猫々サマータイムマシン 5
自転車用のヘルメットを被り、肘と膝にはプロテクター。もちろんそれらは博士によって改造済みのものであり、元々の用途に加え、タイムマシンを構成する要素の一つとなっている。意味があるのか、尻尾の先にリボンのようなものも付けられた。
跨るのは緑色のスポーツタイプの自転車。これは虎太郎が自分の家から持って来た普段乗っている自転車だ。博士の話だと自転車自体は何でもいいそうだが、馴染みのあるものの方がベターだそうだ。それを聞いて虎太郎はベターってなんだ? と思っただけだったけれど。ちなみに自転車は倒れないように装置に半分固定されている。
「さあ、準備はいいかしら?」
「お、おう!」
虎太郎は少々緊張していた。それもそうだ、だってこれからタイムリープするのだ。ハンドルを握る手も汗ばんでいる。
博士がタイムマシンの入力装置に虎太郎が戻る日付を入力した。
現在の日付と時刻が表示されているデジタル時計のディスプレイの下に入力した時間が表示される。日付はタイムマシンの限度いっぱい、一か月前、八月一日。
「時間は今と同じで良いわね?」
今と同じと言うことは昼前の時間と言うことだ。八月一日のこの時間、自分が何をしていたかは正確には思い出せない。でも、まあ、今年の夏休み中のことだ、たぶん家でだらけていたのだろうと思う。
「大丈夫」
博士は虎太郎の返事を聞くと入力装置を再び操作した。すると今度は装置全体が稼働を始めた。小さな歯車から、大きなシリンダーピストンまで、高低入り混じる多重の機械音で研究室が満たされていく。
嫌でも緊張が高まる中、博士が念押しのように改めて説明をする。
「いい虎太郎? これはタイムリープマシン。過去のあなたに戻るマシンよ。あなたは過去に戻ったらその時の自分になるの。今の記憶を持った状態でもう一度自分をやり直せるってことね。だからタイムトラベルのように過去に戻ったことで過去の自分に出会うなんてことは無いわ」
「うん」
「一度過去に戻ったら、普通に時間を過ごす以外にこの時間に戻って来ることは出来ない。それにもし過去に戻ってまたタイムマシンが使いたくなっても今日この日、九月一日になるまで使えないわ。だってまだ完成していないのだから」
「分かった」
博士は大きく頷き、そして威勢良く言った。
「良し! じゃあ、自転車を漕ぎなさい!」
「お、よ、よっしゃー!」
虎太郎はゆっくりと自転車を漕ぎだした。装置の上に載せているせいか普段自転車を漕ぐ時よりもペダルが重い。
右、左と、ペダルを踏み込む。最初は慣れない足場でふらついたが、スピードが出て来るとそれも安定した。タイヤの下のローラーがギューンと音を立て回転を続ける。
「良し、落ち着いて来たぞ」
虎太郎はそのままスピードを落とさないように力を緩めることなく自転車を漕ぎ続けた。
ローラーからの抵抗もあるせいかそこそこきつい。
しばらくそうしていただろうか。
一向に変わらない状況に虎太郎は自転車を漕いだまま博士に声をかけた。
「は、博士、ま、まだ?」
すると博士から溜息混じりの返事が返って来た。
「いったん止めてちょうだい」
「え?」
漕ぐのを止め足を着いた虎太郎。少し息が荒い。
「な、なんだよ博士? タイムリープするんじゃなかったのかよ?」
もう一度大きく溜息を付いて虎太郎に強い視線を向け博士は言った。
「駄目よ! 駄目! あなた全然駄目!」
「は?」
博士が激しく非難しながら近付いて来た。
「そんなんじゃ全然足りないわ! もっと情熱的に! もっと激しく!」
「はあ?」
「あなたの漕ぎ方じゃ全然足りないって言ってるの!」
ついに博士は目の前までやって来て虎太郎に鼻先を突き合わせた。
「もっと激しく漕ぎなさい! タイムリープなめんじゃないわよ!?」
もの凄い迫力だった。
「……わ、分かりました」
「よろしい」
博士はそう言うと虎太郎から離れて行った。
(こ、こえぇぇぇ……)
虎太郎の鼓動がさっきよりも早くなっていた。それまでの緊張感とは別のものを感じていた。虎太郎も博士のあんなに凄みのある顔を見るのは初めてだったのだ。
(は、博士、なんかめっちゃピリピリしてるな。でも、そっか、それもそうだよな、タイムマシンだもんな。俺もマジで必死にやらないとまた怒られるなこれ)
所定の位置につき振り向いた博士が言う。
「じゃあ良いわね?」
「お、おう!」
「さあ、漕ぎなさい!」
「んんん……!!」
博士の合図と同時に虎太郎は立ち上がりバランスなど気にせず最初からめいっぱいの力で自転車を漕ぎ始めた。
「良いわよ! もっと漕ぎなさい!」
速度がグングン上がっていく。
「その調子よ!」
スピードに乗り自転車が安定しても今度はそこで加速を緩めない。
「そうよ! もっと足を動かして!」
博士が煽る。
「もっとよ!」
ペダルを蹴る。
「もっと!」
蹴る! 蹴る! 蹴る!
