喫茶熊

 古ぼけた簡易公衆電話の受話器を置くと、ガチャリとなんとも味のある音が玄関脇から静かな店内に響いた。レトロな物品に特別興味がある訳ではないが、開業当初から使っているこのピンク電話には少なからず愛着がある。とは言え今じゃお客からの電話などほとんどなく、店員間の業務連絡くらいにしか使っていない。ちょうど今の電話もそうだった。電車も止まってしまったので無理して来なくていいとアルバイトに伝えたのだ。

 一つ溜息を吐いて視線を送る。ガラス張りのドアの向こうは、一面に、いや空気まで白く煙って見える。数年ぶりの大雪なのだとか。

 どう転んだって今日は暇だな。

 町の外れの小さな喫茶店。わざわざこんな日に来るような場所ではない。とは言え、来るものがないとも言い切れないので店を閉める訳にもいかない。普段から山小屋のようだと言われているので、案外こんな日こそ似合っているのかも知れない。

 ドアに掛かったコルク製のプレートを『OPEN』に変え、とりあえずもう一つ溜息を吐いてから仕事に取り掛かかるため厨房へと向かった。



 寒いな。

 湯気を出すガス台のコーヒーポットに手をかざす。

 暖房は入っているが予想通り暇なので体が温まらない。朝の仕事も一通り終えてしまった。目の前のカウンター席にも奥のテーブル席にも客の姿はない。間接照明が照らす薄暗い店内ではBGMのクラシックがなんだか虚しく流れている。ガラスの向こうは相変わらずの雪。

 食器でも磨くか。

 鈍く輝くティースプーンが目に入りそう思った。始めるとそこそこ時間を取られるのでこういう日には持って来いの仕事だ。

 手を擦りつつガス台から離れシンクの下から磨き粉を取ろうとしゃがんだ時、カランカランと入り口の扉が鳴った。


「いらっしゃいま、せ……」


 しゃがんでいたせいもあるのだが随分と大柄な人に見えた。マフラーに顔を深く埋め、コートを着て帽子を被っている。傘は持っていないようで肩と頭に雪が積もっていた。


「すごい雪ですね」


 と、玄関で雪を掃い、帽子とマフラーを取るそのお客。コートを脱いで片手に持ち、ギシリと板張りの床を鳴らして玄関から店内に上がる。立ち上がった自分が見てもやはり大きい。

 驚いているのが伝わってしまったのかお客は低い声で言った。


「あ、すみません、熊はお断りですか?」


 今日、初めてのお客は熊だった。


「あ、いえ、大丈夫です」


 と言ったものの本当に大丈夫なのだろうか。熊のお客は今日だけでなく開店以来初めてだった。

 熊はのしのしと体を揺らしながら歩き、手近なカウンター席に座った。大きく椅子の軋む音が聞こえた。

 珍しい光景だった。熊がカウンター席に座っている。大きな体を丸めてきちんと腰掛けている。

 もちろん熊が来店した時の特別なマニュアルなどないので、いつものようにお冷とメニューを出す。


「ホットコーヒーをお願いします」


 すると熊はメニューを見ずにそう言った。

 目の前の熊は座っているのになお大きい。


「あ、はい、かしこまりました」


 熊の見つめる前で作業を始める。例えお客が熊だろうとやることは変わらない。

 コーヒー豆を電動ミルに入れ、ガーガーと豆を削り、出来た粉をコーヒーサーバーにセットしたフィルターに入れる。中身を均一にならし、そのあとポットからお湯を注ぎ一時蒸らす。フィルターの中でこんもりと粉が膨らみ柔らかいコーヒーの香りが広がった。


「良い匂いですね」


 大きな鼻を突き出しながら熊が言った。


「私ね、ずっとこの店に来てみたかったんですよ」

「そう、なんですか」


 相槌もそこそこに作業を続ける。作業中になるべく喋らないと言うのも、例えお客が熊でも変わらない。

 コーヒーを蒸らしている間に食器棚へ。熊に似合うカップはどれなのかと一瞬頭を過るもなるべくいつも通りに考え手早くカップを選びガス台で火に掛かったままの湯煎容器に入れる。選んだ食器はシンプルな白。それから蒸らし終わった粉に改めてお湯を注ぎコーヒーをおとす。

 ちらりと熊の方を伺い見ると鼻をひくつかせながら楽し気に微笑んでいるような顔が見えた。何故か昔飼っていた大型犬を思い出した。

 おとし終えたコーヒーを小鍋に移し火に掛けたところでまた熊が口を開いた。


「実はここ私たち界隈じゃ結構有名でしてね」

「はあ……、恐れ入ります。有名、なんですか?」

「ええ」


 私たち界隈? 熊の間と言うことだろうか? でも熊なんて他に来たことはない。


「狸とか河童とか、来たことありませんか?」

「……いえ」


 狸も河童も店で見たことはない。


「ああ、あいつら化けるのうまいから、狸っぽい人間とか河童っぽい人間とか」


 そう言われてみると、そうだな、確かに妙にそれっぽい人ならいる。まさかあのお客たちが狸と河童?


