サンダーボルト棘ネズミ

 静かな夜、時代錯誤のボロアパート、二階の一室の窓に映る月が微かに揺れた。

 間隔を開けもう一度。月ではなくガラスが揺れていた。空気を震わす音か、地を伝う振動か、ガラスの震えは小刻みに始まり一定間隔ごとにやがてバリバリと大きくなっていった。


 窓に明かりが灯り震える月が消える。今度はそこに屋内から近付く影が映り、すぐに窓が内側から開けられ影の主ハリネズミの青年が顔を出した。

 夜の虚空を見上げた彼の顔に驚愕の表情が浮かぶ。


「な、何だあれ……」


 視線の先には民家の屋根を悠に越える程の巨大な怪物が黒い靄を纏い、一歩また一歩と町を震わせながら進んでいた。


 怪物から吹き下ろす風が真っ直ぐに街を抜け容赦なく彼のトゲトゲの毛にぶつかり部屋に吹き込む。

 呆然とする彼の背後、部屋の中では渦を巻く風に何枚もの紙が散らばった。その紙にはどれも下手くそな漫画が描かれていた。




 始まりは数日前に遡る。

 客もまばらな午後の喫茶店、黒いエプロンを着けた店員が珈琲を乗せたトレンチを片手にテーブル席に給仕に向かう。若い男性なのだが、眉毛を隠すくらいヘタレた毛と目の下にある疲れを貼り付けたようなクマのせいか妙に生気を感じない。針山棘太はりやまとげた。この店でアルバイトをしているハリネズミだ。


「お待たせしました」


 彼が珈琲をテーブルに置くと女性客が怪訝な表情で顔を上げた。


「あの、私が頼んだものと違うんですが」

「え、あ、すみません」


 確認すると伝票には別のテーブルの番号が書かれていた。頭を下げ慌てて正しい方のテーブルに向かう。


「た、大変お待たせしました」


 運び直したテーブルでは男性客が漫画雑誌を読んでいた。

 珈琲をテーブルに置こうとした瞬間、その漫画雑誌が棘太の視界に入る。彼の動きが一瞬止まってしまう。反動で持っていたカップがカタンと小さな音を立て倒れ、珈琲が男性客の服にかかる。


「熱っ!」

「あ! すみません!」


 そこに別の声。


「すみませんお客様大変申し訳ありません!」


 一部始終をこっそり見ていた店長が飛び出してきてカバーに入ったのだ。


「すみません……」


 棘太が力無く頭を下げる。


「いいから!」


 この日店長は棘太の様子を気にしていた。と言うのも彼の失敗はこれだけではなかったからだ。お使いを頼まれれば忘れ、注文を取れば間違え、洗い物をすれば過去最高枚数の皿を割った。要するに警戒に値するくらい絶不調だったのだ。


 しばらくして客対応を終えた店長は棘太をバックヤードに呼び出した。


「針山君、今日はもう帰っていいよ。何があったのか知らないけど、そんな状態で仕事されても君も危ないしうちも困るから。今日はそんなに忙しくないからとりあえず上がって、明日もシフト入ってるから、明日に備えて早めに休んで」

