食い逃げ狼ラーメン兎

 日はまだ高くも吹く風が肌寒さを感じさせる初冬の昼下がり、川沿いの土手を息荒く走る男が二人。一人は小柄でTシャツ姿、腰には薄汚れたエプロン、頭にはタオルを巻いている。もう一人は細身だが大柄でくたびれたスーツ姿、手には畳んだ眼鏡をバトンのように持っている。


「くそっ!」


 毒づき苦々しく顔を歪め小柄な男が頭のタオルをむしり取る。すると跳ね起きるように彼の頭に二本の長い耳が立った。Tシャツの背中には『らあめん兎』の文字。

 彼はタオルで顔を拭い息も切れ切れ絞り出すように叫んだ。


「ま、待てこらぁ!」


 その声に前を行く大柄な男が三角形の耳を後ろに向け顔だけ振り返った。こちらも随分苦しそうで、牙が見える半開きになった大きな口からはだらしなく舌が垂れ下がっている。

 男はすぐに前を向いて口を閉じ、突き出た鼻で深く息を吸い込み、歯を食いしばって、んんん、と唸り声を漏らしつつ走る速度を上げた。


「あ、逃がさねえぞ、くそがぁ!」


 それに合わせて追う男も強く地面を蹴りスピードを上げる。

 逃げる狼を兎が追いかけ初めて数十分、決着はまだつかない。

 どうしてこんな状況になったのか、時間は少し遡る。



 洗い物を終え厨房を出て、兎は壁掛け時計に目をやった。針は休憩時間の少し前、まだ営業中の時刻を指し示している。

 ここは『らあめん兎』。店主の兎が一人で切り盛りする小さな店だ。繁盛店と言う訳ではないがそこそこ客入りはある。ただ昼過ぎのこの時間帯は大抵客足が鈍くなり、日によっては全く来ないようなこともあった。ちなみに今日はその全く来ない日であり、現在店内に客の姿は無い。


「もう閉めちまうか」


 兎は一つ溜息を吐いて入り口に向かった。

 表に出て暖簾を外す。背の低い彼はそのままだと届かないので先端が二股に分かれた棒を使う。作業中の彼の背を照らす午後の日差しはどことなく気怠い。


 兎が、外した暖簾と一緒に、店内に戻ろうとすると背後から影が彼を覆った。

 振り返り見上げるとすぐ後ろに逆光の中で彼を見下ろす巨大な体躯。

 影の男は眼鏡の奥の瞳を怪しくぎらつかせ牙の見える口を僅かに開け低い声で言う。


「まだ大丈夫でしょうか?」

「あ、ああ、いいよ」


 兎は男の言葉に押されるように返事をしてしまっていた。一瞬彼が感じた剣呑な雰囲気がそうさせたのかも知れない。

 兎は店内の方を向くとばつが悪そうに頭を掻いて小さく舌打ちをした。


「あ、やっぱりもう遅かったでしょうか?」


 その声に兎が振り返ると申し訳なさそうにして背中を丸めている人の良さそうな初老の狼の姿。そんな最初に受けた印象とは違う彼に、自分自身に向けたはずの舌打ちが聞こえてしまったのかと思い、兎は慌てて取り繕う。


「あ、いえ、違うんですよ。ちょっとボーっとしてまして、驚いてしまって、すみません。店内へどうぞ」


 そう言って兎は狼を招き入れる。

 狼は頭を下げ入店すると入り口近くのカウンター席に小さくなって座った。

 狼が注文したのはメニューの一番最初に載っているラーメン。初めから決めていたようでメニュー表を吟味するような様子は見せず一瞥しただけであった。

 その注文を聞き、兎は手早くラーメンを仕上げ狼の前の提供台へのせる。うまい、やすい、はやい、の三項目で兎が一番得意の早業だ。


「へい、お待ち」


 狼は鋭い爪が生えた指を揃え両手でなんだか恭しく丼を持ち、自分の手元に置くと、湯気で曇った眼鏡を外し、手を合わせ、いただきます、と小さく言ってからラーメンを食べ始めた。

