第18話 疾走ること
16.
雁坂美代に完全敗北を喫した僕は逃げるようにして応援席に向かった。
はちまきをもう一度締め、荷物は席に置き招集口へ向かった。
クラス別に虹を成した列のうちの一つ、水色の列の最後尾に並ぶ。
雲は遅刻ではなくもう欠席扱いとなっている体育祭。空の太陽はまたアングルを変えて生徒を照らす。
放送委員の入場の合図とともに流れる音楽。また僕の知らない曲だ。
2学年はわざわざ作った列を微妙に崩壊させながら駆け足で入場していく。
待機列でしゃがむ前に水色の襷を渡される。肩から掛ければそれはアンカーの鎖となる。
横一列は同じく各クラスのアンカーで1位の譲り合いと奪い合いの舌戦を繰り広げていた。
「お前の方が速いって!」
「いやいや、お前だろ」
「いや! 俺だな! 俺が勝つ!」
「あ! 実は勝つのは俺でーす!」
予行の時はそれぞれで50m走のタイムを聞き合っていた。ちなみにその8人の中で僕のタイムは「偽り」でも一番遅かった。
しかし、アンカーの時には既に差は埋められない程度に広がっている可能性のほうが高いのだから……というのは、練習の時に抜かされてしまった僕が言うことではないな。
第1走者が校庭の反対側でそれぞれ位置につく。ほとんど全員が後ろを振り向き各々のクラスに期待の視線を送る。
ピストルの引き金が引かれる。紙電管特有の甲高い音が青空を叩く。
それと同時にスタートを切る第1走者。そのスタートと共に爆発する声援。
場は熱い混沌と化す。
1走では僕の予想通りF組が圧倒的な差をつけて暫定1位でバトンが渡り、続いてA組、E組と我がクラスは練習と同じく3位からのスタート。
「よお! ふゆき! 見てたか!」
2位とだいたい10m差をつけバトンを渡し終えた界が隣の列の後ろに並ぶ。
界以外が歩いているような錯覚……は言いすぎかも知れないが、一人だけ別の時間軸で走っていたように見えてしまうくらいだ。
「ああ。速かったな。会場もざわついていたぞ」
「なあ、そういえばなんでお前ら知り合いなんだ?」
隣にいたF組のアンカーが会話に入ってきた。名前は知らない。
タンクトップのように団Tが捲られたところから覗く、隆起した筋肉。日焼けしていていかにもなアスリートにも見える。
「それは僕も気になるかな」
たった今僕の後ろに並んだ
僕はその質問に自分から答える素振りは見せず、界に委ねる。
「それはだなぁ……。というか、あまり
界は不敵な笑みとともに不穏なことを言い始める。
「こいつは面倒なことを終わらすのはとことん速い。おそらくこのリレーも一瞬で終わらせる」
「それとこれとは別の話だろう」
僕は界に反論するが、彼はにやけながらこちらを見るばかり。
「聞いて驚くなよ、この男。去年の冬休みの宿題、俺が冬休み始まった次の日に一緒に片付けようと誘ったらもう終わってるって!」
ああ、あの話か。別に冬休みの課題は始まる前から提示されているのだからそこまで不思議なことでは……。
「そ、そいつはやべェな……。正直なめてたぜ……」
「結江、お前意外とやり手だったんだな…」
まさかの平田も喫驚している。
「まあ、僕は帰宅部だからな。代わりにやることもないんだ」
差し障りのないように無難な回答をしておいた。それに運動部だと年中無休で忙しいのだから確かに異常なことなのかもしれない。……帰宅部万歳!
