第2話 新学期②

2.


 桜は散り散りになって無残にも、足跡をつけられるところとなっている。

 自分より上にいるときはあっぱれとか、映えるとか、愛でるくせして自分より下になれば見向きさえせず踏みつける。


 とても諷刺の利いた季節となった。


「なあ、楓雪ふゆきよ。重力って神ではないかと思うのだ」


 なんて思っていたら、急に後ろから話しかけられた。


「なにを言い出すんだ、突然」


 そのとき、僕は体育でもないのに体育着を着て、陸上部でもないのに学校のタータン(チェック模様の方ではない)に並んでいた。

 

 毎年、飽きることもなく行われる体力テストだ。


 どこの機関が生徒の体力のデータを欲しがっているのかは知らないが、こんなやる気のない生徒のデータなぞ取っても、互いに幸せではないだろう……。


 私は幸福追求権を主張します!

 

 ――なんて文句言って、然るべき場所に訴えるほうが骨が折れるので、今日も今日とて参加している。


 そんなことより、幸福追求権は13条だったか19条だったか――条文を思い出しながら、となりのデカブツの噺を聞き流していた。


「褒めているんじゃねぇぜ? 重力に神性が宿る、違うな、神性の由来が重力にあると思うんだ」


 あ、思い出した13条だ。


「ほら、見てみろよ、この踏みつけられて茶色くなった桜の花。こんなのも木に咲いてたときは、愛でられていたんだぜ? いまじゃゴミだ」


 奇遇だな。僕もちょうど同じことをさっき思っていた――が、口には出さない。


「なんで、こうなるか? それは上にいるか、下にいるかの違いだ。つまり、俺たちは物理的に上にいるものを崇め、下にいるものを蔑む傾向にある」

「なるほど」

「それはおそらく重力のせいだと思うんだ。重力があるせいで、俺たちが下に落ちていくことは簡単だが、空に向かって飛ぶことは難しいだろう?」

「なるほど」

「難しいものには希少価値が生まれる。人間には希少性があるものを選り好みするバイアスがある。そして、神はだいたい上のほうにいると描かれがちだ」

「なるほど」

「だからこそ、重力が神の正体だと俺は思うんだな。逆に、重力がない星で文明が始まれば、神というものは生まれないんじゃないか? 生まれたとして、それは俺たちがもつそれとまったく違うものになるんじゃないか?」

「なるほど」

「それでいうと、重力って四つの力のうち、一番弱いからな……、地球の神は弱い部類になるんだろうな」

「なるほど」


 急に僕に話しかけてきては、哲学を説いてきたこの男は奈御富なみとみかいと言う。

 一年の終わり頃から、なぜか色々なところで僕につっかかってくる「厄介者」だ。


「おい、聞いていないだろ」

「長々話していたからな。それだけ話すということは、おもしろい噺だったんだろうなとは思う。だから、おもしろかったと言っておく」

「わけのわからないことを言うな、お前は」


 お前には言われたくないのだが。


「そろそろ俺たちの番だな。まずは50m走からか。タイムでお前に勝つ自信はあるが、念には念をだな。全力で走るぜ」

「奇遇だな。僕は界に勝てる自信は50mのうちの1mもない」


 今から走る50m走は去年、僕が7秒5で、界が6秒台で雲梯の差だった。


「おいおい、最初から勝ちを諦めんなよ。それに、50m以外にもいろいろ種目はあるだろ?」

「いやいや、今年もお前の勝ちでいいよ」


 いや、去年はこの時期には互いに知り合いではなかったから、「今年も」という表現は微妙か。


「もっとやる気出せよ」

「やる気満々だが?」


 これは嘘ではない。しかし体力テストへのやる気というわけではない。

 先に、いったいどこぞの機関がこんなやる気のない生徒の体力データなんてほしいんだと述べたが、この50m走の記録に限っては、5月に開催される体育祭のリレー選手決めで参考にされる。


