サンダーボルト棘ネズミ 2

 翌朝。

 変な夢を見ていたような気がする、なんて思いながら棘太とげたはぼんやりとした意識の中、聞こえて来る音を聞いていた。

 クツクツと鍋の中でお湯が踊る、そこにさいの目に切った豆腐がポタポタと入れられる、そんな音だった。

 料理をしている? 誰が?

 半分寝ぼけたままやっと上体を起しその正体を視認する。

 見えたのはエプロンを着けキッチンに立つハダカデバネズミ。


「あ? やっと目が覚めたか?」


 ハッキリ聞こえたその太い声に棘太は深い溜息と共に大きく項垂れた。


「夢じゃなかったのか……」


 昨日の夜は日々の疲れと元々の落ち込み、それと混乱のせいもあってすぐに寝入ってしまった。現実逃避気味でもあったが案外図太い自分の神経を発見した夜だった。


「おいおい、何だ何だ、朝から溜息か? 辛気くせーな」

「お前のせいだろ」


 昨晩眠りに落ちる直前まで続いたのはおっさんの『自分は無害です』アピール。他人の家に上がり込んでいる後ろめたさが多少でもあったのだろうか。でもだからと言って、猫が好きでお花屋さんが好きでちょっとした記念日に可愛いケーキを買うことが一体何の補償になるのか。むしろ気持ちが悪い。


「俺のせいか? そりゃすまねーな」


 低血圧とおっさんの笑い声が棘太の肩に圧し掛かる。


「はあ、あ、お前それ、何勝手に着けてんだよ」


 おっさんは棘太がアルバイト先の店で使っているエプロンをしていた。


「似合うだろ」

「似合わねえ脱げ」

「いいじゃねえか減るもんじゃねえだろ?」

「何か変な汁とか着きそうで嫌なんだよ。まあどうせ洗濯するつもりで持って帰って来たんだけど」

「ああ、だからか、何かくせーと思ったぜ」

「そう思っといてよく着けるな」

「小さいことは気にしない性質でな。それよかほら、飯だぞ、机あけろ」


 確かにさっきからいい匂いが棘太の鼻腔と胃袋をくすぐっていた。空腹も手伝って言われるがまま机をあける。

 おっさんは、おっさんとは思えない手際で食卓の準備を整えた。ご飯味噌汁卵焼き。きゅうりの浅漬けまで用意されている。それと何処で摘んで来たのか空き瓶に花を一輪。小さな白い花弁が可憐だ。あっという間に棘太の目の前に文句のつけようのない食卓が完成した。

 棘太が呆然と呟く。


「何なの?」

「家事ぐらいはするって言ったろ」


 棘太は食卓に着くもすぐに朝食に手を付けるのをためらった。何せ知らんおっさんが作った料理だ。しかしそんな迷いの壁はいとも簡単に崩れ去っていく。官能的なまでの卵焼きの誘惑に抗う事など出来なかったのだ。生唾を飲みながら恐る恐る箸を伸ばす。一口大に丁寧に切り分けられた卵焼き。箸で掴むとまずその繊細さに驚いた。絶妙な弾力、今にも零れ落ちそうな柔らかな卵の塊を外側の薄い層が支えていた。少し力を入れれば内側から優しい弾力が箸を押し返してくる。それを慎重に零さぬように口に運ぶ。口に入れほんの少し噛んだ瞬間、口の中で起こった黄身色のビッグバンが味の宇宙を創り出した。

 棘太の頬を一筋の涙が伝う。


「本当に……何なの……」

「さっさと食え」


 おっさんは棘太のリアクションには無反応にそう言うと朝食をかきこみ始めた。

 最初の躊躇いなど嘘のように棘太も食べ始める。

 無言の、だけど充実した二人の朝食の時間が過ぎて行った。




「ああ、食ったあ……」


 朝食を残さず食べた棘太は満足そうに仰向けに倒れ込んだ。朝からこんなに食べたのは久しぶりだった。思わずおかわりまでしてしまった。昨日の早寝のおかげか今朝は時間にも余裕がある。

 一方おっさんはこれまたテキパキと片付けながら言う。


「カモミールティー要るか?」

「……要る」


 キッチンでお茶を入れるおっさんの後ろ姿に棘太は「なあ」と話しかけた。


「何だ?」

「あんた本当に何なんだよ?」

「だから昨日言っただろ」

「妖怪、毛取りじじぃ、だっけ」

「ああ」

「いや、そう言う事じゃなくてさ、ああ、まあ、百歩譲ってそれが本当だとしても、何でここに居るんだよ。何で俺んちなんだ」


 おっさんはカモミールティーを机に置くと棘太の向かいに胡坐をかいて座った。棘

太も合わせて起き上がる。

 おっさんは真剣な表情で一点を見つめていた。その先には一輪挿しの花。

 棘太も思わず花を見てしまう。


「花? この花がどうかしたのか」


 おっさんがゆっくりと口を開く。


「どうしてここに来たのかわからん。ちなみに花は関係ない。綺麗だなって思っていただけだ」


 花の下りにちょっとカチンときた。


「ああ? お前自分でここに来たんじゃねーのかよ? 昨日だってさも当然のようにここに居たじゃねーか」

「気が付いたらここに居ただけだ。好き好んでここに来たわけじゃない。俺も何でここに居たかわからねえ。ただ一つわかったこともある」

「何だよ」

「生まれたての赤ん坊が何で泣くかだ。ありゃあ不機嫌なんだ。俺は昨日とにかく不機嫌だった。それもそうだろ、訳のわからん状況で、ストレス受けまくってんだからな。俺は赤ん坊と一緒だ」


