第19話 ヒーロー
18.
「「カランッ!」」
――校庭の砂の地面にしては、不自然過ぎる甲高い音が、私の狭い視界を、私の稚い幻想を叩き壊した。
白熱の全員リレー。私の走順はアンカーの一つ手前。
……だというのにレースは1位を4つのクラスが鍔競り合う、超大接戦になっている。
ここまで拮抗するとクラス分けは走力で決められてるのでは、と疑いたくなってしまうなぁ……。
でもまあ、5位からのクラスは差が開いているけど。
向こう側でバトンが渡ってからみんなシンクロするようにカーブに差し掛かかっていく。
この団子状態はいつからかというと走順で30後半、37とか38あたりからずっとで、どのクラスもミス一つしないし、奇妙なほど走力がおんなじだ。
校庭はとうとう昂揚より緊張が勝り始めてきた。
そしてこの状況はあんまり私達のクラスにはいいものじゃない……。
練習の時はだいたい5〜6mくらい差はあった……けど最後は抜かされちゃった。
だからここで私が差をつけないと勝てないということになる……。
アンカーの結江くんも確かに速いほうだけど、他のクラスのアンカーの方が多分速い。というか全員リレーのアンカーにはクラスで1番……でなくても2番め3番めあたりの子を持ってくるのが普通なんだけど……。
なんでか麴森が選抜リレーで勝ちにいきたいとか言い張って結江くんに「白羽の矢」を立てちゃうことになっちゃって………。
でも、あの時結江くんが言った「白羽の矢が立つ」。この言い回し知らなかったから勉強にはなったかなぁ……。いや、だからといってやっぱり麴森はおかしい。
なんてことを考えているうちに覇気漂う団子がカーブを曲がってきた。
それに当てられると気を紛らわす余裕さえなくなって。そのくらいの大熱戦。
バトンが近づいてくるにつれて心臓の騒ぎが大きくなっていく。
次第に周りの音、大歓声すら聞こえなくなっていって、ドクンッドクンッと世界が狭く、狭くなっていく………
もしかしたら部活の公式戦より緊張しているかもしれないな……。
「懈怠の矢」ではないけど、バスケなら試合中何本でもパスは来る。でもリレーはこの一回。
クラスみんなの、40人分のバトンが全力で私に向かってきている。
実行委員の合図で2コースに並んだ。並ぶ順番は最後のカーブを曲がり終えたところの順位で内側から並ぶから、どうやら私たちE組は2位らしい。
と言っても、差は無いに等しいくらい競っているから、そんな数字は見掛け倒し。
10m、9m、8m、、
どんどんどんどん近づいてくる。私の胸はこれまで以上に高鳴って、このまま大空にでも飛んで行けてしまいそうな昂揚感、張り裂けそうな緊張感が私を包む。
ほぼ全員が同じタイミングで合図を送った。
ほぼ全員がそれを聞いて同じタイミングでスタートを切る。
バトンパスで差が開いたり縮まったりすることは本番、特に練習で何度もあった。
だからここで最高のバトンパスを決めたい―――そう、欲張ってしまった。
私は練習の時よりも速くギアを上げ始める。
バトンパスする時は、特に受け取る側はスピードを抑えて走らなくちゃいけない。
学校の体育の授業だと「リレーのバトンパスは合図を受けたら全力で加速しなさい」と教わったけど実際そんな事ができるのは陸上部同士くらいだ。
普通の、しかも大して練習をしていない生徒同士がそれをやるのは難易度が高すぎる。
真面目にそれをやっても渡す側が追いつけなくて結局減速するか、バトンをパスできるエリア、テイクオーバーゾーンを超えてしまうのが関の山。
だけど私は行けると踏んだ。というかやるしかない。
コースの途中で抜かすより、バトンパスで抜かすほうが圧倒的に簡単だし、私は足の速さには男子にも負けない自信がある。前に出ればまず抜かされることはない。
((―戦機はここだ!))
テイクオーバーゾーン内で私はトップに出た。
((―いける!!))
バトンが指先に触れる。他のクラスより1歩2歩先でバトンが繋がった。
うまくいった!
――と思った。
「「カランッ」」
金属音が一つ、寂しい音を鳴らす。プツンっと何か、糸が切れたような。
「え?」
背中のほうから戻ってきた私の手の中に、私はバトンを見出せなかった。
バトンは確かに私の手に触れた――触れたけどそこから滑り落ちてしまった……?