 まずはレンゲでスープを一口、続いて箸に持ち替え、良くスープの絡んだ麺をすすり、それぞれの食材と向き合いながら、メンマを、チャーシューを、煮卵を口に運んでその滋味を余すことなく味わうように咀嚼する。何回かそれを繰り返したあと具が無くなると最後は丼を持ち上げて愛おしそうに残りの一滴までスープを飲み干した。

 そんな狼の食べる姿に兎は思わず見入ってしまっていた。


「ごちそうさまでした」


 一息吐き顔を上げた狼と兎の目が合う。

 一拍の沈黙のあと「な、何か?」と狼に聞かれて兎は我に返った。 


「あ、いや、あんた美味そうに食べるね」

「あ、ああ、ラーメンは久しぶりでして、それに本当に美味しかったですから」

「そうか」


 少々照れ臭く感じた兎が目を逸らすと狼が小さく「あ」と声を漏らす。

 兎がその声に反応してもう一度狼を見ると、彼は数度咳払いをしてから兎と目を合わせ、こう言った。


「兎のくせに」

「……ん?」


 すぐに理解が及ばず聞き返した兎に狼はさらに言う。


「う、兎のくせに、まあまあなラーメンを作るんだなと、お、思いまして、まあ、少し兎臭くは、あ、ありましたが」

「あ?」


 兎はラーメン作りだけではなく怒りのボルテージが上がるのも早かった。


「おい、今なんつった?」


 狼は一瞬耳を後ろに伏せ怯んだ様子を見せるも、席から立ち眼鏡を掴み真正面から言い返した。


「う、兎臭いラーメンだと言いました」

「ああ!? てめえいきなりどう言うつもりだ!?」

「だから……」

「だからぁ!? なんだぁ!?」

「お金は払いません!」


 その一言を最後に狼は駆けだす。衝突するくらいな勢いで入り口へ行き何回か空振りをして爪を擦る音を立てながら慌ててドアを開け店を飛び出した。


「は?」


 あまりに突拍子の無い事態に兎は最初何が起きたのか分からず、ただ狼が出て行った入り口を見ていた。


「あ?」


 だけどそう長くかからず異常事態の正体に気が付く。


「食い逃げか!」


 幸い休憩時間前だったこともあり狼の分を作ったあとに火は消してある。暖簾も先程外したので新規の客が入って来ることもないだろう。兎は躊躇わずに厨房を、そして店を飛び出した。

 しかしほんの僅かでも出遅れたのは致命的で、兎には狼が店を出てどちらに行ったのかも分からない。

 やられた。

 兎は内心そう思いながらも怒りのままに辺りを見回した。

 すると一方の道の先の曲がり角からひょっこりと狼が顔を出した。兎が追って来ているかどうかを確かめたかったのかも知れない。


「見つけたぞ!」


 兎はそんな狼の姿を捉えるとそう叫んでそちらに勢い良く駆けだした。狼も慌てた様子で引っ込んだ。

 こうして二人の追走劇は始まったのだった。



 それから兎と狼の追い駆けっこはしばらく続き現在へと至る。兎の怒りと執念がそうさせた部分もあるのだが、追走劇がこんなにも長く続いたのは狼の行動にも一因があった。曲がり角や障害物、ともすればそこで逃げおおせてしまいそうな場面場面で狼はいちいち兎を誘うような動きを見せていたのだ。実際その効果は大きく、この状況を維持するだけでなく、兎の怒りを持続させることにも成功していた。


 そうして付かず離れず絶妙な距離を保っていた追走劇だったが、見晴らしのいい直線が続く土手の上と言う状況もあってか、ここに来て明らかに差が縮まって来ていた。元々狼より兎の方が体力的に勝っていた、と言うこともあるのかも知れない。

 兎はここぞとばかりにさらにスピードを上げる。

 狼も必死の形相で力を振り絞り走る、が、ついに足をもつれさせ倒れ込んだ。

 兎はすぐさま狼に追い付くと荒げた呼吸のまま、うつ伏せに倒れた彼を力任せにひっくり返し、その体に跨り胸倉をつかんで引き起こした。


「てめぇ……!」


 兎はその時まで気が済むまで怒鳴り殴り付けてやろうかとさえ思っていた、だが目の前にした狼の様子がどうにもおかしかった。

 苦しそうにしている。それも走り疲れてとかそんなレベルではないくらいに。顔は血の気が引き真っ青、体も痙攣を起こし、終いには口からラーメンを、そして泡を吹き始めたのだった。