「本当にすみません……」


 謝る棘太の姿は初老の店長と比べてみても老け込んで見えた。

 店長が戻った後も彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。


「あの、先輩大丈夫ですか?」


 アルバイトの後輩が様子を見に顔を出した。


「ああ、うん大丈夫」


 棘太の醸し出す暗い雰囲気は誰が見ても全然大丈夫そうではなかった。


「だ、駄目そうっすね」


 そんな反応に対して棘太の口から潤いなんかちっともない笑い声が微かに漏れた。




 早上がりした棘太はまだ明るい公園のベンチで一人呟いた。


「こうしているとリストラされたみたいだなあ、はは」


 しかしその姿は良くて浪人生であった。さらに曲がった背と目の下のくまとショボくれた毛が、ノイローゼ気味の、と言う形容詞を付け加える。

 冷たい風が落ち葉を申し訳程度に舞い上げた。


「あー、駄目だ、何か涙出てきた」


 空を向くと瞳が光を乱反射させ何にもない青空がキラキラと輝いた。


「きっついなあ、今回はきついなあ。いや、いやいやいや待てよ、見間違えかもしれない、もう一回確かめてみようかな」


 弱っているせいか出て来た希望的観測気味な独り言。

 棘太はその言葉通り鞄から雑誌を取り出した。喫茶店で男性客が読んでいたものと同じ漫画雑誌だった。

 そして一発で開いたページは新人賞の結果が載っているページだった。しかしもちろんそこに棘太のペンネームは無い。


「あー、もう、あー……」


 独り言すら形を成さなくなった棘太は力なく項垂れた。

 そんな彼の顔を何処からかやって来た子供が覗き込む。


「ねえ、ママ、この人泣いてるよ」

「こら! おほほほほ、すみませんねえ」


 母親がすぐさま子供を抱え離れて行き、あちらでママ友らしき人たちとひそひそと話を始める。時折こちらに視線を向けるから、話題は棘太のことらしい。


「くそお何だよこれベタだな」


 バツが悪くなった棘太は腰を上げた。

 ちょうどその時彼の携帯が鳴った。


『あんたちょっと大丈夫なの?』 


 そう言った電話口の声は棘太の幼馴染の針音はりねからだった。




「で、何がどうしたのよ」


 棘太の正面に座った針音は頬杖をつき不機嫌そうに目を細めた。

 彼女は喫茶店で店長から彼のことを聞き、こうして心配して連絡をくれたのだった。

 合流した二人は公園の近くのファミレスに来ていた。


「いや、まあ、ちょっと……」


 棘太の煮え切らない態度を見て、「はあっ」と針音が溜息を吐く。


「どうせまた落選したんでしょ」


 事もなげに彼女が切り出す。


「ど、どうせまたって……」

「いつものことじゃない」

「い、いや、今回は、今回は行けると思ってたんだよ。時間もかけたし。その分、何か、力が抜けたって言うか、期待してた分何やってたんだろうって思ったって言うか……」

「ふーん、それで?」

「俺、やっぱり才能無いのかなって……」

「何言ってんの? 才能なんか初めから無いことわかってたじゃない」

「でもさ、何回描いても本当駄目だしさ……」

「もっと描けばいいじゃない」

「もっとって言ってもそう簡単に……」

「新しいの描いてるんでしょ?」

「いやそれが」

「ん?」

「……今、ちょっと休んでる。疲れたって言うかやる気がなくなったって言うか」


 針音はムスッと黙り込んだ。


「バイトも失敗ばっかりで上手くいかないし。どうしたらいいかわからないって言うか、あんなに頑張っても、駄目だったし、もう、あきらめた方がいいのかなって、ほら、生活してかなきゃならないし」

「はあ!?」


 針音は大きく息を吸い込んで、そして言葉と共に吐き出した。


「バッカじゃないの!?」


 針音はそう言うと勢い任せに立ち上がった。毛が心なしか怒りで膨らんでいるようだった。

 棘太の顔をキッと睨む彼女。気の強さをそのまま形にしたような大きな瞳が眼光を増した。

 射竦められた棘太は慎重に次に発する言葉を選ぶ。そして今にも破裂しそうな風船に触れるかのように、そっと選んだ言葉を発した。


「お、怒ってる?」


 失敗だった。


「帰る!」

「ちょ、ちょっと待って……」


 追いすがる棘太の顔を、針音のバックが張り飛ばした。瞬間、店内の空気が固まる。


「知らない!」


 針音はそのまま振り返ることなく一直線に店を出て行った。

 頬を押さえた棘太は、ふと向かいの席の家族がこちらを見ていることに気が付いた。目が合うと父親も母親も兄も妹も一様に皆目をそらした。

 それを合図にしたように店内の空気が再び動き出す。


「は、はは、は……」


 棘太はもう上手く笑えなかった。




 肩を落とし背を何時も以上に丸めて、アパートの二階の部屋へと向かう。安普請の階段がやけに音を鳴らす。


「はあ」


 色の禿げたネズミのキャラクターのキーホルダーが付いた鍵を手に自分の部屋の前で溜息を吐く。棘太には玄関のドアでさえいつも以上に重く見えた。


「これが未来への鍵なら、このドアの向こうには何が待ってるんだろうな」


 訳の分からないことを口にする。落ち込んでいる棘太の独り言はポエミーになりがちだった。しかし開けたドアの向こうにはそんなポエミーな気分を掻き消すようなものが待っていた。


 ドアを開けた先、棘太の目に映ったのはいつもの汚い六畳間と知らないハダカデバネズミのおっさんだった。

 おっさんは六畳間の真ん中に鎮座していた。玄関に背を向け悠然と胡坐をかいている。そのおっさんがドアが開いたことに気が付いてゆっくりと振り向いた。そして不機嫌そうに声を発する。


「あぁ?」


 棘太の脳がやっとその存在を認識して心臓を跳ね上げる。


「すみませんでした間違えました!」


 まず疑ったのは自分だった。速攻でドアを閉め部屋の番号を確認する。


「201、あってる」


 間違っているはずはない。つい今さっき鍵を使ってドアを開けたのは棘太自身だ。

 恐る恐るもう一度ドアを開ける。やっぱりハダカデバネズミのおっさんがいる。今度はこちらを向いて胡坐をかいている。

 おっさんはハダカデバネズミだ。だから禿げている。しかし良く見ると頭頂部に一本しぶとそうな毛が生えていた。そんなおっさんがいかつい顔をしかめる。


「何だよ」

「あ、え、いや」


 棘太はしどろもどろになりながらも、何とかおっさんの周囲に視線を送り部屋の中を確認する。本ばかり多くて散らかっている床。朝抜け出したままの乱れた布団。閉めっぱなしのカーテン。使い古された机。間違いなく自分の部屋だ。