立った状態で前傾姿勢になり全力で足を動かす。手を強く握りしめ、歯を食いしばり、虎太郎の顔は真っ赤だ。
ただ自転車を漕ぐことだけを考えて、ただ夏休みに戻ることだけを考えて、他のことは考えないで、必死に漕ぐ!
ローラーがギュンギュン音を立てる。
装置全体の機械音が大きくなる。メーターの針が限界値を指し示す。
尻尾のリボンが煌めき、やがて虎太郎の体が光に包まれ始めた。
「もっと!」
「ぅぉおおお……!」
「夏休みに戻るんでしょ!?」
「戻るうぅぅぅ……!」
「じゃあもっと漕ぎなさい!」
「ぬあああぁ……!」
光が次第に強く大きくなっていく。
「んんんんん! ぅうあああああ!」
そして絶叫がこだまし、回転数が最高に達した次の瞬間、一際大きく発光したかと思うと、自転車の上から虎太郎は姿を消していた。
虎太郎が付けていたヘルメットとプロテクターが地面に落ちた。ローラー台の上では乗り手を失った自転車がふらつきながら空回りをしている。
一人残された博士だけがそれらを見ていた。
「成功ね……」
ふらついた自転車がついにバランスを崩し斜めになり止まった。
「本当に行ったのね……」
研究室の中はほんのさっきまでの騒々しさが嘘のように静かになっていた。
夕凪のようなその静寂の中で、博士は小さく呟いた。
「虎太郎、ごめんなさい」
一瞬、自転車が前に向け走り出したのかと思った。ローラー台から飛び出しガレージのシャッターに向かって。だけど違うことはすぐに分かった。いつまでたっても何処にも、何にもぶつからなかったからだ。それどころかそれまであったはずのペダルを蹴る時に感じていた抵抗力も感じなくなっていた。
気が付けば目の前は光。その中で眩しい蝶が飛んでいる。尻尾につけたリボンのような形をしていた。
今自分が光のトンネルを導かれ飛んでいるのだと分かったのは、トンネルの向こうの景色が次第に近付いていることに気が付いたからだ。
景色はまるで自分に衝突するように際限なく大きくなって迫って来る。
衝突に備えて身構えようとするも体は動かなかった。
やがて景色は、蝶を、光を、そして虎太郎を飲み込んだ。
全て一瞬の出来事。
その一瞬の出来事のあと、虎太郎はまた自転車に乗っていた。
「なあああああああ!」
失っていた感覚が急に戻って来る。しかし一瞬間の喪失の代償は大きかった。
真夏の田園風景の中を虎太郎は制御を失った自転車で疾走した。
「う、うわあああ!」
目の前に迫る田んぼ。もちろん回避することなど出来ない。ただ一直線。
そしてそのまま虎太郎は盛大に田んぼに突っ込んだ。
勢い余って自転車から放り出された彼は田んぼの泥の中に転がるように仰向けになった。
放心状態だった。
それから少しづつ少しづつ自分の状態を認識していく。
心臓の鼓動が速かった。呼吸が荒かった。手も足も震えていた。
何となく顔や体を触ってみる。生きていることを確認したかったのかも知れない。
そこで気が付いた。
目の前の空に。
「夏だ」
そこにあったのは夏の空だった。
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