 気持ちが悪い。


「お前は生まれたてじゃねーだろ」

「いや、妖怪のスパンで考えれば生まれたてなのかもしれない」

「うるせえ」

「とにかくだ、俺も自分のことがわからねーんだ。わかったら出て行ってやるから、それまでよろしく頼むよ。お前しか頼れる奴が居ねえんだ」


 そう頭を下げるおっさん。

 棘太は意外に丁寧に頼まれて逆に困惑した。


「いや、そりゃ、いきなり追い出すのも気が引けるけどよ」


 普段の棘太ならば気が引けるどころの話ではなかったはずだ。いきなり自分の家に上がり込んでいた不審者、しかも妖怪だとか訳の分からない話ばかりする変態ハダカデバネズミ。申し出を受けるどこらか、まともに話すらしないはずだ。返答を迷うこと自体おかしいのだ。それが何故か不思議なほどこのおっさんの存在を受け入れてしまっている。それが本当はおかしいのだ。しかしそのことに棘太自身は気が付いていなかった。棘太はおっさんの存在を拒絶もしないで無意識に認めそして迷っているのだ。


「でもさ、見ず知らずのおっさんを、しかも突然現れた自称妖怪を自分の部屋に置くってどうなの? その上記憶喪失? 記憶戻らなかったどうすんの? ずっとここに住むのか? お前の介護なんかできねーぞ」


 おっさんは下を向き何かを探し始めた。棘太の言葉に返事は無い。


「大体お前の正体って妖怪なんだろ、じゃあそれでいいんじゃんか、山とかに帰れば?」


 引き続きおっさんは床に散らばった何かを拾い集めていた。片手でつまんではもう片方の手のひらに乗せている。


「え? てか待って、じゃあ何? あれ? もしかして俺、憑りつかれてる的なこと?」


 おっさんは集めた何かを見て満足げに頷いた。


「それは嫌だな、嫌すぎるな……っておらあ! 聞けよ! 人の話を聞け!」

「お、すまねえ夢中になってた」

「え、何? 何やってんの?」


 おっさんは棘太に拾った物を見せた。


「俺のアイデンティティなもんでね」


 床に落ちていた抜け毛だった。


「ガチでキモイわ!」

「ははは、おじさん傷付いちゃうよ」


 棘太はまた深い溜息を吐き時計に目をやった。


「やべ、時間だ。俺バイト行くから」

「おい棘太」


 立ち上がった棘太におっさんが言う。


「洗い物はやっておいて。俺洗剤で手荒れちゃうから」

「女子か!」


 あれ? 名前、教えただろうか? 一瞬頭をよぎった些細な疑問はおっさんに対するイラつきと出勤時間に向けて流れる存外早い朝の時間の波にさらわれて消えて行った。




 漫画家。それが棘太の夢だった。小さな憧れから始まったそれはいつしか具体性を帯びて現実の目標にもなっていた。だけど今もまだ芽が出ないまま学生の頃から続けている喫茶店でのアルバイトをしている。


「昨日はすみませんでした」


 開店準備を終えた棘太は改めて店長に謝った。

 棘太の働く喫茶店は小規模なため仕込みは店長と二人だけだ。今は朝の準備も終わり開店前の時間、カウンター席でその日の珈琲の味見も兼ねて小休憩を取っている。


「ん? ああ、まあいい」


 店長は棘太の方を見ずに珈琲を口に含んだ。元々切れ長の目がさらに細められる。どうやら今日の珈琲の出来は悪くないらしい。初老に差し掛かるハリネズミの店長は細身で小さな眼鏡をかけていていかにも喫茶店の頑固な店長と言った雰囲気を醸し出している。しかし実際は面倒見も良くアルバイトに対する理解もある。棘太の現状を理解し応援してくれている数少ない存在の一人でもある。