レースは中盤に差し掛かっていた。
既に前半4クラス、後半4クラスという状況になっていて、F組とA組が1位2位を争い、その5mくらい後にE組とD組が3位と4位を争っている。そして後続の5位のG組とは15m程度離れている。
練習の時とは少し違う状況だが、トップ4クラスは練習の時と同じだ。
僕の願望:D組と競りすぎなので、もう少し差が開いてほしい。できれば4位で。
「なんか練習の時よりも差がついていないな」
界がつまらなさそうに呟く。1走であんなに差をつけたのだから――ということなのだろうか。
「まだどのクラスが勝つか全然わからないね」
これは平田らしい、柔和な言い方だ。
「まあ、でも勝つのはF組だがな! え? なぜなら? アンカーが俺だから!」
F組のアンカーは自信満々のご様子。腕に力こぶをつくって、別に誰も聞いていない根拠を堂々と言い張った。
もともと僕と界のつながりから始まったこの会話は僕を省いて盛り上がっていた。
「省いて」は聞こえが悪いか。僕がただ単に参加していないだけだ。
相変わらず綺麗すぎる、示し合わせたような天候。タンポポの綿毛でも飛ばせば雲になるだろうか。
無差別に照らすスポットライトから隠れられる場所はここにはない。はちまきのおかげで汗をかきそうだ。
――いいや、僕の持ち得ない熱気に酔っているんだ。
そうだここは熱い深い海の渦の中。追加で課された襷はここから逃げられないようにする枷。
油断すれば足元掴まれ熱気を体内に注入されてしまう。
――いいや、「がらくたのハート」は錆びている。そんなことはない。
「うはああああ! 緊張してきたぁ!」
隣の自信満々アンカーはその緊張を興奮に変えていた。
最初は一番うしろに並んでいたはずなのに、今では前にほとんど人がいない。
レースはと言うと……僕の望まぬ展開に転がり、A組D組E組F組が団子状態で拮抗している。
「おお! これはアンカー戦だな!」
界が興奮気味に……こっちを見るな、お前のクラスのアンカーを見てやれ。
「結江、頑張れよ!」
そう平田に言われ、コースの向こう側へ送られる。
――が、反対側のテイクオーバーゾーンでE組のバトンが落ちた。ここまで「カランッ」と金属音が聞こえる。
E組以外の3クラスがそのまま競り合いながらコーナーへ。差をつけられてしまったE組はそれでも必死にこっちに駆け始める。
僕としてはありがたいことだった。後続のG組とは既に20m以上も差がある。バトンミスで若干縮まったがそれは誤差だ。抜かされることはまずない。
半周差以上ある最下位のC組のバトンが目の前で渡った。
さすがに周回差はつかないだろうが、逆に今から7位を狙うのも難しい位置である。
それでも本気で走り続けるのは奇蹟を狙っているのか、同調圧力というものからなのだろうか、それともただ走りたいだけなのだろうか、僕には解らないことだ。
「F組D組A組………E組!」
順に内側から並んでいく。
軽トラでも突っ込んできそうな気迫で他3クラスの走者が突っ込んでくる。本当に接戦で彼らは輝いていた。バトンは全て綺麗に渡り、火花でも散りそうなまま3つの新星は消えていった。
数秒遅れて波山からの「Go!」の合図が聞こえた。
ゆっくりだんだんと……鈍い脚を回し始める。ここからは波山の方は見ないことになっている。
――しかし。
次の「ハイっ!」のバトンを渡す合図を待っていたのだが聞こえてこず、テイクオーバーゾーンを越えそうになっていたのでスピードを緩めて後ろを向く。
「お願いッ! 勝って!」
そこには泣きそう……懇願、いや哀願か、初めて「本心」が剥き出しになった彼女がいた。
瞳は零れそうに揺れながら。
足の回転がどんどんゆっくりに。
彼女は唇を噛み締めた。
そしてバトンがこちらにのばされる。
――
しかし僕に響くものはない。ただ、がらくたのように機械的にバトンを受け取るだけである。
――だけであったのに。
空虚を抱いた無機質なバトンが渡った時、言い知れぬ風が僕を力強く押した。
いいや、今日はほぼ無風であった。だからこれは「風」じゃない。
では、なんだろう、これは。バトンを渡されるのと同時に背中に「羽根」を植え付けられたような。
――――――奇妙――――――
軽いバトンから伝わるには大きすぎる力。僕の中にしっかりと入り込んでくる。
僕の足がしっかりと地を踏みしめた。
狂おしいほどしっかりと。
地球もそれにひどく応える。
踏みしめた足を伝って体全体に龍脈が通ったような。
がらくたは思い切り光の方へ押し出されてしまう。
知っている感覚だ。
――やめろ
次の足がすぐに前にでしゃばる。
――やめてくれ……
こんなに差があるのは僕の求めていたシチュエーションだ。それなのにどうして……この足は、この身体は……。
――僕は何を『感じ』取った??
――僕は何を『思い出した』??
