第58話

1.


 まず、僕は読書を習慣にしていない。

 次に、調べ物も滅多にすることがないし、大抵家にある本で事足りる。


 さて、僕は定期的に学校図書館に赴くのが、それは読書のためではないということだ。

 無論、勉強のためでもない。


 カウンターの下に仕舞われているブックカード容れを取り出した。

 我が校は図書の貸し出しについてはニューアーク方式を採用している。それがどういうものかと言うと、利用者は、貸してもらいたい図書を図書委員に提出し、図書委員は図書の裏表紙裏に貼付されたブックポケットからブックカードを取り出し、ブックカードに利用者の情報を書いてもらう。

 しかし、図書館の貸出を使う生徒は歴戦の読書家たちで、図書室のシステムなどは熟知している。だから、大抵記入済みのブックカードを予め取り出しておいて、本を持ってくる。


 そのブックカードは貸出日付が記載されれば則ち図書館に保管され、当該利用者が返却しに来た時に、ブックカードに返却日付が記載され、ブックポケットに戻される。


 こういう貸出・返却の業務は公共の図書館では専ら機械化されているようで、利用者が持つ利用者カードを用いて図書を借りる。データは全て電子の世界に保存される。更に、いまでは自動貸出機なるものが存在していて、もはや貸出には利用者一人だけで充分らしい。


 我が校も是非機械化されたいが、いかんせん利用者が少ないのだ。生徒一人ひとりに利用者カードを配布しても、三年間埃を被り続けるものが殆どであろうし、機械の導入及び維持にはコストがかかる。それがまったくもって割に合わないのは一目瞭然である。


 僕は数ヶ月単位で延滞されている図書について、纏めておこうかと思ったが、そう言えば今年から我が校でもバーコードリーダーが導入され、貸出データはPCで管理されているのだった。


 だから、ここでアナログで纏めたところで、学期末にはPCでどの資料が、どのくらいの期間、貸し出されていることが、瞬く間に画面に表示されるであろうので、暇つぶしにでもと思ったが、意味のないことをするのは気が引けた。

 

 いまはどの資料が貸し出されているか、いないかがわかるだけだが、いずれは利用者の情報も電子データ上に保存することになるかもしれない。そうすればこのブックカードたちもお役御免となる時期が来るのだろう。

 大体、利用者の情報だけPCで管理されていないから、画面に延滞資料一覧を表示しても結局以前通りブックカードを参照せねばならなく、督促状を書く上では図書委員の労力は殆ど変化していない。これではバーコードリーダーの強みを全く活かせていない。

 溜まっていたブックカードに一通り目を通してから、机の中に纏めて戻した。


 僕はカウンター席に座ったまま閑散とした図書館の窓の向こうをだらぁっと眺めていた。窓から何が見えるかと言えば、高く聳える木の翠である。翠しか見えない。


 ここは四階で、地面から二〇メートルくらいあるから、あの木々はかなり昔にあそこに植えられたのだろう。


 と、この図書館の過ぎ来し方と行く末について思索していたら、図書館の扉が開いた。

 思えばこの学校で五本の指に入るほどの「立派」な扉である。教室の立て付けがやや悪いスライドするタイプの扉ではなく、観音開きで木製の扉、半透明のガラスが嵌められている。扉上部には荘厳な装飾……ではなく、生徒の悪戯だと思われる得体の知れぬシールが貼ってある。

 図書館だけ扉が違うのは、図書の搬入、搬出の際に教室の扉よりこちらのほうが便利だと考えたのだろう。スライドタイプではないから、シームレスに廊下と図書館の床は繋がっている。

