第37話 楓雪vs香流

 やはり将棋部だと思った。

 

 駒の持ち方、指し方。チェスクロックの押し方。対局中の独特な上半身の動き。


 ひとつ一つが特徴的で、僕らのいまにも剥がれそうな付け焼き刃のための「飾り」などではない。


 盤石で、鋭敏。積み重なる層の数と厚さを否応なしに突きつけられることになるのだ。



 特に如実なのがその早指しだった。


 僕は序盤でも平均、一手につき五〜十秒くらいかけて指している(これはこれで流石に遅すぎだが)

 

 それに較べ、将棋部は一手一秒もかけていないほどの早指し。まさに間髪を容れずと表するべきだ。


 更に、その手付きが相まって、いま、自分達が相手をしている存在の遠さを感じた。


 香流は「将棋界の広さ」と語っていたが、僅々たるものだけれど、解ったような気がした。

 なぜなら、同学の同輩ですら、この遠さを感じたのだから。



 でも、これは僕が勝手に感じ取った、見出したものにすぎなくて、たぶん香流たちは僕たちに将棋界の広さを痛感させるために指しているわけではない。



 単に、将棋部には持ち時間のハンデはあるから、急がなければならないのかもしれない。でも、おそらく、最たる理由は序盤戦だからだろう。



 僕らは覚えたての定跡を綱渡りのように、間違えないようになぞらなければならないが、彼ら彼女らは日常茶飯事に過ぎす、寝ながらでもできるのだろう。



 そこから何もかもが違うのだと。



「負けました」



 僕は思わず、右を見てしまった。



 対局が始まって約四分。持ち時間は八分と将棋部は五分で、あと合計でも九分はあるはずだが。


 顔を戻す前にちらりと波山さんの盤も見たけど、八筋は突破されていて、竜と馬がなられてしまっていた。

 攻め駒の飛車は辛うじて生きているが、活きてはいない。



 つまり、ここで革命でも起こさない限り、僕の勝敗に関係なく、E組は負けることになるだろう。



 おそらく二人とも早指しに圧倒されて、自分のペースを掴み損ねたのだ。僕ほどマイペースに指していると、まだ駒組みさえ終わっていないはずだから……。



 僕が顔を見たと解ると、香流はニヤリと笑んだ。


 そう、僕も指すのが遅いだけで、盤面がいいわけではない。

 実際、駒組みは殆ど終えたが、次に指す手がまだ見つかっていない。


 それほど隙きがなく、逆に言えば序盤は僕は何も間違えていないという証明であるとも考えていいかもしれない。



 戦型は居飛車vs四間飛車で、僕は姉貴の戦法を採用していた。

 香流の方はシンプルな美濃囲いで、ハメ手のような初見殺しとかは仕掛けては来なかった。


 だからこそ、隙きはなく、いくら初心者相手とは言え、手を抜く真似はしないのだろう。なるほど香流らしいな。


 しかし、本当にやることがない――あったとしても解らない……。


 僕は左端の香車を一つ前に動かした。



 その時、眼前にいる少女が粘稠のある狂気を襲うように纏った。ギラリと形容されるべき眼光は確かに、将棋盤の一点を金縛る。

 

 小さくも鋭い右手が痛快に駒を進めた――!



 その駒は息を吸う生物ではない。だが、香流によって明確な意思を持ち、僕の玉将を強く睨むのだ。



 いま、僕が相手しているのは平生の稚い香流ではない。


 彼女を取り囲む空気は勝負師が頻りに好むそれで、見通す世界は地平線を幾多超えた先に、藍色を掘る海の深淵より深く、光が進むほど疾い。


 その強さから獰猛と、その聡明さから怜悧と、その貪欲さから豪傑と、一見、香流には似合わない太い言葉がいまには捧げられるべきだと思った。



 いま同じサイズの正方形の将棋盤を挟んでいるが、僕と香流ではその盤の広さが悉く違うのだ。


 僕にはせいぜい三〇センチ四方の正方形にしか見えない。でも、彼女には高々三〇センチ四方程度の正方形に無限の広さを見出している。


 それは的然と凛乎たる彼女の目が語っていた。



 僕は日常の側面だけを見て、どこか香流を見くびっていたのかもしれない。彼女のことは友好関係にある小さな女の子としてしか見ていなかった。


 もしかしたら、庇護対象とでも勘違いしていたかもしれない。界との一件による見かけでしかない、心労と心傷を勝手に哀れんでいたのかもしれない。



 ある種これを劣等感と呼ぶのだろうか。

 

 なぜか。それはどう考えても自分の優位性を求めていることが客観的にも認められてしまうから。


 いま、この場に於いては僕は矮小で砂粒のような存在で、彼女は少なくともその砂粒になど興味をくれない賢哲だ。

 


 これは弊害だ。日常の殻を破らなかったから、非日常の大海に投げ出された時、こうして反省させられる。


 だって、こうして冷静にならないと、僕の右手はいまにでも震えようとするのだから。



「負けました……」


 波山さんの声だ。これでE組の敗退は決定した。



 さて、どうするか。



 敗北は僕の勝敗に影響されないところで確定した。そして盤面もこちらがかなり苦しく、粘ろうと思えば粘れそうだが、勝ち目はない。


 それならば潔く、攻撃権を自然に与えて攻めきってもらうか……。



 僕は秒読みになるまで、残りの二分間をここに費やすことに決めた。



 まず、戦況だ。

 

 既に左右から囲まれるように攻めに忍び寄られ、詰まされるのは時間の問題と言わざるを得ない。だが、即詰みはないし、暫くは粘ることはできそうだ。

 

 逆に攻撃するとしても、香流の美濃囲いにしっかり守られている玉には全然遠い。


 仮にいまから攻めても、逆に猛烈な攻撃を貰って、持ち時間的にも正しく捌ききれるとは思えない。


 守りに徹する、粘ればまだ冷静に守れる気がするが、勝つことは百パーセント不可能となる。

 勝つための必要条件である持ち駒を守りに使うことになるのだから。



……いや? 僕は別に勝つ必要はないじゃないか?



 ならせめて少しだけ、粘ってみようか。




――その時、二枚の凍てついた氷の扉互いにずれたのだ。



 

 それは意外だった。氷の鎖の向こう側からやってくるのは一切の寒波とかではない。射て刺すほどの熱気だった。



「あ」



 秒読みに入った瞬間に指した一手。僕の意識と乖離したその一手は、香流が見渡す渺茫な世界にとるに足らないような細やかなヒビを。



 しかし、ヒビというものは亀裂の幼孩。軈て痛烈な亀裂と化す。



 だからこそ、その一手を原始として、香流の世界を悉く割り砕くのは当然たる結果だった。



 そして僕は願うことになる。


 気づいてほしいと。



 香流の玉が既に凶悪な右手の毒牙に噛まれかけている――いや、噛みつかれていることに。



 僕は細動する手で倚りかかるようにチェスクロックを押した。香流の持ち時間が減っていく。



 彼女はどこまでいけど、無邪気で無辜だ。純粋な一手は僕の懐に正しく忍び寄る。



 チェスクロックが叩かれる。



 右手はすぐに動いた。



 香流の陣の真ん中に静謐にしかし隕石が如く放たれた手。将棋には似合わない、がらんと何かが壊れ始める音。


 僕の右手はとうとう強く慄え始めた。




 チェスクロックが押される。



 再び、世界は時を数え始め、その先に畢竟はないと、残酷に知らせるのだ。



「―――――――ッ!?」



 そして、チェスクロックが悲鳴のように秒を読みを始めた。

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