじってる人は何人も見受けられるが、ガラケーを持ってる人間はここにしかいない。

 それに、外を歩いていても、スマホに取り憑かれたかのようににらめっこしている人をそこら中で見かける。

 「歩きスマホ」という社会問題もあるんだとか、ないんだとか。


 僕はというと、普段は携帯を持ち歩かない。今日まで持ち歩こうと考えたこともなかった。だが、こうして持ち歩いてしまっているのには理由がある。

 

 昨夜のことだ。


 風呂上がりに心地よい微睡みに抱擁されたので、部屋に戻らないで、リビングのソファに寝転がっていたら、姉貴が『ケータイは携帯しろぅ!』と二階から降りてきては、(後で確認したら着信だらけの)僕の携帯端末を放り投げてきて、見事鳩尾に落下した。

 姉貴が痛みで悶絶している僕をよそ目に『なぁんで持ち歩かないのさぁ』って聞いてきたので、『重いじゃん』なんて言い訳したら、『ふぅ〜〜ん』とか芝居がかった相槌を取るが早いか、急に上から飛び乗られて『あぁん? お姉ちゃんは重いかァァァァ??』とか支離滅裂で滅茶苦茶なことを言い出し、ひどい目に遭わされたので、泣く泣くこうして持ち歩いている。


 飛び乗られた時、姉貴から酒の臭いが漂ってきたので、軽く酔っていたんだろう。

 姉貴は滅多に家で呑まない――もしかすると僕が気づいていないだけかもしれない――が、こうして呑むと本当にたちが悪い上、飲酒特有のサイン――顔が赤くなったり、呂律が回らなくなったり――といったことがなく、表面上からは判断できない。


 だから、姉貴の飲酒判定にはもう単に酒臭いか臭くないかとか、呑んでいるところを見るとか、それができないと、先手を奪われ、魔の手に捕まり、暴りょ……奇行に巻き込まれ、ジエンドである。こういう大人にはなりたくないものだと思った。


 ところで、着信については、電話ではなくメールだったので、ひとまず放置しようと思ったが、やはり、せっかくなのでこの場で確認することにした。

 僕はあまり、というか滅多にメールを送らない。それはひとえに送る必要が日常生活においてないからだ。だから、メールもあまり受信しない。

 渡されてから数年たつ、新品にしか見えない携帯をポチポチと操作して、メールボックスを開いた。



From:奈御富 界

Re:反故の約束は果たされた


 (本文なし)



「反故の約束は果たされた……?」


 朝から何の暗号だろうか……と考えたのは刹那、僕は界の言わんとしていることを理解した。

 バスケの試合で僕が勝ったら、界が香流との約束を反故にする、という約束を試合の前日にしたのだった。

 


 試合後。


 僕は保健室で休んでから、教室に戻った。その頃には教室には人っ子一人おらず、部活組の荷物はあったが、それ以外の生徒は帰ったようだった。

 随分、日が伸びたものだ。もう17時過ぎだと言うのに、外はまだ明るい。

 17時。帰宅部としては大幅なビハインドを取ったが、仕方がない。


 スクールバッグに体操着、クラスTシャツを無造作に詰めて、教室を後にした。

 下駄箱で上履きから靴に履き替えて、歩いて門の方に向かう。最近は自転車ではなく徒歩通学している。

 校庭の方から漏れ聞こえる部活動の声や、甲高くなる金属バットの音に心の中でそっと敬礼する。

 思うが、運動系の部活動で金属バットの音は圧倒的である。最も主張が激しい。例えば「部活動.mp3」というSEでもあれば、必ず金属バットの音が収録されているだろう。

 