 と、このように「立派」な扉だが、皮肉にもこの学校で五本の指に入るほどの開け閉めが行われない扉である。


「結江っち、おーっす!」

「なんだ海崎さん。今日が当番だったこと知ってたんだ」

「まぁね〜」


 僕がややカウンターの奥の方に席を移して、海崎さんは空いている方の席に座った。

 かと言って、いまさら人員が補充されたところで、やることはないので僕はただ座って寿命を削っていた。

 しかし、図書館には校舎にはない特有の静けさに、図書の匂いがする。これらが相まって時の流れが緩やかに錯覚してしまう。


「……暇じゃね」

「いつも通りだよ」

「結江っち、何か話してよ〜」


 海崎さんはカウンターに身体を預け、ネコのように伸びをした。


「図書館では静かにするものだよ」

「あ、この前のバスケ! すごかったね。あんなとこからシュート入れれるなんて! しかもあんな時間ギリギリで」

「得点したのはあれだけだ。貢献度は、僕がワーストワンだ」

「え? そーなん?」

「ああ」


 会話が途切れる。僕はやや海崎さんに傾いていた意識を真正面に戻した。網膜には再び翠の色が焼き付いていく。


「おい」


 海崎さんに脇腹をつつかれた。神経を直に触られた気がして、ぞわっと不快感が身体中を駆け巡り、僕は反射的に少しだけ身を捩った。


「『ああ』じゃないっしょ。会話広げないと」

「どうして」

「そんなんじゃ女子から『つまんない男〜〜』って思われるよ〜」

「別になんと思われようとも構わない」

「なんでよ〜。いま結江っち株価上がってきてんのに。売り出すならいまっしょ!」

「僕は何も売り出す気はな……」


 僕は話を中断して席を立った。


 我が校指定絶滅危惧種の野生の図書館利用者が現れたからだ。その利用者は常連の歴戦の猛者ではなく、消え入りそうなか細い声で恐る恐ると図書を差し出してきた。


「あの……これ……お、お願いします」


 裏向きに渡されたので、そのまま裏表紙の後貼りされたバーコードを新品のバーコードリーダーで読み取る。裏表紙裏からブックカードを取り出した。

 ブックカードを見るに、前回貸し出されたのは二年前のようだ。


「ここに学年・クラス、名前の記入をお願いします」

「ふぇ!」


 僕はボールペンとブックカードを渡そうとしただけなのに、驚いたように飛び退ってしまった。


「……あ……す、すみません。知らなくて、その……」

「問題ないですよ。慌てないで書いてください」


 見たことのない人だ。制服を見るに一年生。長い漆黒の髪が顔を覆い隠している上に、先からやや俯いているので、表情は読み取れない。失礼かもしれないが、怪談の類で出てきそうな髪型だ。不思議と、お菊さんという言葉が最初に浮かんできたぐらいだ。


 しかし、声音が震えているので緊張していることは判った。一体、何が彼女を怖がらせているのか、僕には判然としないのだが、一年生かつ新規利用者である、彼女をここで取り逃してしまうのは弊校の大いなる損失である。

 僕はできるだけ優しく鄭重に接したつもり……だったが結局平生のマニュアル通りという感じになってしまった。


 守ノ峰高校の敷地は広いから、もしかするとこの僻地にある図書館に辿り着くまでに三ヶ月弱かかったのかもしれない。本当は今頃は常連になっていたはずだったのに……ということだろうな。そう勝手に看做して脳内の常連リストに彼女の存在をファイリングしておく。


 思えば、去年の始めの頃は別に利用者が増えようが減ろうが、どうでもいいと思っていたが、最近は増える方向に興味があるかもしれない。これが「愛着」というものなのかもしれないな。


 染み染みと感傷に耽っていたら、名前を書こうとした新規の常連有望株はボールペンを掴みそこねたのか手からこぼし、カチャンと軽い音が小規模に響いた。


「……! す、すみません!」

「大丈夫ですよ。ゆっくりで」


 すごい悲壮感を漂わせてきたが、昼休みが終わるまでに書き終えてくれれば、別にどれくらいかかってもいい。

 コンビニのように後ろが支えることはない。

 ここは図書室で、だのに貸出をすることは滅多に無い椿事。無論、女子生徒には急ぎの用事があるかもしれないが。


 たぶん、ボールペンを落としたのも、僕が「お菊さん」みたいだなって思ったバタフライ効果のせいだ。業務中は邪念を取っ払うべきだな。


「か、書けました」


 ボールペンで文字を書くという行為は日本の高校生にはあまりない習慣だと勝手に思っているのだが、受け取ったブックカードには書家みたいな文字が書かれていた。僕では表現できない「とめ」「はね」「はらい」がインクで艷やかに表れている。

 さっきも溜まったブックカードを見て思ったが、利用者の書く文字は綺麗なものが多い。もしかすると、字が下手なのがバレるのが嫌だから、本を借りないという人もいるのかもしれない。

 もちろん、煩雑な文字を書く人もいるが、その多くが延滞者だったのも興味深い。


「はい、たしかに。貸出期間は二週間です」


 僕は今日の日付が予め組まれている日付印をブックカードに捺印した。それを見届けた女子生徒は逃げるように本を手に持って図書館から出ていった。


「あーあ。さっきの暗い子、新規利用者だったんじゃないの〜?」


 海崎さんは残念そうなことを全くどうでもいいことのように言った。


「おそらくそうだな。見たことない生徒だった」

「がくがく怯えてたじゃない」

「そうか? それなら海崎さんにお願いすればよかったかな」

「それはムリ〜。あーし、やり方しらないもん」


 海崎さんはあっけらかんと言ってのけた。


「それもそうか」


 やり方と言っても、やることなど片手で数えるほどだが。ただ、二人体制にならねばならないほど混雑する将来がこの図書室を訪れることなど、「ない」と断言してもいいもので、いまさら海崎さんを図書委員化する必要性は低い。