時間が止まった気がした。「いま」を理解するまで時は進まなかった。
もしかしたらこの期に及んでコースの上で棒立ちしていたのかも知れない――と思えるほど。
そうか。私はみんなに託されたバトンを、みんが繋いでくれた順位を、全て総て失くしてしまったんだ。
「本末顛倒」
そう、脳内で、己の愚行を、言葉に変換して我に戻る。
私がバトンを落としたから私が拾っても問題はない。そして、幸いにもバトンは私のすぐ後ろに落ちた。
嗤笑のバトンを拾い直してまた1から、いや0から走り始める。
この差、存在し得なかった差は私が埋めなきゃいけない。
全力で、死ぬ気で走る。この足が潰れても……。
なんて、覚悟ならない覚悟を決めても私には埋められる差じゃなかった。
というより既に心がどこか負けていたんだ。
走っても走っても………追いつかない追いつけない。
それもそうだ。私だけじゃない――本気で走っているのは私だけじゃないんだ。
結局、差は全く埋まらないまま、彼にバトンを繋ぐことになってしまった。
「―――――」
色のない彼。そこに独り、冷めたままこちらを見て立っている。
私は彼が苦手だ。何度見つめても話しても彼の色は見えない。
こんな人は初めてだ。
他の人、たとえ初対面の人でも、私に「色」を見してくれるのに。
だからその「色」を頼ってうまくコミュニケーションが取れる。
――けど、彼は色を見せてくれない。
近くでも遠くでもそれは変わらない。彼の色だけが見えない。
だから彼が苦手だ。自分勝手な理由だけど、彼と話す時に限って私は他の人との間には現れない不安と緊張が湧き出てくる。
そんな彼に…………………
「ゴー!」
絞るように出た声。
苦しくて泣きそうだったけど、堪えて。泣きたいのは私じゃないんだ。
彼は相変わらずいつも通りの無表情で淡々と、そして向こうを見て走り出す。
でもバトンが渡せない。最初から全力で走りすぎて、ううん、気持ちの弱さに圧し潰されて、ただでさえ回らなかった足が回らなくなってきてしまった。
何をしているんだろう、私は。
――ああ、待って。せめてバトンを受け取って。
二度もミスは許されない。許せない。
彼も異変に気がついて、チラッとこちらを振り返る、振り返ってくれた。
スピードを少し緩めてくれて、私には重すぎる、軽いバトンを前に突き出す。
――嗚呼、何をしていたんだろう、私は…………。
私のせいなのに、私のせいなのに……。
「お願い! 勝って!」
なんて自分勝手な言葉だ。喉の奥から無理やり引っ張ってきた言葉がこれなんて。
もう台無しの勝負を投げ付けて、私が踏みにじってしまったコースで「勝ち」を拾えと。
でも彼の色は見えない。本当に苦手だ。本心はなんだろう―――憤りを感じている? 困惑している? 逆に差が開いて安堵している? どれもありそうでどれでもなさそう。
私には高度なコミュニーケーション能力はないんだ……。人並み以下なのかも知れない。その事実を毎回突きつけられてしまう。
それでも彼の色は見えない。
少しでもいいから、どんなに強い感情でもいいから見せてほしい。
それが秘められているのものでも「わかる」より「わからない」方が私にはよっぽど怖いから。
嗚呼、こうやっていつも解っているのに自分を守りに、自分だけの不安を解消したがる自分が嫌いだ。この状況も勝手に一人で作っているのに………
多分私の勝手な言葉は届いている。でも、やっぱり色は見えない。本当に心の奥ではどう思っているのだろう。やっぱり色は見えない。
嗚呼嗚呼、こうやって彼の置かれてしまった立場のことより、何度も何度も私のことを、私のことだけを考えてしまう私がやっぱり嫌いだ。今の私は嫌いな色になっている。
そんな無責任な私は彼にバトンを押し付けた。
――その時、一瞬、春の風が吹いた。
――その時、一瞬、懐かしい色が薫った。
何という色かは知らないけど、優しい色だった。
私はそれを見たことある気がした。
そのまま私はコースから出る前に足の力が尽きてしまった。
汗か涙か判別つかないものが地に落ちていく。
――私のせいで負けてしまったんだ……
身体中から力が抜け落ちていく。
疲労とは全く違う感覚。
膝が震えていた。嘲笑うように。
審判の生徒にコースから出るように指示を受ける。顔を翳らせたままコースから出た。
無責任にもレースの方は見られなかった。
――お、おい! なんだあいつ! 水色の!! E組か?
――何あれ! 何あれ! やばくない?
――速すぎるだろ……。誰だよあいつ……。
え?
