お魚二匹
その日の朝は何だか早く目が覚めた。
伸びをして体をひねる。体の調子は悪くなさそうだ。鱗も艶良く煌めいている。
あくびをすると口からポコリと泡が出た。
泡は表面に眠たそうな魚の顔を映して遠ざかって行く。
ぼんやりそれを眺めているとどこかから名前を呼ばれた。
「しょうちゃん」
僕は声のした方を仰ぎ見た。
「たっちゃん」
たっちゃんは僕より一回り大きな体を揺すりながらこちらにやって来た。
「今日は水があたたかい。春が来るぞ」
嬉しそうに言う。どこかそわそわしているみたいだ。
「春……」
僕はまだ春を知らない。
「行こう!」
「行くってどこへ?」
「氷の様子を見に行くのさ」
待ちきれない様子のたっちゃんは、言うなりスルリと体の向きを変えて泳ぎ始めた。
「あ、ま、待って」
たっちゃんを追って僕も慌てて泳ぎ出した。
たっちゃんの泳ぎは早い。いつも僕は置いて行かれないように必死だ。
僕にとってたっちゃんは兄のような存在で、物心がついた頃にはもうその背中を追いかけていた。実際に一年の歳の差もある。
それに長い冬の初めに生まれた僕は、たっちゃんとは違い、まだ氷の張った冷たい水の中の世界しか知らなかった。
「見ろ、流れがいつもより早い」
前を行くたっちゃんが言った。
返事ができない僕は心の中で思う。
(分かってるよ、だから追いかけるのが大変なんだ)
正面から虫が体をよじりながら流されて来て、僕の体の横をすり抜けて行った。
「あたたかい水が混ざっているんだ。もう氷が融けているのかもしれない」
たっちゃんは泳ぎながら僕を振り向いた。その顔はキラキラと輝いている。
冬の間いつも聞かされていた。
『春になると氷が融けて空への道ができるんだ。今度こそ俺はそれを昇って空に行くんだ』
水の中の世界とは違い空は無限に広がっていてどこまででも行けるのだと言う。
そこはたっちゃんの憧れでもあった。
あるところからたっちゃんは水面に向かって上昇を始めた。僕もそれに倣って上を目指す。
水面に近付く程、辺りが明るくなっていく。
影を落として少し先でたっちゃんが待っていた。
「ちぇ、ここはまだ氷だ」
僕が追いつくとたっちゃんはつまらなそうに言った。
たっちゃんの上には一面の氷の天井があった。
透き通る光が揺れている。
水の底よりも冷えた、身を裂くような冷たさの中、僕は思わず呟いた。
「きれい……」
気まぐれに揺れ輝く氷の天井、時折どこからか昇ってくる泡がぶつかり留まって、それがまた向こうからの光を不規則に揺らして煌めいている。
僕の口から洩れた空気が気泡にぶつかると、また光の具合が変わった。
しばらく僕はその煌めきに心を奪われたように見入っていた。
突然、視界が揺れた。
強い振動が水の中を伝わって来たのだ。
我に返った僕は辺りを見渡した。少し離れたところでたっちゃんが呼んでいた。
「見に行ってみよう!」
その表情からはさっきまでの退屈そうな気配は消えていた。
たっちゃんは振動のしてきた方を向くと迷いなく水を蹴って泳ぎ出した。
「たっちゃん……!」
声が少し震えていた。それは伝わってきた振動によるものか、それとも得体のしれないものに対する恐怖や不安なのか、正直自分では分からなかった。それでも僕はすぐさま後を追った。置いて行かれるのは嫌だった。
水の中はさざめき立っていた。水中の皆が何かが起きたであろう場所から離れるように動いている。たっちゃんと僕だけがその流れに逆らって泳いでいた。
やがて振動の中心らしき場所に近付いて来ると何かがぼんやり見えてきた。
それは水の底から水面へ向けて立っている白い柱のように見えた。
さらに近付くと白い柱は立ち昇る細かい泡の集合だと分かった。
「これ、何?」
僕が問うとたっちゃんは言った。
「あっちだ。この泡の始まりまで行ってみよう」
それからたっちゃんと僕はその泡の柱の根本へと向かった。
少しして、薄ら闇の中にそれは姿を現した。
「雪だ。雪の塊が落ちて来たんだ」
「雪……」
そこにあったのは大きな雪の塊だった。雪は融け崩れ、中に蓄えていた空気を次々吐き出し続けていた。それが水面へ向け立ち昇り白い柱のようになっていたのだ。
「僕、こんなに大きい雪見たの初めてだ」
鼻先で雪を突くと、そこがホロリと崩れて気泡が吐き出される。
「ねえ、雪って冷たいね、……たっちゃん?」
たっちゃんは泡の昇って行く先を真剣な顔で見据えていた。
「雪がここにあるってことは……」
たっちゃんはまた勢いよく泳ぎ出した。今度は白い泡の柱の先、水面へと向かって。
僕は訳も分からず、それでも半ば反射的にたっちゃんを追いかけた。
「たっちゃん……!」
追わなければきっと置いて行かれてしまう。いつもどこかでそう思っていた。たっちゃんには何かそう思わせるものがあった。けれど追いかければ自分なら追いつけると、そんな風にも思っていた。
僕は夢中でたっちゃんを追った。いつの間にか体は泡の柱の中に入っていて、普通に泳ぐよりも上昇の勢いが増していた。
泡に包まれているせいか追いかける背中は見えない。それでも体はぐんぐん上昇して行く。目の前の光が強く大きくなって行く。
眩しい……!
いよいよそう思った次の瞬間、目の前に一際強い光が広がった。
一面の真っ白な世界。
深く、静かで、とても冷たい。
気が付くと僕は水の中から飛び出していた。
(たっちゃん……!)
呼吸が上手く出来ない。目が痛い。声が響かない。
一瞬の間、僕は必死にたっちゃんを探した。
白い世界の中に僕はその姿を捉えた。たっちゃんは何かを見ていた。
その視線の先を見ると、そこには空に伸びる凍った白い道があった。
しかしそれを見た次の瞬間、僕は再び水の中の世界へと戻って来ていた。着水したようだった。
「見たか! あれが空への道だぞ!」
水の中に戻って来るなりたっちゃんは興奮した様子で僕に言った。
「あれを春になったら昇ってやるんだ!」
言葉が出てこなかった、けれど何とか返事をした。
「うん……」
だけどきっと僕はたっちゃんとは違う気持ちを抱いていた。
水の外の世界は聞いていたものと違った。とても冷たく苦しい場所だった。それに最後に見えた高い壁のような凍った道。本当にそれを昇ると言うのか。そして天井も見えない深い空へ行くと言うのか。
僕は初めてたっちゃんとの間に埋められない大きな溝を感じていた。
これからも今までと同じように、たっちゃんを追いかけることなど自分には出来るのだろうか。
漠然とした不安と、それに根差した別れの予感が芽生えていた。
春はもうそこまで来ている。
僕にとっての初めての春が。
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