 流石に兎も尋常じゃない狼の様子に焦りの気持ちが芽生える。


「お、おい、なんだどうした、おい!」


 兎が強く呼びかけるも狼はだらしなく舌を垂れ下げ苦しそうに呻くばかりでほとんど意識を失っているような状態だった。


「おい! 大丈夫か!? おい! きゅ、救急車、すぐ救急車呼ぶから待ってろ!」


 兎はそう言って駆けだす。いつの間にか兎の顔も血の気が引いていた。



 見上げる先には大きな白い建物、兎は病院に来ていた。

 あの後、狼は兎の呼んだ救急隊によって病院に運ばれ、兎は警察による事情聴取を受けた。数日後、警察から改めて連絡があり兎は狼についての情報を一通り知らされる。その情報を元に、今日、彼は狼が入院しているこの病院に来たのだった。


 個室の病室、兎がドアを開けると狼は起きていたようで上体を起こした。転んだ時の傷を治療した跡と、腕には点滴の針が刺さっていて、痛々しく、先日よりもやつれている様子も見て取れる。


「ああ、あなたでしたか、その説はすみませんでした」


 狼が兎を見て言った。


「あ、いや……」


 兎はこうして彼の前に来たものの、どう言う態度を取ればいいのか分からなかった。食い逃げの件に関して言えば、時間が経っていることもあり怒りの熱は冷めてしまって、むしろ自分がしつこく追いかけたせいで倒れたのかも知れないと言う後ろめたささえ感じ始めていた。それに警察から聞いた狼の情報も兎の感情を惑わすものだった。

 大手企業に勤めていた狼、昨年定年となり退職。現在無職。持病の悪化により入院中。身寄り無し。


 兎は狼に促され病室に入る。椅子を勧められたが座らなかった。

 狼はそんな兎に自分からぽつりぽつりと身の上話を始めた。

 今まで家族も友人も顧みず、仕事ばかりしてきた人生であったこと。そのせいでみな失ってしまい、自分の体さえも壊してしまったこと。夢も目標も趣味もなく、結局お金だけが残ったこと。そして、どうせなら死ぬ前に一度やってみようと思ったこと――食い逃げ。


「バカみたいですよね、なんででしょうか、無性にやってみたくなったんです。ずっと昔にテレビドラマか何かでそう言うシーンがありまして、それを見て自分なら逃げ切れると思ったのを何故か思い出したんですよ。何にもなくなって最後に残ったのがそれだったんです」


 狼はそこで少し笑って続けた。


「年甲斐もなく胸が高鳴りました。こんな風に思ってはいけないのでしょうが、あなたが追いかけて来てくれた時は嬉しかった。何年振りかに尻尾をブンブンと振っていました。ただあなたには本当に悪いことをしたと思っています。すみませんでした。お金は今払います、迷惑料も加えて。改めて訴えていただいても構いません」


 兎は狼の自分勝手な言い分に腹も立ったが、同情のような気持ちも抱いてしまい、怒りを上手く表に出すことができなかった。

 兎は強く拳を握ると、一度舌打ちをして、拳を解いた。


「そのドラマ俺も見たことがある。俺は、俺ならもっと早く捕まえられると思った。迷惑料だ。ふざけるな。金はラーメン代だけ自分の足で店に払いに来い。それまではツケといてやる」


 言い切って憮然と病室を立ち去ろうとした兎。


「私を責めないんですか?」

「弱った狼をいたぶる趣味はない」

「またお店に行ってもいいんですか?」

「うちは狼お断りなんて店じゃねえ」

「私は、また、逃げるかも知れませんよ」

「だったら今度はもっと早く捕まえてやる」


 兎は振り返らずに尻尾を狼の方に向けたままそう言って病室をあとにした。



 数年後、昼下がりのラーメン屋。店内に客は無く、店主も暇そうに新聞を広げている。入り口の戸が開く音がして店主がそちらを見やると、そこに居たのは見知った顔か、店主は僅かに口元に笑みを浮かべた。


「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

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