 門に近づくと、その外側に人の気配を感じた。


『楓雪。完敗だぜ』

『……急に現れて、急に話し出すな』


 界は僕を待ち伏せしていたようだったが、さも当然かのように話し出す。


『いい試合だったぜ……』


 界は哀愁のようなものを言葉の裡に秘めて言う。何となく、数時間前に終わった試合より、ずっと昔のことを思い起こしているように見えた。


『だから、その分めちゃくちゃ悔しい……』


 言葉では言うが、満たされたような顔をしている。


『……ま、歩こうぜ』


 界とは途中まで帰り道が同じである。だから、こうして帰ることが何度かあった。


『しかし、楓雪。最後の最後まであんなものを隠してるとか、ホント恐れ入ったぜ』

『それなんだが、界は最後に僕がロングシュートを打とうとしてたことは判っていたのか?』

『いんや? だが、お前が何か企んでいることだけは判ってたぜ……その上でお前は俺に勝った』


 押し付けるように言う。これでは「不意打ちまがいのことをして悪かったな」とは言えなくなった。


『―――――』


『負けたのは悔しいし、お前にはいますぐにでもリベンジを挑みたい――――が!』


 界は溜めてから言う。


『今日はお前の本気を見られたことに満足している。ときにはこうして負けるのもいい糧になるんだな……』


 そう言いながら、界は夜に侵食されている遠くの空を見た。それから、急にこちらに視線を戻し、僕の背中をバシッと叩く。思わず「うおっ」と声が漏れた。


『やっぱ「友達」というものは人生に潤いを与えるな!』

『……なんだ、大袈裟だな』


 こころなしか、疲弊しきった身体が軽やかになった気がした。

 僕は界に勝負を挑んだ。全ては過去の僕が未来の僕を知る、未来の僕がある答えを持つことに「期待」して。


 その未来がいまだ。いまの僕は何が言えるだろう。結論としては「僕」は消えてなくなることはなかった。もしかすれば、僕の知らないところで改変が起きていたかもしれない。だが、それは僕には解らないことだ。

 開いた胸の傷に制服の上からそっと触れてみる。包帯を巻いたので滲んでくるようなことはない。


 一つ、…………一つ変わったこととすれば。


 「僕」じゃない何かが歪んでなくなった。消えてなくなったのではない、歪んでなくなったのだ。

 熱にやられたのだろうか。もう、あの開いてはいけない扉は歪んでしまって開けない。


――――それが、どう僕に影響するか、乃至影響しなくなるか、まだ解らない。


『それで、楓雪。約束のことだが……』

『やく……ああ。香流との……』


 忘れてはいけないはずの大義名分を忘れかけていた自分がいたことに、危殆を感じた。

 脈が一つ跳んだ。冷や汗をかく。「おいおい」と心の中で、自分に呆れる。


『それならできるだけ早くに反故にしてほしい。あ、僕が関与していることは黙っていてくれると有り難い』

『……ああ、それは構わないんだけどな、あんときはお前と戦えるってことですっ飛んでたんだが、どうしてお前が俺と香流との間の約束を反故にしてほしいなんて言ったのか、不思議に思ってたんだ』

『それにはちょっとした事情があってだな…………………まぁ、互いに悪いことではないと思う……』


 少しだけ考えて、その事情を僕から説明することを回避することにした。


『それで……ああ、そうだな。約束を反故にする時に、どうせ香流は「なんでだよ! 約束は約束だろ!」みたいなことを早口に顔真っ赤にして言うと思うから、「でも、香流とは普通にこれからも関わっていきたい」みたいなことを言えば、もしかすれば解るかも知れない』


 しかし、こちらから頼んでおいて、事情を報せないのはアンフェアな気もするから、ヒント……のようなものを教える。

 とは言え、界が答えに辿り着くとは僕は考えていない。仮に、僕が界の立場に立たされても解らないと思う。


『……なんか見てきたみたいに具体的だな。わかった、それっぽくやってみよう』

『助かる』



 と、もう一度やり取りしたのだった。どうせあいつとは学校でも帰り道にでもいつか出くわすであろうので、聞いてみよう……ああ、こういうときにメールで聞けばいいのかもしれないな。


 ただ、メールを打つのも億劫だったので、僕はパタリと携帯を閉じた……が。約束を律儀に果たしてくれた彼の誠意に答えよう。どうも慣れないものを持つと行動に削るべき無駄が出てしまうようだ。


 僕は「ありがとう」と五文字だけ打って返信した。


 これで僕のタスクはオールクリアである。予め提出範囲の判っている宿題(夏休みの宿題を含む)も終わらせてあるし、ひとまず「勝利」に対する結果は得た――そういうことにした。