一瞬浮かんでしまった情けない一縷の希望に釣られて、無責任に終わっていないレースを見てしまった。
しかし、そこに、私が埋められなかった差はなかった。
一人、一人だけ白い風のように駆けている。
最初のカーブを終えたばっかのところで、前の3人を颯爽と抜き去った。
「え……?」
抜かされた3人はみんな同じような、ここまで伝わってきた緊張感が一瞬消えて呆気にとられていた。
3人の顔の向きが右から前へ……綺麗にシンクロしていた。
彼には他に走っている男子のような我武者羅さ、力強さは感じられない。どこか彼特有の冷静さを保ち続けている、なのに一人だけぐんぐんぐんぐん進んでいく。
「「み、水色の……E組………結江くん! 快進撃です! 1位に躍り出ましたァ!」」
放送委員の人も驚きながら途中で声が裏返っていた。
会場からは「おおおお!」と驚嘆と感嘆の歓声が大波のように湧き上がった。
その後も彼は止まらない。どんどん加速しているようにすら見える。
2つ目のカーブで最下位だったC組も抜かした。まさかの周回差。
「ちょっと、あかね! 結江君! 速すぎ!! なにあれ!!」
クラスメートが興奮してキャッキャ言いながら脆くなっていた私の肩をバシバシ叩いてきた。
彼の走りはクラスはおろか、学年、学校全体を魅了している。
あまりにも次元が違いすぎて寒気がするほどだ。まるで一人だけ別の世界にいるような。
思わず笑いそうになる。涙も汗も引いてしまってぞわわと鳥肌が立つ。
そうして、彼は圧倒的な、残酷なほどの差をつけてゴールテープを
そのまま外側に逸れていくように走り続け、3回目のカーブの手前で止まった。
そこで膝に手を当てて俯いている。噎せているようにも見えた。
クラス、学年、学校全体が彼の方を見ていた。
大逆転。しかも、圧倒的大差をつけて1位を勝ち取った。
全員リレーのはずなのに彼一人だけで順位が決まってしまったような。
まさにダークホースだ。だからこそ会場は湧き上がっている。
しかし、その本人はこちらに戻ってこない。地面を見つめ続けている。
しばらくして後続のアンカーたちもゴールして、まだコースに残っていた彼の方へそのまま駆け寄っていく。
「驚愕」「高揚」「興奮」
それらがごちゃごちゃに混ざった色に包まれている。
橙色や黄色、水色に桃色、とにかく色々な明るい色たちがパチパチ弾けては消えて。
また、彼の色が見えた。
今度はとっても危ない色。何色かは分からないけど、とにかく危険な色だ。
さっきとは違って一重の風のようには消えない。
彼から漏れ出すように煙のように色は深く深くなっていく。
周りの明るい色を飲み込むように。
そしてこれも私は一度見たことあるような気がした。
周りにいたアンカーの子たちの様子も変わる。
「不安」「心配」「危惧」「不穏」
彼らの色が控えめになっていく。
「あっ…………」
異変に気がついた
結江くんの背中に手を当て、他のクラスのアンカーたちを先に下がらせてあげていた。
本当は私が行くべきなんだけど、どうしてもあの危険な色に近づけなかった。
――なんて情けないんだろう。
彼はあんなに頑張ったのに。私は……。
結局彼は平田くんに肩を貸してもらいながら私達の後ろに並んだ。
平田くんは只管、大丈夫か? と聞いている。
退場するときも彼の色は変わらない、それどころか強く発色し始めた。
まるで瘴気のようにどんどんどんどん彼を包んでいく。隠していく。
彼は席にぐったりと座った。クラスメートが彼の周りに集まりはしゃいでいる。
他のクラスの人たちも珍しいもの見たさみたいな感じでちらほら来ているけど、E組の生徒たちが厚い壁となっていて、上から覗き見るようにぴょこぴょこしている。
奈御富くんとかは「楓雪!! さすがは俺が見込んだ男ぉお!」とか壁の向こうから叫んでいる。
ただ、いつもなら奈御富くんほどの大物が来ればみんな捌けそうなものだけど、今日だけはそれよりも大きい興奮が、昂揚が、歓喜が、驚嘆が、たった独りを囲んで爆発していた。たった独り全く違う色を発色させながら…………。
なのに私はどうして。やっと
色が見えても話せないんじゃ本当に意味がないよ………。
感謝、せめて「ありがとう」だけでも言わなきゃいけないのに………。
「…うるさい」
クラスの声が、興奮がガラスのように砕け散る。どんどん伝染して空気がすっかり変わってしまう。戸惑いの色だ。
その中に彼はいる。
「……うるさい」
もう一度、彼の危険な色は更に、更に濃くなっていく。
みんな彼の異変に気が付き始めていた。
これはただ疲れているだけじゃない。
これはただ群がられて苛ついているわけじゃない。
見たことのないような虚ろな眼が見えた。
その時、彼は急に立ち上がり、逃げるように走っていく。
冷静さを喪失して、蒼白していた。
「おい! 結江! どうしたんだ!」
――行かなきゃ! 追わなきゃ!