 彼女が求めてくるようなことがあれば、教えはするが、おそらくありえない未来の話だろう。


「でも、あの子、また来ると思うよ〜」

「でないと困るな。督促状を差し上げることになってしまう」

「いやいや、そういう意味じゃなくって!」


 肩口にかかる金髪を指先にくるりくるりと巻きつけては解いている。


「いま、結江っちの株は上がってるって言ったっしょ?」

「ところで、その株価はどこの市場で確認できるんだ?」

「……ん〜あんたには教えないわ」

「そうか」


 教えられたところで、確認することはないと思うが。日経平均株価すら抑えてないのだから。


「で、あーしに言わせれば、さっきの子は図書館に興味があって来たんじゃないんよ」

「その心は?」

「簡単なことだよ、ワトソン君。君はあの子が借りてった本をよく見たかね?」


 海崎さんは静まり返った図書館で、急に声色を変え、茶番劇を始めた。声量は控えめだったので、僕は注意はせず観劇することにした。


「まぁ、書名と著者くらいは」


 裏向きに提示してきたから、もしかすると見られたくなかったのかもしれない。本の選択はある意味、その人個人の内面を鮮明に映す鏡とも言える。

 ただ、ブックカードに書名と著者名が書かれているのだ。


「ページ数は確認したかね?」

「いや。でも、高々五〇ページくらいじゃないか」

「そうだよ。高々五〇ページ……しかもあれは見るに絵本。そんなもの図書館で読み切ってしまえばいいのだよ」

「絵本……ではないと思うが」


 海崎さんはキリッとした表情で、エアーで指鳴らしをした。興が乗って来たのだろう。


「つまり、さっきの子は本当は本を借りる必要がなかった……。では、どうして慣れもしないのにここまでやってきて本を借りに来たのか……」


 海崎さんは考える仕草だけを見せ、不意にこちらを向いて僕にバシッと指差した。


「それはひとえに、そう、ワトソン君。君に接触したかったためだよ」


 おおー、と言って僕は拍手をする仕草だけ見せた。


「どう? あーし、・ディテクティブみたいだったっしょ?」

「……? それを言うなら、アームチェア・ディテクティブだな」


 名探偵海崎さんの迷推理は理解はしたが、納得はしていない。


「うぐっ…………。で、でも、合ってると思うよ? 最近、よく視線感じるっしょ?」

「……いいや。そんなことはないが」

「ええ〜、あー、でも、結江っち、影薄すぎてみんな見つけられないんだろね」


 言うが早いか海崎さんは「結江っち、あれれどこいった〜?」とか辺りを見回す。


「でも、そのくらいがちょうど良いだろうな」

「え、何が?」

「海崎さんが言うように、僕に何かを期待している人がいるとして、その期待が何であれ、僕が答えられるとは到底思えない。だから、僕と会わない限り、その妄そ……夢は壊されない」


 昔、「知識は力なり」と述べた哲学者がいた。

 人間は他の動物と違って知識欲が旺盛である。こうして図書館が開放されているのも、人間の知識欲が顕現したものの一つと言ってもいいだろう。

 知識とは結果の前に先立つ原因を知ること、それがなければ結果を喚び起こせない。だからすなわち知識は力と一致するという考え…………だった気がする。


 しかし、世の中には「知らぬが仏、知るが煩悩」という古諺がある。読んで字の如く、世の中には知らないほうが平穏に、逆に知ることで心を擾すことがある知識というものも存在する。

 今回で言えば、素晴らしいと思っていたものが、実は大したことのないありふれたものだった、と拍子抜けすることは往々にして起こる。


 これは強すぎた知識欲の弊害で、世の中にはたくさんの未開拓な知識が石ころのように転がっており、その多くは拾って喜べるものが多いと、知識欲に人間はバイアスをかけられているが、実際には意外と拾ったことを後悔するようなものも多い。

 だからこそ、図書館利用者という生き物は有る種の冒険家だと僕は思う。


「…………結江っち、なんかすんごい卑屈だね」


 海崎さんはやや顔を顰めた。


「そういうことだよ」

「…………? うわ、うっざ!」


 目に映ったものはその殆どが幻影に過ぎない。人間の目はレフカメラとは違って、あるべき現実を忠実に読み取らない。

 錐体細胞は確かにRGBを波長ごとに読み取り、脳の方に伝達しているつもりかもしれないが、その信号は途中で志向や思考と言ったものにフィルタリング、改竄され、人間は自分の都合に偏った歪曲された世界を見る。