錆びきったがらくたが軋む。意識が消えそうだ。
それでも身体は前に、前に前に――前に進んでいく。
ただ走っている、気がする。コーナーはちゃんと曲がれているか。本当に走っているのか。
夢にでも浸かっているようで状況が全く掴めていない。
目の前には無色透明な靄がかかり、鮮明に視界に広がる情報全て、僕の脳は受け付けない。
――奇妙な感覚だ。
そしていやに冷静な自分が一人内側にいる。この状態でも分析を試みようとしている――そんな自分がいた。
結局、僕は一周を終えていたようだ。
ゴールラインを少し超えて余計に走っていた。
鼓動の音が聞こえる――鼓動の音しか聞こえない。
この眼は校庭の砂の一粒一粒を鮮明に映す。
そしてその砂を押しつぶす雨が数滴降った。
心臓がうるさい。身体の内側が燃えるように熱い。
水色の湿ったはちまきが勝手に解けてそこに落ちる。そこには紐が解けかけているのに――。
『熱』――を持っていた。
――いま、結江楓雪はどうなっている?
誰かが僕の背中に触れている、気がする。
しかし、その感覚はない。
誰かが僕に何かを音をぶつけている、気がする。
しかし、その声は聞こえない。
僕は膝に手を当て、その場で俯いているようだ。
顔を上げると弾ける恒星が僕の瞳孔の奥へ容赦なく飛び込んでくる。
嗚呼、とうとう
なんとか応援席に戻ってこれたが、全ての感覚が戻らない。
いや、感覚は生きている。僕がその感覚の認識を拒絶しているのだ。
「結江!! ××××××××」
「結×××! ×××××××××」
「××!! ××××××××××××××」
ひっきりなしに音が聞こえている、気がする。その意味を把握しようとは僕の脳はしない。
音が、意味のある音が聞こえている、ということを受け止めようとは僕の脳はしない。
ただ、一つの規則的な大きくて煩わしい音は僕の内側から聞こえていた。
僕を震わせ、奮わせ、撼わせ、狂わせる。
「…うるさい」
自然と、否、勝手に僕の口からこぼれた、気がした。
外側の音は聞こえてはいないからうるさいわけがない。
「……うるさい」
もう一度、この言葉しか紡がれない。
では、なにがうるさいのだろう?
……だめだ。ここにはいられない。
席を立ち、校舎の方を目指して走り出す。勝手に奔りだす。
――嗚呼、鼓動がうるさい!
駆けても駆けても情報が更新されない。
世界が止まってしまったように、引き伸ばされていくように。
――ここから逃げるように。
17.
校舎の日陰となる部分まで来て、壁に背を預け、凭れ掛かる。
激しく脈打つ心臓の方を抑える。
「うるさいうるさいうるさい!!」
たった3回しか僕の喉は「うるさい」を言わせてくれない。
『あれぇ! お兄さんはそこでなにをしているの?』
前方には、陽の光を浴びた無邪気な少年が一人――独りで立っていた。
ひまわりのような暴力的な笑みを浮かべて。
陽の光はすべての色を発色するはずなのに少年は黒を基調とした――いいや、黒でできていた。
「っ………」
喉が嗄れきっている。僕の声は「かすれ」に命を奪われた。
『お兄さんのその心臓はどうして動いているの?』
少年はさっきまでは持っていなかった、彼にはあまりにも長すぎる刀の切っ先を僕の胸の真ん中より少し左のところに無邪気に突き立てる。
刃は冷たく、強く僕に押し付けられていた。
『ああもう! ダメじゃないか。お兄さんは「がらくた」であらなきゃ!』
「……ぇ」
漏れ出す声。
黒い煤が舞う。
少年のほうが背丈は小さいから鋭い無機物は下から上に僕を貫いて、朱色の涙がそれを伝って流れていく。
朱の涙は刀の鍔に溜まってみるみる朱い沼ができていく。
水色の団Tシャツが悪魔の笑みのように黒く滲んでいく。溢れる煤は辺りに広がり晦い靄を産む。
僕は胸を抑え、背中を壁に押し付けながら沈んでゆく。
冷たい刃からは想像できないほど熱い『痛み』は電気のように全身に伝わっていく。
身体は『痛み』に咽ぶ。
『ほらぁ!』
イノセント。
今度はさっきより下で猖い始める。
手に持つそれはナイフのように短くなっていて、少年は僕の顔を下から覗いていた。
――
「ああ゛あ゛ッ、あ゛あぁぁ」
『痛み』がモノクロの世界をガラスを叩くように響かせながら彩り始める。
涙が右頬を伝った。そうしてこの世界は僕から眼を閉じた。
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