 そのため、速く走ってしまうと体育祭でリレー選手に抜擢されてしまうかもしれない。

 それは何が何でも避けたい事項だ。だから速く走りすぎるのは禁忌だ。


 とはいえ、わざと手を抜いた――この場合足を抜くというべきか――ことがバレてはならない。体育教師はこの手のことに関してはやたら目聡いからな。


 まあ、仮令、本気で走ったとしても選抜リレーに出られるほどのタイムにはならないと思うが。


 念には念を入れよ――、ということだ。


「よし、帰宅部の意地をこの世界に見してやれ」

「ずいぶん壮大だな」


 前の走者が走り出した。僕は、ラインに立つ前に軽く飛び跳ねておく。

 そして、スタートラインから一足半後ろでしゃがみ、界に僕の足の裏に足を入れてもらうよう頼む。

 これはスタートブロックの代わりという意味だ。


 そして、これらはすべて演技だ。


 本気で走るアピールは抜かり無い。



3.



「何秒だったよ?」


 走り終えたばっかのはずなのに、清々しい顔で界はそそくさ退散していた僕に追いついてきた。


「7秒2だった。久しぶりに走ったからもう少し遅くなると思っていたんだけどな」


 計測ミスな気がするが、「僕はもっと遅いはずだ!」なんて抗議は体育教師の反感を買いそうなので止めておく。


「よし! 俺の勝ちだ! 6秒1だぜ!」


 それは速すぎるのではないか? 100mだったら12秒を切ってしまうだろう。 

 確かに界の運動神経は抜群であるが、だとしても6秒1は速すぎる気がする。ひょっとすると、今年の50m走は挙ってタイムが早く出ているのかも知れない。


「お前何部だっけ?」

「元将棋部だ」

「香車になりたかったのか?」

「成金になっちまうじゃねぇか」


 なんて不毛な会話だろう。これが言葉の交話的機能というやつだろうか。


 その後も界に付き纏われるように半強制的にテストを受け、そしてことごとく負けた。

 悔しくはない。勝つ気もなかったし、勝てる気もしなかった。

 

 体育館履きから上履きに乗り換え、上階の教室に向かう。


「長座体前屈以外俺の勝ちだな」


 とはいえ、2cm差だった。そして、体力テストのスコアは変わらない。


 この身体の柔軟さは人並み以上だというのは僕自身、自覚していた。柔道の授業で最初に柔軟運動をさせられるが、ペアのやつが僕の身体の柔らかさに無駄に驚き、そのせいで無駄にクラスから注目されたのを覚えている。


 そして、実際、スコアも満点の10だ。しかし、まさかこの容貌魁偉とでも形容すべき男がおなじ10で僕と2cmしか変わらないというのは予想外だった。こいつにできないことを探すのは、カリフォルニアの川で砂金を淘げるより難しそうである。


「だからお前の勝ちでいいよって言ったんだ」


 これは単に別に負け惜しみとか、諦念とかではない。

 たしかに、勝ち負けに一切の興奮が沸かない枯れきってしまった、青少年としてはほとほと情けない自分の気質もあるだろうが、それ以上に、この体力お化けを敬ったがゆえの表現だった。


 「同じ土俵に立つことさえ畏れ多いです」という意思表明である。


 しかしそのような意図は伝わっているわけでもなく、界は色を正して言う。


「なあ、楓雪。俺は本気のお前と戦ってみたいんだよ」

「過度な期待を押し付けないでくれよ。僕はあれで精一杯頑張ったんだ」


 言えども界は信じるわけはないだろうが。それが奈御富界という男だ。


「俺にはそうは見えなかった」

「そうか、まあ、物事は多面的だ。別角度から見れば、僕の必死さが伝わったかもしれない。また来年、アングルを変えて見てみてくれ」


 このめんどうな新体力テストもあと一回だ。そう考えると少し寂しい気は……、いっさいしない。やっとなくなった、万々歳だ。


「……いつか。いつか、お前の心に火を灯してやるからな!」

「詩人かお前は」


 なんて捨て台詞を吐いて、界は自分の教室に戻っていった。


 

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