 真実は意外と一つじゃないと僕は思う。


「ああ、もうつまんな〜い!」

「海崎さん。少し声が大きい」

「てか、海崎さんヤメロ。さん付けいらない。タメじゃん」

「わかった」


 なんか前にも呼び名を注意されたことが合ったな。「呼び捨て」⇔「さん付け」の選択は周りの男子同級生の動向をサンプルにして、最も多かった、男子は呼び捨て、女子はさん付けという選択を僕は採用している。

 また、さん付けはある一定の人との心理的な距離を保てるらしく、こちらのほうが心地が良いと判断したというのもある。

 ちなみに、「〜っち」付けのサンプル数は1である。


「呼んでみて」

「海崎」

「……はぁ? つまんなぁ。もっと恥じらって呼んでよ」

「どうして」


 海崎はだらりと上体をカウンターの机に預ける。


「予鈴まだ鳴らないの〜。つまんなすぎるよこの委員会」


 更には足をバタバタさせている。


「別に帰ってもいいぞ」

「いーや、今日は最後までいる〜。職務を全うしたい」


 ただカウンター席に座っているだけではないか、と思わず言いかけたが、それを言うなら僕も大して変わったことをしていない。


「やっぱ、実行委員とかやりたかったなぁ」

「二学期に立候補すれば良いんじゃないか?」

「結江っちはやんないの〜?」

「やらない。とても面倒くさそうだ。それに僕では力不足だ」

「あはっ、たしかに」


 海崎はクスっと笑った。


「でもさ、実行委員って結構人気あるし、委員会の花形だし、立候補する子たちも人気者ばっかじゃん? それで、もしあーしがじゃんけんに勝って、で、いざ働きぶりが悪かったら、申し訳ないじゃん?」

「別に誰がやろうとも、僕はそんなに大差があるとは思わないがな。やりたいならやればいいと思う」

「やりたいけど、でも、やっぱ、今度は忙しすぎて、やになっても、途中で投げ出せないじゃん」

「なら、やらなきゃいいんじゃないか」

「うっわ他人事みたいに! さっきと言ってること真逆じゃん」


 バレたか。


「実際、他人事だしな。海崎がたとえ実行委員になろうとも、それ飛び越して生徒会執行になろうとも、僕は迷うことなく図書委員を選ぶ」

「……はぁ〜ん。あーしが生徒会長になったら、あんたを図書委員から除名してやる!」

「そんな権限役員にはないぞ」

「はぁぁぁぁ〜〜〜〜〜どーしよっかなぁ」


 海崎は大きく溜息をついた。


 実行委員。一学期で言えば、体育祭実行委員や現在進行系で忙しそうにしている峰高祭実行委員。

 去年の新入生向けの委員会紹介でも実行委員の人たちは軒並み眩しいくらい潑溂としていて、「やり甲斐ハンパないッス!」「忙しいけど達成感がありまッす!」「青春しまッしょう!」とか満面の笑みを湛えて、声高らかに宣っていた。

 それを睡魔と激しい戦闘を繰り広げながらぼんやり見ていた僕は、やり甲斐搾取なんじゃないかなとか思って、遠く縁のない委員会だなと脳内でラベリングしていた。


 実際、いまでもどうして海崎がわざわざ忙しい実行委員に立候補しようと考えているのかがさっぱり理解できない。忙しくなりたいということなら解るが、本人は「忙しすぎて嫌になったら嫌」みたいなことを言っているのだ。

 だいたい、行事は実行委員をやらなければ参加できないなんてことはなく、寧ろ実行委員の方が本番当日に業務があって、楽しめないことの方が多いと思う。知らんけど。


 予鈴が鳴るまであと一分。どうせもう貸出は行わないであろうので、日付印を木箱に仕舞った。

 ファイルに貸出1とだけ書いて、昼休みの業務を終了する。


「結江っち。模範解答を教えてあげるよ」

「…………? なんのだ?」

「あんたはね、あーしに『でも、やっぱこうして二人で話していたいから、海崎にはまた図書委員やってほしいな』って優しく、囁くのが、正かっ……ププッ、」


 海崎は全部言い切る前に吹き出していた。重なるように予鈴が鳴る。


「そうか。後学のために参考にするよ」

「後学って……っあはははは」


 海崎は右手で腹を抑え、左手で僕の方をバシバシ叩きながら、声を圧し殺して笑うという器用なことをしている。その傍らで僕は今日の図書委員としての業務を終えた。

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