あのまま放っておいたら絶対に彼は危ない。
地面にしつこいほどくっついてしまった靴を引っ剥がして、私を執拗に包む陽光のカーテンを引き裂いて、彼の方へ。
――今度こそ!
なのに、追っているのに、距離はどんどん開いていく。これが結江くんの速さ。本気で走っているのに追いつけそうにない。
そのままのスピードで彼は人混みに紛れていった。
――私は彼を見失ってしまった。
校舎の方に行ったと思うけど、見当たらない。
その時、かすれた小さな呻き声が聞こえた。
中庭を抜けた先、廊下の天井を持つ場所、光の差さない場所で彼は地面に捨てられているように蹲っていた。そんな彼はいつもより小さく見えた。
そしてもう、彼の色は見えなくなっていた。
「結江くん!」
肩を揺する。意外とがっちりした肩だ。
――違和感。
遠くから見ると小柄に見えるけど、いざ目の前にすると意外と背が高かったり、こうやって思ったより体つきが良かったり、見えないのは「色」だけじゃなかったんだ。
私は彼の総てが見えていない。
もしかすれば彼は他の人から見えるべき総てが見えていない?
そう、思えるほどに彼の印象はやたら薄いことに気がついた。
その彼を叫ぶように呼んでも全く反応しない。
ちゃんと息はしている。意識を失っているだけ……。
その時見えた、彼の水色の団Tシャツがところどころ黒に近い赤色に染まっている。
――いつ怪我を…?
しかも服の下から。Tシャツに傷は一つもない。シャツを捲くって傷を確認しないと………なんてことしたら別の問題が起きてしまう気がする。
それに私が見たところでどうしようもないし……。
「波山!」
平田くんが走ってきた。私の結江くんを呼ぶ声頼りに駆けつけてきてくれたのだと思う。
「結江は?」
「なんか気を失っちゃってるみたい」
平田くんは上から覗くようにして倒れている結江くんを見た。
そして結江くんの靴を足元においた。結江くんの足を見やれば白かったはずの靴下が茶色くなっていた。
「―――ああ……息…はしているよな……?」
あの平田くんがかなり動揺、慌てている。そのおかげで私は完全に落ち着きを取り戻すことができたけど。
「うん。息はして……」
と、聞き終える前に私のすぐ隣でしゃがんで、結江くんの胸に耳を当てた。
それがあまりに距離が近かったから私は反射的に少し身を引いてしまった。
「うわわ、ごめん!! わざとじゃない! わざとじゃない!」
それに気づいてしまった平田くんは慌てて私から必要以上に距離をとった。
平田くんにそういう気がなかったのはもちろん解っている。謝っている今でさえ、私より結江くんの方に慌てた感情が振れているのだから。
それはそれでどうなのか、と思ったけど。
「ううん。だいじょぶ。だいじょぶ。なんか慌ててる平田くんが珍しくてちょっと驚いちゃっただけだから……」
とクスっと笑いながら本当は余計な一言を添えてみた。
「え? ああ………い、いや…………ふぅぅ………ごめん取り乱しちゃって。情けないことだけど、こういう不測の事態にはいつもパニックになっちゃうんだよね僕」
今頃羞恥心に駆られている………………。
そして一度深呼吸をして、すぐにいつも通りの平田くんに戻る。
あまりにも速く切り替わるものだから平田くんのどこかにスイッチでもついているんじゃないかなと思ってしまったくらい。
「とりあえず保健室に運ぼう。僕が担架を持ってくる――ああ! 先生には連絡するように頼んであるから……」
そう言って平田くんはまた走っていった。
「うん。ありがとう…」
あ、まだ私は結江くんにお礼を言えていない。
倒れるまで走ってくれた。私の「死ぬ気で走った」なんて酷い嘘だ。
今言ってもいいけどおそらく、というか絶対届かない。
「ありがとう」は相手に届いて初めて「感謝」になる。
その後、平田くんがすぐに担架を持って来てくれて、一緒に結江くんを保健室に運んだ。
そしてその日、最後までE組のヒーローは戻ってこなかった。
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