「あんまり無理するなよ」

「はい」


 漫画家になるのが夢だが、お世話になっている店長に迷惑はかけたくない。できればいい報告もしたい。それが棘太の正直な気持ちだった。




 小休憩が終わり、開店直前、バックヤードで予備のエプロンを着けて店内に戻って来た棘太は驚いた。


「よう」


 おっさんがカウンター席で珈琲を飲んでいた。


「何でいんだよ!」


 突っ込んでからしまったと思った。おっさんの姿は棘太にしか見えていないはずだからだ。


「ん? 何だ知り合いか?」


 しかし店長にはおっさんの姿が見えているようだった。そう言えば普通に珈琲を飲んでいる。


「え? あ、いや、知り合いと言うか何と言うか、ああ、親戚です親戚のおっさんです」


 咄嗟に誤魔化した。店長になら昨日の出来事をそのまま話してもいいと思ったがどうなるかわからない。心配させる結果になってしまうかもしれない。


「店長、あの、そこにおっさん居ますよね?」

「ん、ああ、何言ってんだ?」

「いえ」

「いつもうちの棘太がお世話になってます」


 おっさんがしゃあしゃあと言い、店長が会釈をする。そして棘太が表情を歪める。


「てめえ、余計なことを……!」

「しかし綺麗な店ですな。毛一つ落ちてない」

「すみませんがおじさん、店の迷惑になるんで早めに帰って頂いてよろしいですかね?」


 しかし棘太の牽制には全くひるむことのないおっさん。

 結局おっさんは昼近くまでそこに居座って珈琲を飲んでいた。




「おはようございます」


 次のシフトのアルバイトが出勤して来た時、おっさんがやっと席を立った。


「さて、そろそろ帰るかね」


 店長のいる手前棘太は何も言わなかったが、表情にはさっさと帰れとはっきり書いてあった。

 後輩がおっさんとすれ違いざまカウンター席を見て言った。


「あれ? 先輩片付け忘れてますよ」


 どうやら後輩にはおっさんの姿が見えていないようだった。

 訝しんで棘太がおっさんの方を見ると入口の近くで店長と会釈を交わしていた。




 アルバイト終わり夕方の駅前におっさん。ガードレールに寄りかかり道行く人を見ているようだった。


「何やってんだ、てか、店に来るなよ」


 棘太は小さく文句を言いおっさんの隣で同じ方を向いてガードレールに寄りかかる。


「いいじゃねえか、俺にはお前の所以外行くあてなんてねえんだからよ」


 一応おっさんの姿は誰にも見えてない体で喋る。


「家に居ればいいだろ、店来んな。つーか店の場所いつ調べたんだよ」

「んなこたどうでも良いだろ、おい、それより見ろよ」


 おっさんは駅から出てくるサラリーマンを指さした。


「あいつヅラだぜ」


 おっさんの言う通りサラリーマンは風に吹かれた頭を妙に気にしていた。


「それにあいつも相当盛ってるな」


 おっさんの指さす先には不自然な程頭が盛り上がったマダムがいた。


「いいだろ別に」


 だから何だと言う話だ。


「何だよ、もっと驚いてくれてもいいだろ、俺の特技だぜ」

「へーへー、ほら、さっさと帰るぞ」

「何だ? 帰っていいのか? 俺を受け入れてくれたのか?」

「だからどうせ行くとこねーんだろ」

「優しい、好きになっちゃう」

「気持ちわりーんだよ」


 こうして二人は帰路に着いた。




 家に帰って来て棘太は習慣のまま机に向かった。しかし何をする訳でもなくぼんやりと中空を見つめ溜息を吐いた。


「疲れた」


 棘太の机には漫画を描くための道具がそろっている。型落ちしたパソコンとペンタブレット、絵を描くための資料、机を中心に部屋を見回してみれば、漫画漫画。漫画を描くために作られたような部屋だった。しかし今タブレットの上には求人情報誌が置かれている。それが部屋の機能すべてに蓋をしているかのようだった。


「なあ、おい」


 おっさんが棘太に話しかけた。

 振り返るとおっさんは紙の束を持っていた。


「これ見てもいいか」


 それは棘太が描いた原稿だった。


「おま、何勝手に見てんだよ!」


 棘太はおっさんに飛び掛かった。

 しかしおっさんは軽くそれを躱す。


「いや、だからまだ見てねーよ。見て良いかって聞いてんだけど」

「駄目だ」

「いいじゃねえか」

「何で見るんだよ」

「これお前が描いたんだろ、ここにすげえあったし」


 おっさんは押入れの中を指差した。


「見たのか?」

「ちらっとな、中身は読んでないぜ。こう見えても俺はデリカシーのある方だからな」

「どの口が言ってんだ」

「なあいいだろ。どうせ人に見せる為に描いたんだろ」


 確かにそれはその通りだ。


「……つまんねーぞ」

「よっしゃ、じゃあ読むぞ。……あれは、嵐の日だった」

「音読はやめろ」


 漫画を読み始めたおっさんの姿は真剣で棘太は何も言えなかった。


 しばらくして読み終えたおっさんが開口一番に言った。


「確かにつまんねえな」


 わかってはいても心をえぐる言葉だ。


「だから言っただろ」


 だけどおっさんの感想はそれだけではなかった。


「だが、何か来るものがあるな。こう、熱い、何だろうな、下手だが情熱は感じる」


 自分の漫画をそんな風に褒められたことは初めてだった。


「何か元気出たぜ」


 おっさんはそう言って気持ち悪い顔で笑った。


「お、お前に漫画の、何がわかるんだよ」


 言葉とは裏腹におっさんから隠した棘太の顔には明るさが差していた。




 その夜、おっさんが床に転がっていびきをかき始めた頃、棘太はまだ机に向かっていた。棘太の頭にはおっさんの感想が繰り返し響いていた。棘太は机の上の求人情報誌をどかすとパソコンの電源を入れた。

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