 また、香流との約束も果たされ、これで万全の状態で夏休み……その前の定期考査に挑める。


 と、思っていたのも束の間。


 教室のドアがバターンッ!と乱暴に開かれる。さながら討ち入りか御用改である。


「「おい!」」


 教室でわずかに「ミニフェルメールだ」と囁かれた。なるほど、この中に渾名の考案者がいるのかもしれないな。

 侵入者インベーダー香流かおるは僕の席のところまで来ると、腕を摑んできて、


「ちょっとこい」


 と僕を教室の外の方に引きずり出そうとする。「教室で良くないか?」と言いかけたが、告白(事件)の教訓がある。僕はおとなしく着いていくことにした。


 階段を半分だけ降りたところ、踊り場まで連れてかれた。


「……お、落ち着いて聞けよ?」


 僕の腕を放すなり、打ち付けに言い出す。僕としては少し香流に落ち着いてほしい。いや、こうして自分にも言い聞かせているのかも知れないな。


「さ、さっきの、今日の朝のことなんだが……界がオレにさ!」


 本題はこれからだよという風な話し出しだが、もう言わんとしていることは別口の情報筋から伝わっているのだった。


「その……! あ、あのときの! ……ふぐぅ!?」

「少し落ち着け」


 一文字ごとに肩を上下にワクワクさせて、声もボリュームアップしていくので、口元に人差し指を立てて見せ、話を遮った。

 まだ朝である。階段を登ってくる生徒もいるわけで、わざわざ教室を出たのだから、ここで注目を集めるのは本末顛倒な気がした。


 息を整えた香流は興奮の残滓を吸い上げながら、すごいだろう!と雄弁に語るが、案の定、界が約束を反故にしてほしいという話だった。


 しかし、香流の話を聞く限り、僕が予想したとおりの言葉選びをしたらしく、界も僕が教えたとおりの言葉を使ったらしい。


「……良かったじゃないか」

「ああ!」


 ぱぁっと香流の顔は晴れ上がった。非常に嬉しそうである。しかし、僕に伝えに来た意味は何だろう。


「やっと、あいつもオレの魅力に気がついたんだな!」

「そうだろうな。しかし、とうとう僕の出番はなかったな。すごいじゃないか」

「……………?」


 香流はきょとんと首を傾げた。


「何を言ってるんだ?」

「え? だから、僕が何をするでもなく、香流と界の交流は正常化されたから、僕に頼る必要もなかったなって話」

「アハハ……そういうことか。いやいやぁ、むしろこれからだぞ!」


 僕は少し嫌な予感がしてきた。


「お前にはむしろこれからオレを手伝ってもらいたい!」

「……何を手伝うんだ? もう、界とのことは解決したんだろう?」

「……お前、言ったよな? オレと界の間を取り持ってくれるって」

「そう言ったが、その必要もなかったと……」

「…………お前、言ったよな。もうオレを騙さないって」


 同じような構文だったのに語調がはっきりと異なっていた。鋭く刃物を突き刺してくるような言い方だ。


「確かに、言ったが」

「なら、お前の仕事はむしろこれからだっていう話だ!」


 心底楽しそうに話す。


「え、これ以上、僕が何をすればいいんだ? もう問題は解決されたじゃないか」

「ハァ…………ちょっと耳を貸せ」


 香流は心底呆れたように溜息を吐いた。上がっていた肩が奇しくも下がった。


「大声出すなよ?」

「そんな子供みたいなことしねーよ!」


 心外だな! という風に小学生に見えんでもない彼女は言う。

 僕は膝を折って、香流の背丈に合わせた。香流は囁き声で僕の耳元で話す。わざわざ手で覆っているが、内容は別に誰に聞かれようともいい話のように思えた。


「なんで僕が……」

「オレたちの仲を取り持つって言ってよな? 忘れたなら思い出させてあげようか?」


 この子、いつこんなこと脅迫を覚えたのでしょう。


「解った。協力する。だが、その前に明らかにしておくことが……」


 そんな折、ウェストミンスターの鐘の音が聞こえた。別にイギリスのビッグ・ベンから直接聞こえてくるのではない。


「この話はまた後でだ。とりあえず、教室に戻れ」

「おう!」


 香流はピアノの鍵盤を踏むみたいに階段をるんるんで駆け上がっていく。僕は気取られぬように、小さく溜息を吐いた。


 僕が階段を遅れて上ろうとしたとき、背後から、


「……逢引か?」


 と、ニヤニヤした顔のシールをそのまま顔に貼り付けたような麴森が呟いて、僕を追い越して颯爽と一段とばしで階段を上っていった。

 階下の方に耳を澄ませば朝練組の集団の声が聞こえてくる。

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