第55話 最後の攻防
38.
「ゲホッ」
閉じかけた目を見開いた。体育館の床が見える。
ガラス玉がゆらゆらと煌めいては落ちて砕けていく。
身体全体が破裂しそうなほど熱い。全身の筋肉が怯えるように震えている。
息がままならない。吸ってるのか吐いているのか、どっちも必死になってわからなくなってる。
肺がひっくり返りそうだ。
心音が耳を聾している。
地面から強引な引力を感じた。少しでも気を許せば叩きつけられそうだ。いいや、そんなものは本当はないだろう。万有引力は力の中でも特段に弱いと聞いたことがある。
僕はオーバーヒートした身体と反対に、常に冷静でいる自分を引き出す。
状況を把握しなければならないと、ほとんど自動的に判断した。
「ああ、バスケの試合中なのか……」
36対34。残り一分……。
あと一分も……。立っていられる気がしない。
もう一秒も立っていたくない。
ホイッスルが鳴る。F組の点数が38になる。
一分もない中で、4点差だ……。僕が動こうが動かまいが、もう勝てないんじゃないか。ここで倒れてしまって、負けても僕を責めることができるのは、過去を冒瀆する弁え知らずの結果論だけだ。
いや、そもそも僕が責められる所以はない。バスケットボールというスポーツはチームスポーツだ。
どうして僕が動いてクラスを勝ちに導ける。
僕にはそんなことできないし、それをする必要すらない。
何で僕は汗をかいているんだ。こんなお遊びみたいな学校行事に。僕はこんなことにATPを一分子でも消費する義理はない。
責められようが知ったことではない。詰責というのは自分の心に置き場のなくなった人が、濫りに投棄した廃棄物だ。僕のものではないのだから、わざわざ拾う義理も道理もない。
これは必要のないことだ。
いまさら気が付いたが、大体、ここまで疲れてるのは扉の向こうに棲まう主が僕の身体を乗っ取って勝手に暴れたからだ。彼は一番僕に近い見知らぬ他人だ。
無理がある。彼が
僕は既に自分の意志でもないのに過剰な運動をしてしまっているのだ。僕にはここで休んでしまう権利があって然るべきだ。
というのは、頃くの思考だった。
次の刹那には僕はまた走り出していた。
「「結江!」」
麴森からパスが来る。燃料切れを起こしていたことあって、僕がオフェンスの最前線にいた。
ボールを受け取る。汗が目に入る。それでも片目は開いて、ボールを床についた。
相変わらずこいつはでかい。視界前方はほとんど、界の長身が占める。
僕がここで取る選択肢はずっと一つだった。仲間がこちらに回って来るのを待つ。
だが、どうしてか、ボールが手に自然に馴染んでいる。先まで身体を扱き使われてたせいだ。
「……勝つ」
クロスオーバーして、なだれ込むように、沈み込むように、僕の身体は僅かに界の体側を掠めた。
「げっ!」
僕は界の背後で再びボールを手中に収めた。ボールは計算通り、界の股をくぐってきた。界の反応を確認している余裕はない。
ゴールを見る。距離感がうまく掴めない。それにシュートしようにも水門水が前方に回ってきた。
だが、馬鹿正直に水門水を抜く必要はない。僕は無造作にボールを抛った。
殆ど真上に上がったボールはリングより遥か上のボードに当たった。もしこれがシュートだとしたら見当違いも甚だしい。
跳ね返ったボールは再び空中で捕獲された。
「「ラァァァッッッ!!」」
ボールを空中で掴んだ麴森はそのままゴールに豪快に叩き込んだ。
端から麴森にボールが渡そうと思っていたが、こんな芸当をしてくるとは思ってなかった。
「「ひかるー!!」」
すぐ近くで一斉に声が上がる。
気づけばクラスの掛け声も最初は少しバラバラで控えめだった気もしたけど、いまでは揃ってて、その相乗効果か、大きく聞こえた。外野の歓声をかき消してしまうほどに。
「ここ一本絶対守るぞ!」
麴森が僕の身体を強く叩いた。咳き込みそうになったのを堪えて、僕は汗を拭い、自陣に引き返す。
残り時間は三十五秒だ。
――必ずもう一度E組の攻撃が回ってくる。
界がボールを運んできた。麴森が界に当たる。このワンプレーはF組の勝ちを決定し得るものだ。E組にとって、このプレーを制するのはノルマでしかない。
スコアは38対36。
界と麴森はしばらく睨み合っている。時間をできるだけ使って攻める気なのだろう。界がそういった作戦を採るのは珍しい気もするが、或いは、単純に麴森をこの土壇場で出し抜こうと考えているのかもしれない。
残り二十五秒を切る。
界が動いた。麴森に対して倉敷がスクリーン。しかし、麴森は予測していたかのように、倉敷を躱した。
ゴール前は交錯する。
界がシュートを打った。麴森が辛うじてボールに触れる。
ガシャンと音を立てて、リングが揺れた。
「「リバウンド!!」」
誰が叫んだのかもう判然としない。誰もが叫んだのだろう。
ボールはリングの端にあたり、ゴールからやや遠いところへ飛ぶ。
しかし、そこにいたのはE組の男子ではなく、F組の水門水だった。水門水は「ラッキー」と言ったようにシュートを打つ。
「なッ……!?」
僕は跳んでいた。過労で泣訴する脚を踏みつけるように跳んだ。人生でいままでこんなに高く跳び上がったことはなかったと思う。
空中で回転するボールは僕の右手に収まった。僕は宙で浮遊する天使でもはたき落とすように、ゴールへ向かう途中のシュートを地に落とした。
「「速攻!!」」
これがE組、最後の攻撃になる。
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