「マスター、コーヒー!」


 熊のその声で手元のコーヒーが沸騰して噴きそうになっていることに気が付いた。


「おっと……!」


 慌てて小鍋を火から外す。


「すみません」

「いえ、こちらこそ作業中に話しかけてしまって」


 互いに会釈を交わした。

 気を取り直して湯煎の済んだカップを拭き、今度は少し冷ましたコーヒーを注ぐ。湯気と共にコーヒーがふわっと香る。


「お待たせしました」


 カップをセットの白いソーサーにのせ熊の前に提供する。

 目を輝かせながら身を乗り出すようにしてこちらを見ていた熊がその動きに合わせて座りなおすと、また椅子が音を立てた。

 歓声こそあげなかったが表情をほころばせ、なんだか牙に似合わない顔をする熊。

 続いてコーヒーフレッシュを出そうとすると「ブラックで結構です」と断られた。


「では、いただきます」


 熊はコーヒーに顔を近付け大きく鼻で息を吸い込み少し溜めるようにして、はぁと口から吐き出した。それからカップがすごく小さく見える大きな手で器用に取っ手を摘まみゆっくりと口に運ぶ。

 白いカップが黒い熊の毛並みと妙に調和がとれている、選んだカップは正解だったなと思う。

 コーヒーをすすり喉を鳴らす熊。

 そう言えば熊は猫舌ではないのだろうか?

 疑問に思うが今は話しかけない方がよさそうだった。

 熊は時間をかけコーヒーを飲み干すとウットリとした顔で深く息を吐いてカップを置いた。


「やっぱり来てよかった」

「ありがとうございます」

「私ね、本当は冬ごもり中なんです。でも今年はね、秋に、ほら、さっき言った狸にコーヒーを貰いまして、私そのとき初めてコーヒーを飲んだんですけどね、これがおいしくて」


 熊は楽しそうに話す。


「狸が喫茶店で飲んだほうがもっとおいしいって言うもんだから、それになんだか眠れなくなってしまって。せっかくだからこの機会にお店まで行ってみようかなと思いまして。それで今日」

「はあ、そうなんですね」

「来てよかったですよ、本当に」


 ふと気になって聞いてみた。


「失礼ですが、今日はどうやってここまで来られたんですか?」

「ええ、そうですよね、気になりますよね。実は私たちみたいなのの専用のバスがありまして」

「バスですか」


 初耳だ。と言うことは結構いるのだろうか。なんと言うか、この熊や、狸や河童のような。


「はい、まあ、それでもバスを降りてからここまでは少し歩くんですが」

「大丈夫でしたか?」

「ええ、私も少し不安はあったのですが、狸や河童みたいにうまく化けることもできませんし」

「はあ」

「でも、あれですね、都会の人は、すれ違う人の顔なんていちいち見てないみたいで、意外と大丈夫でした。こんな雪ですし」


 確かにそうかもしれない。都会と言えるほどの町ではないが。


「それに、マスターも」

「え?」

「だって私、熊ですよ」

「いえ、まあ……、確かにここらへんじゃ珍しいですが、あ、すみません。こう言うと失礼ですね」

「いえいえ、その通りですから」

「でもまあ、扉を開けたら営業か身内以外は皆さんお客様ですし」

「はは、いいですねそれ」


 まあ、その通りだなと、咄嗟に言ったわりに自分でも何か納得してしまった。

 それから熊はおかわりを頼み、その最後の一滴まで本当にうまそうにコーヒーを飲んだ。


「さて、そろそろ行こうかな、あんまり長居しちゃうと迷惑ですし」

「そんな、大丈夫ですよ」

「おいくらですか?」


 金額を言うと熊はコートのポケットから硬貨を取り出しカウンターの上に置いた。


「本物ですよ、ちゃんと両替商もあるんです」


 と熊は、にやっと笑った。私もつられて笑ってしまった。

 席を立ちコートを着て帽子を被りマフラーに再び顔を埋めた熊は、のしのしと入り口へと歩いて行った。

 自分も見送るために厨房から出る。


「おいしかったです、本当」


 玄関を開ける前に熊は振り返りそう言った。

 目の前に立つと本当に大きいが、少し屈んでくれているので顔の位置はそんなに遠くない。


「ありがとうございます。あの、良かったらお名前聞いてもいいですか?」


 これもちょっと気になっていたのだ。


「私ですか? 小熊と言います。小さいに熊で、おぐま」

「小熊、さんですか……」

「あ、今こんなにでかいのにとか思ったでしょ」

「あー、ええ、すみません」

「いいんですいいんです。大体みんなそう言いますから」


 と笑いながらドアに手をかける。


「ありがとうございました、またいらして下さいね」


 建前ではなく本当にそう思っていた。こんな行儀の良いお客なら大歓迎だ。


「ええ、また雪の日にでも」


 優しい顔でそう言って小熊さんは白く煙る町へと消えて行った。

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