「あの、こ、ここ、俺の」


 いつもより早く胸を叩く心臓が声を震わせる。


「あぁ?」

「すみません」


 棘太はおっさんに気圧され思わず謝ってドアを閉めてしまった。


「いやいやいやいや、あれ、え、俺、え、何? あれ? 夢?」


 棘太は混乱したままドアの前をうろうろと歩き回った。何回も部屋の番号を確認し、アパートの名前を確認し、ポストの中身も確認した。


「そうだ通報だ、通報すればいいのか、いや、いやいや、まずは話をしてみよう。単純にあの人が部屋を間違えてる可能性だってあるし。いや、あ、あるのか、そんなこと、本当に。じゃ、じゃあやっぱり見間違えかもしれない。疲れてるんだ。俺疲れてるんだ」


 自分に言い聞かせるように呟きながらもう一度ドアの前に立つ。手には合格発表を見に来た受験生よろしくお守りのように携帯電話を握っていた。

 そしてゆっくりとドアを開く。


 棘太の視界を遮るように目の前でおっさんが仁王立ちをしていた。恰幅のいいハダカデバネズミは妙に迫力があった。

 今度は躊躇いも無く通報することが出来た。




「すみませんありがとうございました」


 棘太は弱々しく謝辞を述べた。


「まあ、あんまり無理はしないようにね。お兄さん疲れているようだから。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、本当に何かあったらまた来るから。駄目だよー、通報される側になっちゃ。首吊ったお兄さんと再会なんて面白くないからね。ま、元気出して!」


 警察は去り際やけに明るく言っていた。気を使ってくれたのかもしれない。

 しかし問題は何一つ解決していなかった。


 警察が帰った後、棘太は糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。そして頭を抱えうずくまった。


「おい、なあ、大丈夫か?」


 そんな棘太の肩をおっさんが叩く。


「うあああああ!」


 棘太は驚き転がるようにして飛び退ると玄関のドアに背をぶつけた。


「お、おう、何だ何だ、すげえ元気だな」

「な、何だって、お、お前、お前は何なんだよ!?」


 棘太がここまで狼狽するのには訳があった。

 通報した後棘太は外に出てドアを閉め玄関の前で警察の到着を待った。部屋にいるおっさんを拘束して待っているなんてことはとてもできなかった。最悪部屋を荒らされたとしても大した財産を持っていないのでそれほどの痛手ではないし、おっさんが窓から逃げるのならばそれでいいとさえ思っていた。


 警察が来た後、部屋に入って驚いた。おっさんはまだ部屋にいたのだ。六畳間の中心に変わらず胡坐をかいて何かを探すように下を向いていた。しかしそんなおっさん以上に棘太を愕然とさせたのは警察の一言だった。


「誰も居ないじゃないですか」


 どういう訳かおっさんの存在は警察には見えていなかったのだ。棘太が何回必死に訴えてもどうしても信じて貰えなかった。「おっさんはここにいます!」そんな訴えは悲痛に響き、次第に警察が彼を見る目が頭のおかしい男を見る目に変わって行った。それを感じ取った棘太は何とか軌道修正を施し、とりあえずその場を収めたのだった。

 そして今、崩れ落ちた棘太の肩をおっさんが叩いた。


「お、俺が! 俺がおかしいのか!? 俺の頭がおかしくなったのか!?」

「まあ、落ち着けよ」

「お、落ち着けるか! な、何なんだよお前は?!」

「俺か? 俺はそうだな、たぶん妖怪だ」

「は?」

「妖怪だ」

「よ、妖怪?」


 もちろん簡単には肯定できない。棘太の頭の中では、おっさんの言葉を飲み込もうとする自分と、それを阻止しようとする今まで培ってきた常識が戦っていた。しかしその戦いにさっきまでの警察とのやり取りが加勢することになり、結局、棘太の口から裏返った声と一緒に出てきたのはこんな言葉だった。


「な、何て言う妖怪なんだ!?」


 そしておっさんはこの機会を待ってましたとばかりに答える。


毛取けとりジジイだ」


 ポカンと口を開けた棘太。対照的に名乗りを終えたおっさんは満足げだ。


「ま、これも何かの縁だ、しばらく厄介になるぜ」


 しばらく厄介になるぜ。しばらく厄介になるぜ。しばらく厄介になるぜ。

 棘太の頭の中でおっさんの言葉がこだまする。


「はあ!?」

「あ、俺家事全般出来るから、それくらいはやるからよ」


 何もかもが理解の範疇を越えていた。


「はあ!?」


 半ば強引に毛取りジジイは棘太との同居を宣言した。理解の追いつかない棘太は、結局どうすることも、おっさんを否定することも出来なかった。


 とにかくまあこれがハダカデバネズミのおっさんである妖怪毛取りジジイとハリネズミの青年、棘太との出会いだった。

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